マーケット・金融異次元緩和を問う

経済学のおきて破りの今は維持不能 齊藤誠/12

齊藤誠(名古屋大学大学院経済学研究科教授)
齊藤誠(名古屋大学大学院経済学研究科教授)

 日本銀行が“異次元”金融緩和に踏み出して9年半。齊藤誠・名古屋大学教授は、予想に反して持ちこたえる現状とその先を捉えようと、あえて標準理論の前提を外して分析した。壮大な実験的政策の帰結をもとに、日本から経済学をどうアップデートできるのか。>>これまでの「異次元緩和を問う」はこちら

齊藤 「こんな政策をやったら、大変なことになる」。そう思い始めたのは異次元金融緩和のはるか前、1990年代末にゼロ金利政策が始まった頃だった。「いずれ物価や長期金利がはね上がり、経済体系が混乱するのは当然」と経済学者としての常識と直感から発言していた。

 しかし四半世紀、金利が低いなかで物価が安定した状態が続いてきた。政府債務が膨らんだのに、財政学者が唱える財政破綻の気配もない。僕のようなスタンスはオオカミ少年になってしまった。

「ちょっと待てよ」と思ったのは2014、15年ごろだった。僕は今の政策を支持する人を「理論がない」と批判してきたが、自分自身も確固たるモデルを持って現実の経済に接していたわけではなかった。思い上がっていた。

 これほどの借金を抱えた国家で、金利と物価がここまで落ち着いていることは世界史を振り返ってもない。現状がどんな条件で支えられているのか。その条件はどんな時に崩れて、何が起きるのか。経済学の厳密な言葉で説明しなければならないと思った。

 直接、現状を分析しづらかったので、まず日銀が誕生した19世紀後半から歴史をたどった。日中戦争が始まった1937年から太平洋戦争が終わる45年にかけての期間は、今と同じように多額の政府債務と貨幣発行のもとで金利と物価が保たれていたが、敗戦で一挙に崩れた。

戦時中との共通点

 なぜ、敗戦の日までは大丈夫だったのか。統制経済だったからといわれるが、政府が経済を完全に掌握していたわけではない。貨幣と国債の受け皿があったのだ。

 日銀券を積極的に保有したのが、闇市のディーラーだ。匿名性のある日銀券は価値貯蔵手段となった。政府債務の受け皿は、国民の強制貯蓄だ。給料が天引きされて郵便貯金や国債投資に回り、平均消費性向は4割以下だった。そして、占領地や植民地の発券銀行が事実上、日本政府の国債を引き受け、現地で銀行券をばらまいた。

 この三つの受け皿が敗戦と同時に突然消えた。政府には国民に強制貯蓄させる力がなくなった。闇市のディーラーは旧券が回収されるとなると、日銀券を土地や実物資産に替えた。植民地は日本から切り離された。敗戦直後の半年で物価水準は4倍強上がった。

 今の日本経済も戦時中と同じように、貨幣や国債の受け皿があるから物価も長期金利も上がらないのではないかと考えた。背後のメカニズムは違うとしても、現象は同じではないか、と。

 だが、標準的な経済学のルールに従ってモデルを作ると、どう考えてもその状態を説明できない。そこで、おきて破りを始めた。

 一つは、政府債務が将来の税収で裏付けられているという制約を外した。裏付けがあるのは国債の一部で、他は返済をずっと先送りしている。返済の裏付けがなければ、理論上は国債の価値が暴落して長期金利が上がるか、物価が上がるはずだがそれが起きていない。もう一つ、家計が生涯資産、つまり人的資本と金融資産を使い切るという制約も外した。すると政府が返済を先送りした借金と、家計が使い残した資産が一致する。

 理屈では、戦時中の強制貯蓄と同じように、国民が消費を断念した裏返しで国債を支えていることになる。今は自主的で、物価が安定し、金利がほぼゼロの状態では資産の先送りが合理的となる。

 加えて、各市場の需給はそれぞれ一致するという制約も外した。すると、財や労働市場で超過供給、過小需要となっている分が、貨幣と国債の超過需要に相当する。

 これほどまで財政金融政策を展開しても、消費を中心に需要は低迷してきた。各市場が均衡していれば起きないことだが、不均衡を認めると、消費の低迷と、皆が活発に貨幣や国債を持とうとすることはコインの裏表だと分かる。

 今の状態は、微妙な均衡で支えられている。それが良い均衡だとは思わないが、よかれと思って無理に金利を上げたり、消費や投資を促進したりすると、均衡を支えているものを壊しかねない。だから、現状を追認するしかないというあきらめも生まれるのだろう。

 だが、今の凪(なぎ)の状態は長期的に維持可能なものではない。僕は一時的な不均衡を認めても、最後には帳尻が合うとする標準的な経済学に立ち返る。借金は返し切るし、資産は使い切るし、各市場は需給均衡する。帳尻合わせを迫られた時に何が起きるのか。凪の先に待っている荒波の状態を説明しようとしてきた(図)。

 齊藤氏が日本経済の今に向き合うきっかけは、11年の東日本大震災を機に没頭した原子力発電の研究だった。15年に刊行した『震災復興の政治経済学』にまとめている。

危機に備えていた原発技術者

齊藤 東京電力福島第1原発で起きた程度の事故は、実は専門家は予測していた。理にかなった危機対応マニュアルも作られていた。さまざまな経緯があり、実際の対応には生かされなかったが、技術者の中に少数派とはいえ、安全運転に全力を尽くしても原発事故が起きうると考えた人たちがいたことに僕は感銘を受けた。

 自分は専門であるマクロ経済現象について、あのような精度で危機対応マニュアルを書ける知見を持っているだろうかと省みた。

 原発は70年代に立ち戻って考えれば、取るべき発電方法ではなかったが、始まってしまったものだ。異次元金融緩和も、政治的圧力や思惑、社会の雰囲気のなかで我々は踏み込んでしまった。誰もそれを押しとどめることはできなかった。そうであれば、淡々と今何が起きているか、将来何が起きうるのかを考えるしかない。この作業に足掛け7年かかった。

 経済学のおきてを破っているから、海外のジャーナル(学術雑誌)には採用されない。研究者はジャーナルに査読論文が載らなければ業績として認められないが、書籍で出さざるをえなかった(『Strong Money Demand in Financing War and Peace』──戦時・平時における旺盛な貨幣需要:日本の事例検証、21年)。日本語でも本を出す。

 戦時中から戦後の経緯をたどると、敗戦が見え始めた頃の経済官僚や経済学者は腹がすわっていたと思う。起きる事態も、どう対処しなければならないのかも想像できていた。そうでなければ、敗戦国を立て直せなかった。それに比べて、今の我々は能天気なのかもしれない。

(マクロ経済学者 齊藤誠)

(構成=黒崎亜弓・ジャーナリスト)


 ■人物略歴

さいとう・まこと

 名古屋大学大学院経済学研究科教授。1960年生まれ。米MIT博士課程修了。2001年一橋大学教授、19年より現職。近著に『危機の領域』『教養としてのグローバル経済』


(次回の掲載予定は12月13日号)


週刊エコノミスト2022年11月22日号掲載

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