週刊エコノミスト Online 創刊100年特集~Archives
医師 中村哲② 寄稿「『平和』の重さを肌身に感じ得る者がどれほどいようか」(1991年4月23日)
週刊エコノミストは、各界の第一人者にロングインタビューを試みてきました。2004年から「ワイドインタビュー問答有用」、2021年10月からは「情熱人」にバトンタッチして、息長く続けています。過去の記事を読み返してみると、今なお現役で活躍する人も、そして、今は亡き懐かしい人たちも。当時のインタビュー記事から、その名言を振り返ります。
アフガニスタンやパキスタンで農業や医療支援に携わり、アフガン東部ジャララバードで2019年12月に殺害された中村哲医師(当時73歳)。2回目は、1991年4月の寄稿を振り返る。※記事中の事実関係、肩書、年齢等は全て当時のまま
ペシャワールから見た湾岸戦争/イスラム住民に広がる日本への当惑と敵意
週刊エコノミスト1991年4月23日号
湾岸戦争で示した日本の多国籍軍への「断固たる支持」はアジアへの薄っぺらな理解を露呈してしまったのではないか。(中村哲)
ペシャワールはいつになくひっそりして見えた。この数年、あれほど急増した欧米人の姿が突然街路から消えていた。いうまでもなく、湾岸戦争の影響である。
2月25日、私はJAMS(日本―アフガン医療サービス)のアフガン人スタッフの葬儀に加わるため、パキスタン北西辺境州の自治区から更にアフガニスタンのクナールの奥地に入っていた。鳴りもの入りの「アフガニスタン復興・難民帰還」の各国プロジェクトは、我々JAMSと一部のアラブ系団体を除けば、影をひそめていた。あれほど騒がれた「難民帰還」と、押し寄せた欧米NGO(民間非営利団体)の復興援助ラッシュの狂宴が嘘のようである。
誇張ではなく、膨大な費用をつぎ込んだ難民帰還プロジェクトは、少なくともここでは複雑な対立と札束による民心の荒廃以外に何物ももたらしていない。ソ連撤退後2年たつ今も、依然として激しい戦闘が続いており、「難民帰還」どころではなく、肥沃な田畑は荒れ果てて砂漠の様相を呈し、破壊された村落の残骸は、まるで廃虚と化した遺跡のようである。ただ遺跡と異なるのは、時折人間の死体がころがっていることだ。水路も道路も修復どころか、年々悪くなっている。こうした地元住民、抵抗組織、アフガニスタン政府軍の三つ巴の抗争に加え、湾岸戦争の影響はアフガン人内部に複雑な対立を更に増幅させていた。
欧米とイスラムのはざまで
砲声を遠くに聞きながら、質素な葬儀にはカラシニコフ銃で武装した数百人の住民が列席していた。埋葬の後、慣習に則ってムッラー(イスラム僧)が祈りを捧げて説教をした。二重三重の武装勢力の圧力の下で、固有名詞は注意深く避けられていたが、その言葉は時局を反映して耳に痛々しかった。
「我々(クナールのパシュトゥン住民)は、かつてイスラムの敵、アングレーズ(英国)に対して歴史的な抵抗を行ってイスラムと自治を守り抜いた。そして、今も断固たるジハード(聖戦)を続けている。イスラムを守り抜け。だが、注意せよ。イスラムの同胞をイスラムの名で圧迫するのはイスラム教徒ではない」
列席した住民たちがうなずき、どよめく。
なぞなぞのようなイスラム僧の言葉の背景はこうである。――現地ではサウジアラビアの団体が勢力を持ち、更にソ連軍と前線を構える抵抗組織がミニ軍政を敷いている。住民は砲火と干渉の中で辛うじて自治を守ろうとし、武装もしていたが、12年にわたる内戦に疲れ切っており、大多数は難民としてパキスタン側に移っていた。しかし今、心情論から米国に与するサウジアラビアを非難すれば、財政的に日干しにされるだろう。他方、過激なイスラム主義の抵抗組織は「イスラム」の名において共産主義政権以上の暴虐をふるう――およそこのような状況下での苦しい呼びかけだったのである。
私は別の立場から内心、これら純朴なイスラム住民の反応を恐れていた。というのも湾岸戦争に日本が90億ドルという巨額の支援を決定したことが大々的に報じられていたからである。
イスラム住民の希望と尊敬の的であった日本が、実は宿敵米英の走狗であった、裏切られた、との印象を拭え切れなくなっていた。事実、サウジアラビアと直接の利害関係のないイスラム住民は、公然と「フセイン万歳」を叫び、ペシャワールの街角のあちこちに肖像画が張られていた。湾岸戦争勃発以来、激しい反米デモが連日荒れていた。パキスタンのジャミアテ・イスラム党は「すべての外国人の追放」を叫んでいた。欧米人の姿は突然消え、一部は帰国し、残留した者も一時的なパニック状態に陥っていた。夜間外出禁止令は北西辺境州ではいまだに続いていた。
ペシャワールよりもさらに隔絶された好戦的なパシュトゥン部族(アフガン人)のイスラム伝統社会の密室の中という、カーフィル(異教徒)として殺害されても不思議はない場所で、共にムッラーの説教に耳を傾けている自分が奇妙な立場にいると思った。日章旗を描いた車両が遺体を輸送し、私は友人として扱われていた。
「JAPAN」の名は、日露・太平洋戦争と共にヒロシマ・ナガサキで広く奥地にまで知られている。「日本はイスラムをどう見ているか」という答えにくい問いに対して、「我々はアッラーの欲する平和を愛する。内戦で諸君は何を得たか。平和こそが日本の国家理念だ」という発言は現地で常に説得力をもつ。ことばは私を離れて、地獄を体験した者には真実の共感を生んだ。
この時も「ジャパーン、ジンダバード(日本万歳)! あなたは我々の兄弟だ。あなたは外国人ではありません」と、ある長老がいったが、それがお世辞なのか好意なのか分からぬほど、私は屈折した気持ちを抱いていた。恐らくその両者が正しかったであろうが、それは我々JAMSが献身的な活動で地域のパシュトゥン住民の信頼を勝ち得てきた成果であり、この状況下では奇跡的ともいえた。イスラム住民の宿敵・米英への湾岸戦争協力が、ここでは薄められていることに感謝した。
欧米を敵に回しては経済的存立の危ういパキスタン政府も、基本的に前述のイスラム僧と同様の矛盾に追い詰められていたといえる。7500人の兵隊を多国籍軍に送っていたものの、「イスラム」でしか国家のアイデンティティーを保ち得ない国にとって、おそらく苦渋に満ちた決定であったにちがいない。遠からずパキスタン政府は、95%を占めるイスラム民衆の非難の矢面に立たざるを得まい。
米ソの世界戦略の変化で「前線国家」としての意味が失われた今、この時局下でパキスタン政府を辛うじて救っていたのは、1989年以来本格化したインドでのイスラム教徒迫害事件と、カシミールのイスラム住民の反乱である。1億600万人の複合民族国家の脆弱な基盤を、隣国のコミュナルな紛争と外圧への抵抗でしか支えられない一つのアジアの悲劇がここには厳然と存在している。
奇妙な日本の光景
ちょうど1月17日に私は日本で開戦の報を聞いた。その時の日本人の反応はペシャワールから突然帰っていた私には、奇妙な光景であった。
まるで高校野球の中継のようであった。24時間中テレビはABCとCNNの情報を基に米軍の大戦果を流し続け、降ってわいたようなテーブル評論家の群れが他人事のように戦争を語っていた。また、それはテレビゲームのようであった。妖しくバグダッドの町を照らす無数の閃光は、その下で数知れぬ市民の屍の飛び散るのを感知しないようであった。
開戦当時の日本国内の反応からは、武力によるイラク制裁が自明の合意のようであった。戦争反対を唱える者はフセイン支持と取られかねない雰囲気のように思えた。確かに狂ったようなフセインの主張が何故イスラム民衆に共感を与えるのか考慮する意見もあったが、大きな影響を与えなかった。
自衛隊機を飛ばす飛ばさぬの滑稽な論議よりも、世界に冠たる平和憲法を誇示して戦争を拒否する勇気のほうが、イスラム住民はおろか全世界に影響力を行使できる事実に、多くの者は気づかなかった。日本は国際的信頼を得る好機を失った。
矮小な「現実論」が尊敬すべき国家憲法を制していた。そして現実論の伏線は「対米協調が経済的生命線」との国民的認識であった。日本は何を守ろうとしているのか。米国経済自体が日本抜きで成立しなくなっている現在、あまりに卑屈な反応に驚いたものである。何だか空しい繁栄の幻影に、国民の大半がひきずられているのが悲しく思い返される。
難民医療団体JAMS
我々JAMSは、パキスタン政府公認の難民医療団体で、過去八年間アフガン難民のあふれるパキスタンのペシャワールを拠点に診療活動をしてきた。民間の良心に支えられる小さな団体であるが、パキスタン北西辺境州の癩根絶計画で次第に重きをなすと共に、内戦で荒廃したアフガニスタン復興を医療側から支援すべく活動を続け、国内に対しては人的交流を通じて我々に貴重なアジア理解を提供してきた。戦乱の被害者たるイスラム住民と苦楽を分かつ者として、彼らの実情を伝える価値がある。
一部では既に忘れられたが、1979年のソ連軍侵攻以来、アフガニスタンは実に12年間戦火にさらされ、200万の死者と600万の難民を出した。ペシャワール周辺の北西辺境州のみで難民の数は約270万人といわれる。我々JAMSのスタッフたちも多くは難民であり、かつて内戦でムジャヘディン・ゲリラとして銃を取って弾丸の下をくぐり抜けてきた者たちである。家を失い、肉親と死別した経験のあるのが普通である。空襲と砲撃による累々たる屍の惨状は至る所に見られた。彼らは戦に疲れて平和にこがれ、銃を捨ててJAMSの活動に身を投じたのである。
日本人は、しばしば「平和」を語るが、その重さを肌身に感じ得る者がどれほどいようか。映像で伝えられる戦闘は、壮烈な戦死しか語らない。肉親を失い、流浪する孤児や寡婦たちの辛酸を伝えない。多くの殺戮で感性の荒廃してゆく兵士たちの苦悩を語らない。戦争に正義はありえない。そして、その上に成り立つ平和と繁栄とは一体何であろう。JAMSのアフガン人スタッフたちは、あらゆる戦争と、大国の干渉を憎悪している。我々はもはや正義を語ることに飽きた。
一般にイスラム教徒の英米に対する感情は非常に悪い。事実「アングレーズ(英国)」は敵の代名詞である。現地庶民の極めて平均的な反応は、「フセインは確かに悪い。だが、聖地を荒らしてイスラムの同胞に刃を向けた米国ははるかに許しがたい」というものであった。欧米列強によって線引きされたにすぎない国境を越えたイスラムの一体感を、日本人は余りに過小評価している。西欧的な国家観を共有できるということが、そもそもの誤解なのである。「多国籍軍」の中にイスラム教国があるではないかというが、当の国民がまともに「国」があると考えているかどうかも疑わしい。
もう一つ、我々が現地から見て奇異に思えるものは、日本人の異常な国連信仰である。だが、ペシャワール周辺の北西辺境州だけで270万人のアフガン難民は、国連機関のでたらめな情勢判断と「帰還計画」に翻弄され、混乱のまま放置されている事実を我々はつぶさに見てきた。日本自身も、国連の青写真に基づく非現実的な「難民帰還援助」に巨額の支出をさせられ、翻弄された事実を忘れることができない。
現地にいる我々としては、一連の日本の動きがJAMSの活動に与える影響を心配している。我々が営々と築き上げてきた現地活動は、欧米への卑屈な迎合とアジア世界への無理解とによって、一撃で突き崩される可能性もある。おそらく、日本人の大部分は、自分が積極的に「参戦」したなどとは思ってさえいないだろう。まして、数億のイスラム住民への敵対行為を開始したなどといえば、誇張された独断だと思われよう。しかし、湾岸戦争の勃発以後、日本が多国籍軍に「断固たる支持」を表明し、強力な財政支援を決定したことが、現地イスラム住民の間に当惑と敵意を徐々に拡大してゆくだろう。
JAMSは、イスラム住民の反欧米感情からくるテロを避けるため、中立で親イスラム的と見なされていた日本の国旗をわざわざ掲げていた。しかし、今やこれを取り外さざるを得なくなる事態になるのも懸念される。
アジアへの理解を
我々日本人は、歴史的転換期とか、国際的役割とかいうわりに、余りに自分自身を省みる態度に欠けていなかっただろうか。目先の「国際的貢献」の議論よりも、米国の一方的な価値観と情報のみで踊らされる現実にこそ、戦慄すべきではなかったか。ペシャワールというイスラム世界の片隅から見れば、日本で自明とされる「国際秩序」なるものは、「ヨーロッパ秩序」であり、混乱と干渉を正当化するフィクションである。
国際秩序という時、そこには必ずしも欧米と国家観・価値観を共有しているわけではないアジアの同胞への理解が欠かせない。国際化とは、何も流暢な英語をしゃべり、西欧的教養のスマートな文化人のサロンを製造することではない。自国の文化も含め、異質で多様な価値観の包容力と豊かな理解こそが国際化の神髄でなくて何であろう。まして、「戦争協力が国際的貢献」とは言語道断である。
湾岸戦争は、改めて我々のアジア理解=人間理解の薄っぺらさ、平和の虚構を浮き彫りにした。ほんの半世紀前、ほかならぬ我々自身が、伝統社会と西欧近代化との軋みを対米戦争という形で苦悩したはずである。戦争の総括は終わってはいない。ヒロシマ・ナガサキと数百万の「英霊」たちの犠牲の意味は、今でこそ真剣に問われねばならない。
なかむら てつ
1946年生まれ。九州大学医学部卒業。英国の熱帯医学校へ留学、84年からペシャワール(パキスタン)で治療活動。