長期金利操作は突然やめるしかない ステファン・チェケッティ/10
日本銀行が“異次元”金融緩和に踏み出して9年半。米国の経済学者ステファン・チェケッティ氏は、日銀が長期金利操作という異例の手段ゆえに、徐々に出口に向かうことはできないと指摘する。(聞き手=渡辺賢一郎・武蔵野大学教授、元日銀金融研究所長)»»これまでの「異次元緩和を問う」はこちら
── 欧米の中央銀行が金融引き締めに転換するなか、日銀は金融緩和を堅持する方針を示している。この点をどう評価するか。
チェケッティ 日銀は当面、量的質的金融緩和(QQE)を継続すべきだ。足元の消費者物価(総合、前年比)は2%を上回っているが、基調的なインフレ率は2%に達していないとみるべきだ。
日本におけるインフレ率の上昇は、ほとんどが供給面の要因を反映しており、真に必要とされている需要面から物価を押し上げる力は弱い。2%というインフレ目標を重視するのであれば、このような状態の下で、総需要を抑制するような政策は取るべきではない。
また、コロナ対応が一段落すれば、財政政策は引き締め方向に向かうと予測されている。中央銀行は自らの職分をわきまえているので、表立って財政政策に注文を付けることはないが、日銀の政策委員会メンバーは当然、こうした財政政策の将来予測も織り込んで金融政策を決定しているはずだ。
円安は基本的には歓迎すべきだろう。為替レートの変化は、金融政策が物価に影響を及ぼす際の政策伝達経路の一つとなる。
── 日銀のこれまでのQQEをどう評価するか。
チェケッティ 導入から10年近く経過しても2%のインフレ目標を達成できていないが、政策に全く効果がなかったとはいい切れない。QQEを行わなければ、もっと状況は悪くなっていた可能性がある。
そもそも金融政策のみで物価目標を達成することは難しく、財政政策との協調が必要だった。しかし実際には、日銀がQQEを実施している間、コロナ禍の期間を除けば、日本の構造財政収支(景気循環要因を除く財政収支)は消費税率引き上げなどを反映して縮小しており、財政政策はむしろ緊縮的だったといえる。
確かに日本の政府債務残高は大きいが、実質成長率が実質金利より高い現状においては、政府債務は持続可能だ。私は、まだ日本には財政拡張の余地がいくらか残っていると考えている。
── QQEの副作用は何か。
チェケッティ QQEが10年という長期にわたって継続し、日銀が国債の半分以上を保有するような状態の下で、民間金融機関は金利リスクや流動性リスクなどを適切に管理するインセンティブ(動機付け)や能力を失ってしまった。事実上、日銀が金利リスクを引き受けているような状況が慢性的に続いているからだ。
金融市場の機能を支えるノウハウや人材はいったん失われてしまうと、取り戻すのは容易ではない。仮に金融市場が大きなショックに見舞われた場合、あるいは将来、出口に向かう場合に、金融システムの安定性が脅かされるリスクが高まっているのではないか。
突然か、すべて買うか
── 仮に将来その条件が整った場合、日銀は「出口政策」をどう進めるべきか。
チェケッティ まず、日銀は他の中銀とは異なり、イールドカーブ・コントロール(長短金利操作、YCC)という極めて異例の政策を採用していることを忘れてはならない。この異例の政策を停止するには、政策決定の前日までは何もほのめかすことなく、ある朝突然、停止を宣言するしかないだろう。
現在の日銀が置かれた状況は2015年当時のスイス中銀を想起させる。スイス中銀は11年以降、為替市場への無制限介入によってスイス・フランの対ユーロ為替レートを固定していたが、15年1月15日にこれを突然撤廃し、スイス・フランは暴騰した。この時、スイス中銀総裁は政策決定前日のインタビューでも固定レートの堅持を強調していた。
私は、黒田東彦総裁がいま金融緩和を継続すべきと強調しているのは本音だと思っているが、かといって、中銀総裁の言葉を常に額面通りに受け取るわけではない。
── 出口政策は徐々に市場に織り込ませた方がよいのではないか。長期金利の急激な上昇は、金融市場や金融機関経営への影響も大きい。長期金利の上限を0.25%から少しずつ上げたり、対象の年限を10年からだんだん短くする方法も考えられる。
チェケッティ それは不可能だ。例えば、1週間後の政策決定会合でYCCを停止しそうだという期待が生じれば、市場は一斉に国債を売り浴びせ、日銀がすべて購入せざるをえない状況に追い込まれるだろう(図)。徐々に修正しようとしても、政策スタンスを変えたと市場の期待が変わったとたんに皆が1秒でも早く売ろうとするから、同じことが起きるだろう。
もちろんYCCの停止宣言に伴って長期金利が急騰し、それが金融機関経営に影響を与えることは避けられない。しかし、それは個々の金融機関が適切にリスクに備え、金融監督当局や中央銀行がストレスチェックなどを通じて検証しておくべき問題だ。
誰が金利リスクを負担?
── 出口のプロセスで生じる中銀のバランスシート(資産・負債)毀損(きそん)の問題はどの程度懸念すべきか。中央銀行が債務超過に陥ることがないように、政府が損失補填(ほてん)や資本注入を行う枠組みをあらかじめ構築しておくべきだろうか。
チェケッティ まず中銀のエコノミストを経験した立場として言わせてもらえば、中銀のバランスシートは政府のバランスシートの一部とみなすこともできるので、中銀単体として損失が生じても債務超過になっても本質的には問題ない。政府同様、中央銀行の目的は商業的な利益を生み出すことではなく、社会厚生を最大化することだからだ。
しかし、実際にそれが問題になるかどうかは、各国の中銀を取り巻く環境によって異なるだろう。仮に日銀が債務超過に陥った場合に、政府、金融市場、メディア、一般国民がどう捉えるのか、それが日銀に対する信認や独立性にどう影響するのかという点が重要だ。したがって、政府による損失補填や資本注入の枠組みが必要かどうかも一概にはいえない。
日本に即して付け加えれば、金利上昇に伴うリスク・損失は結局、誰かが負担しなければならない。民間金融機関が全て負担するのか、日銀も一部負担するのかという問題と捉えることもできる。
── 出口政策のゴールはどこにあるか。日銀のバランスシートの規模がどこまで縮小すれば、金融政策が正常化したといえるのか。
チェケッティ 中銀当座預金に対する需要は不確実性が高い。流動性に関する規制の強化などもあって、民間銀行の流動性管理が大きく変化しつつあるためだ。ある程度まで当座預金を減らした後は、市場の反応に注意を払いつつ、トライ・アンド・エラーで均衡点を探っていくしかないだろう。
(経済学者 ステファン・チェケッティ)
(翻訳=才木あや子・日本大学准教授)
■人物略歴
Stephen Cecchetti
米ブランダイス大学教授。経済学博士(UCバークレー)。オハイオ州立大学教授、米ニューヨーク連銀エグゼクティブバイスプレジデント、国際決済銀行(BIS)金融経済部長などを歴任。
※次回の掲載予定は11月1日号