マーケット・金融異次元緩和を問う

遅れて乗った中央銀行万能論 黒瀬浩一/11 

黒瀬浩一(りそなアセットマネジメント運用戦略部チーフ・ストラテジスト)
黒瀬浩一(りそなアセットマネジメント運用戦略部チーフ・ストラテジスト)

 日本銀行が“異次元”金融緩和に踏み出して9年半。実験的政策の帰結から何をくみ取るべきかを識者に問う。ストラテジストの黒瀬浩一氏は、世界的にリスクがデフレからインフレへと転換するなか、日銀は複数のシナリオを想定して発信・行動すべきと指摘する。>>これまでの「異次元緩和を問う」はこちら

 運用成果で負けなしのストラテジストと評される。その秘訣(ひけつ)は、短期の相場に振り回されず、時代の大きな流れを捉える視座にある。異次元緩和はどう映るのか。

黒瀬 日銀が異次元の金融緩和を導入した当時、世界的に「中央銀行万能論」といえる雰囲気があった。2008年のリーマン・ショックと10年の欧州債務危機に対し、金融緩和で乗り切ることに成功していた。「インフレは起きても金融引き締めで止められるが、緩和が不十分であれば、日本のようにデフレ均衡に入ってしまうから、デフレこそ避けなければならない」と考えられていた。

 日本もその流れに遅れて乗り、13年に異次元金融緩和が始まったこと自体は、当時の時代環境からすれば正しかった。

 米欧では金融緩和が効いたのに、どうして日本では効かなかったのか。それは、表面の原因と結果の裏に付帯条件があるからだ。付帯条件が整っていなければ、結果は出ない。金融政策に限らず、米欧の政策を日本に導入した際に往々にして起きることだ。

 金融緩和が効果を及ぼす付帯条件として日本に欠けていたのは、インフレ期待と金融機関のリスクテーク、それに賃金上昇だ。

 15年6月の黒田東彦日銀総裁のピーターパン発言(「飛べるかどうかを疑った瞬間に永遠に飛べなくなってしまう」と政策効果を信じる姿勢を強調)の頃には、私は異次元緩和を手じまうべきだと考えていた。

 しかし当時、株式市場で盛んにいわれていたのは、「日銀が緩和を手じまえば株価が下がる」との脅しだった。株価上昇の要因は1株当たり利益の向上だが、短期の需給要因ばかり強調する市場を日銀は気にしたのだろう。

無謬性と慣性

 その先の日銀は、説明が支離滅裂になった。異次元緩和を始めた当初こそ、政策の考え方を言葉で示し、行動を示し、KPI(重要業績評価指標)を示すというスタイルをとっていたが、以前の裁量的なやり方に戻った。国債の買い入れ金額は、いつのまにか減った。長期金利(10年物国債)の誘導上限も当初は0.1%だったが0.2%、0.25%と説明もなく引き上げた。この変更は文書にないが、マーケットの人々は記憶している。日銀は市場が勝手に受け取っただけだと言わんばかりだ。

 元の日銀に戻っただけなので、実はマーケットからはそれほど不満の声は上がらない。官僚の無謬(むびゅう)性に近く、うまくいけば自分の手柄、失敗したら知らん顔。今は慣性で続けているだけだ。今後、問題が起きたら「始めた黒田総裁の責任」となるのだろう。

 皮肉にも、日本が「中央銀行万能論」に遅れて乗ったところで、世界の潮目が変わった──と黒瀬氏は見る。インフレの到来だ。一過性なのか、それともパラダイムシフトなのか。

黒瀬 これまではデフレこそがリスクで、インフレを恐れる必要はなかったが、完全に構造が変わってしまった(図)。東西冷戦が終わって以来、30年間続いたグローバル化の時代が逆流している。

 この間、中国経済が勃興し、中国から安いモノが輸出された。またICT(情報通信技術)の革新もあり、オフショアリング(事業の海外移転)が進んだ。米国のシェールガス革命でエネルギー価格も低下した。

 しかし、米中対立からグローバル化が反転し始めた。経済安全保障が取り沙汰され、リショアリング(製造業の国内回帰)が唱えられている。脱炭素でエネルギー開発投資にもブレーキがかかった。

 これまでの低金利と低インフレは、歴史的にもまれな特殊な条件がそろったから実現できただけだった可能性が高い。しかし、明確に逆回転し始めた。インフレを制御できるかどうかは、国によって分かれてくるだろう。

 厳しいのが英国だ。ストライキを許容し、賃金上昇が激しい。米国が追随する可能性がある。歴史的に、英国は米国よりも社会の風潮が一歩先をゆくケースがある。たとえば、米レーガン政権が登場する前に英サッチャー改革があった。米国のインフレ率は現在の8%台から下がったとしても、5%で定着する確率は十分にある。

 このようなリスクについて、投資の世界の人間は常に、確率分布で考える。米国のインフレ率が、今後何%になるのか。現在の8%台より下がる方の確率が高いが、8%から上がる確率もゼロではない。グラフの横軸にインフレ率をとると、確率が山を描く。異次元緩和が始まった時も、「インフレ率はゼロのままかもしれないが、一定程度は2%になる可能性がある」とマーケットの人々は考えた。

 確率分布を決める要因は複数ある。その要因がどの程度、影響するのかウエートづけをしている。事態の変化に応じてウエートづけが変わり、リスクの確率分布も変わってくる。要は多変量解析だ。

日銀に欠ける確率思考

 一方、日銀は「この政策をやれば、このような効果がある」と直線的に説明する。リスクの確率分布と要因について掘り下げた説明はない。内部では検討しているのかもしれないが、表に出てこない。調査リポートにしても、執行部の意向に沿った内容ばかりだ。

 しかし、この先行き不透明で、将来予測が難しいVUCAの時代に、事前の予想なんてどうせ外れる。日銀のリスク確率分布を決める要因が10個あるなら、すべてウエートとともに出してもらった方がマーケットの人々の理解も進む。自分の考えと照らし合わせて、「この要因は軽視していたから見直さなければならない」と修正する。それこそが市場とのコミュニケーションだ。日銀は、「我々はこう考えている」と伝えることをコミュニケーションだと思っているようだが、そうではない。

 確率分布を出発点にすると、考え方も行動も市場とのコミュニケーションも、全てが変わるはずだ。物価の要因としては、ウクライナ戦争、そして中国のスタンスといった国際情勢の変化が大きいことを認識しなければ、金融政策は考えられない。金利が上がる確率が一定程度あるとなれば、これまで買い入れてきた国債による損失にどう対応するかという問題と向き合わなければならない。

 正しいのは日銀ではない。市場だ。市場は、短期的には行き過ぎたりすることもあるが、結果的には正しい。市場の価格発見機能に対する信頼感が欠けている。

(ストラテジスト 黒瀬浩一)

(構成=黒崎亜弓・ジャーナリスト)


 ■人物略歴

くろせ・こういち

 りそなアセットマネジメント運用戦略部チーフ・ストラテジスト、チーフ・エコノミスト。1964年生まれ、87年大和銀行(現・りそな銀行)入行。99年より信託財産運用業務に従事。著書に『時代の「見えない危機」を読む』。


(次回の掲載予定は11月22日号)

週刊エコノミスト2022年11月1日号掲載

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