金融政策ではなくコロナと戦争で物価は上がった 岩下真理/13(最終回)
日銀の“異次元”金融緩和導入から9年半。大和証券チーフマーケットエコノミストの岩下真理氏は、この政策の意義を「金融政策では(物価は)変わらないことが分かったこと」とする。低成長、高インフレという「未知との遭遇」の時代に、中央銀行に求めることとは。
もうデフレではない
一時150円台まで円安が進んだ。円が下落するたびに、国内外の機関投資家から岩下氏への問い合わせが増えるという。その内容は、日銀が続ける、短期金利マイナス0.1%、10年国債利回り(長期金利)を0%(プラスマイナス0.25%程度)に操作する「長短金利操作(イールドカーブ・コントロール(YCC)政策」の修正や転換の有無だ。
岩下 年初から主に海外の投資家による国債先物売りが、何度も繰り返されている。日銀は4月の金融政策決定会合で「指し値オペ(指定した利回りで国債を無制限に買い入れる)」について「明らかに応札が見込まれない場合を除き、毎営業日実施する」と決定文書に明記し、金利抑え込みへの強い姿勢を示した。これで日本勢は「日銀はマイナス金利やYCCを当分、転換する気はない」と判断した。
一方で、世界の金融市場はつながっており、米国の長期金利上昇につられて日本の国債市場にも上昇圧力はかかる。だから海外勢は「日銀はYCCを維持できなくなる」と予想し、先物市場で空売りしてきているのだろう。
発端は円高回避
そもそもYCC導入の経緯を振り返りたい。導入された2016年は1ドル=110円程度の水準でドル・円相場が推移し、それ以上の円高になることが懸念されていた。そこで円高回避に向け、同年1月にマイナス金利の導入を決めた。しかし、実際に円高を回避できたのはわずか2週間程度。一方で、短期と長期の金利差が縮まってしまった。これを是正するために導入されたのがYCC政策だ。
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当時、欧米でもディスインフレ現象への懸念が広がっていた。世界的にインフレ(物価上昇)が来ることの想定がなかったのだろう。確かに新型コロナウイルスの流行やロシアのウクライナ侵攻など思いもよらない事態が起き、想定外の高インフレ時代が到来した。
YCCが功を奏した時期がある。コロナ対策で19年、米国が利下げを始めたときだ。海外からの金利低下圧力にYCCが作用し、極端に日本の金利が下がることはなかった。一方今回のような利上げ局面では、日米の金利差拡大→ドル高・円安となり、副作用が大きくなる。YCCの限界だろう。
ただし日本はもちろん、米国も欧州も長らく低成長、低インフレ、低金利の時代が続いた。そのため、急激な構造変化の中、市場がどう動き、それに対してどのような金融政策をとらなければならないか、各国の中央銀行も市場関係者も慣れていない。
1970年代に物価上昇の時代はあったものの、当時と今とでは違う。グローバリゼーションが進み、人口動態も変わった。低成長なのに高インフレの時代到来という「未知との遭遇」に私たちは直面している。その中で中銀も市場関係者も迷い、読み間違ってきた1年とも振り返られるのではないか。
今、もっぱらの関心事項は物価とドル・円相場の行方である。日銀が異次元緩和で目指してきた2%物価目標を達成したかのように見える。だが、日銀は「資源高などによる一時的なもの」として、大規模金融緩和策を続ける構えだ。
岩下 もうデフレではない。今年は同じ商品が年内に2度値上げされたものもある。これは、家計が許さなければなし得ないことだ。
アミューズメントパークや英会話レッスンなどのサービス価格も上がってきている。コストプッシュではなく、モノとサービスに値上げが広がった。一部の業種では賃金が上がる可能性もあり、本来日銀が目指していた「物価の緩やかな上昇」が見えてきていると感じる。
日銀が目指す物価目標の2%は本当に必要か。国民が安心して暮らせる、いい形の経済と物価安定なのかと、疑問を感じながら見てきた。日銀は9年以上いろいろやっても、2%は達成できなかった。それがコロナと戦争で2%になった。この「大実験」の一番の意義は、金融政策では何も変わらなくとも、突然別の事態で世界情勢が変わり、高インフレの時代になる、日本でも物価上昇は訪れることが分かったことだ。
正常化するだけのはずが
この壮大な社会実験をやめるということは「元に戻る」、危機対応を終了させて正常化することだ。元々日銀は「長期金利はコントロールできない」としていた。昔は、金利が上昇しすぎたら国債買いオペ(市場操作)で日々調整していた。しかし経験者が少なくなり、正常化が理解できなくなっているように思う。長年の低金利や異次元緩和政策の副作用だ。
2004年に日銀は公式文書「日本銀行にとっての国債市場の重要性」で、「イールドカーブは、その時々の様々な市場参加者の金利観やその背後にある先行きの景況感を反映して変動するものであり、中央銀行として金融政策の判断を行う上で貴重な情報のひとつ」と明記している。日銀自身がYCCでカーブをゆがめ、国債市場を機能不全にしてしまった。
確かに、黒田東彦総裁による異次元緩和の真骨頂はアベノミクスの一部として、「円高で苦しんでいた日本をデフレから脱却させ、円安・株高で資産所得や雇用状況を改善させること」だった。だから現状の円安を否定できない。任期中の政策転換は無理だろう。
だからこそ23年4月に就任する新日銀総裁の下、政策点検を実施し、市場機能低下を理由に、長期金利の変動幅を上方修正させるのが一番良いのではないか。
金利引き上げを行う米国はいずれ景気後退する。日本経済にも下押し圧力は強まるだろう。すると日銀は正常化ができなくなる。そうなる前の、限られたチャンスしかない。
「何もしなくても、物価が上がる時は上がる」ということを学べた、壮大な実験である異次元緩和は、十分役割を果たした。新総裁には、仕切り直しを願いたい。
(エコノミスト 岩下真理)
(構成=荒木涼子・編集部)
■人物略歴
いわした・まり
大和証券チーフマーケットエコノミスト。1988年慶応大学商学部卒業。大和証券SMBCで日銀ウオッチャー担当などを経て、2018年より現職。
週刊エコノミスト2022年12月13日号掲載
コロナと戦争で物価は上がった=岩下真理/13(最終回)