教養・歴史 ロシアの闘う現代アーティスト
「理解できない音楽」を粛清 独裁者に嫌われたプロコフィエフ 梅津時比古
スターリンやヒトラーら独裁者たちは、芸術を自分の意のままにした。体制に嫌われた音楽家たちが味わった苦難の歴史が、プーチン政権下で亡霊のようによみがえる。
その葬式に、花は無かった。
ウクライナ生まれの作曲家、プロコフィエフは1953年3月5日に61歳で亡くなった(死因は脳出血といわれる)。厳寒のモスクワで、冬場に花を探すのは難しい。だが、花が手向けられなかった理由は、それだけではなかった。彼が逝去した3時間後、ソビエト連邦共産党中央委員会書記長のスターリンが、74歳で死去したのである。モスクワじゅうから、いやそれ以外の地域からも、スターリンのために花が集められた。
プロコフィエフの葬儀は、ソビエト連邦作曲家同盟本部では営めず、赤の広場近くに住んでいたため霊きゅう車の使用も認められなかった。群衆はスターリンの死を悼むため、クレムリンへ詰め掛けた。三日三晩、道路は人の波で塞がれ、プロコフィエフの亡きがらを人手で運ぶのも、困難を極めた。
花の無い葬儀に参列したのは、作曲家のショスタコーヴィチら30人足らずだった。参列者は、プロコフィエフの葬儀に加わることをソ連共産党がどう判断するのか、気が気ではなかったはずである。
サンクトペテルブルク音楽院時代から不協和音を追究していたプロコフィエフは、ロシアの音楽界とはあらゆる点で意見が合わず、18年にアメリカへ亡命した。その途次、日本に立ち寄っている。今も世界的に人気のあるピアノ協奏曲第3番は、日本の旋律の影響を受けたとみられる。その後、パリなどで成功を収めたプロコフィエフは、36年にモスクワに戻った。だが、悪名高き「ジダーノフ批判」に見舞われ、党から呼び出しを受けたのである。
ジダーノフ批判ほど、ソ連の作曲家、演奏家を苦しめたものはないだろう。
48年に共産党中央委員会から発表された「文化、芸術に対するイデオロギーの統制」に端を発する政策で、書記のジダーノフを中心に、「労働者の姿を描く社会主義音楽」の理念に合わないものを次々に血祭りにあげていく。批判に逆らおうものなら、作品の演奏禁止、そして流刑が待っていた。
スターリンは音楽に執着
社会主義音楽の理念とは、内実は、古典的な“分かりやすい音楽”である。党の幹部が理解できない先進的、前衛的な音楽は、「社会主義音楽ではない」と否定された。実際には、恣意(しい)的な側面も強く、党の幹部の気に入らない音楽家の芸術活動は断たれた。
「不快な音響」と批判されたプロコフィエフは、批判されて以降、表面上は党を刺激しないように活動していたが、ピアノ・ソナタ第6番、同8番などは演奏禁止になっている。そのような状況下でも、ピアノ・ソナタ第7番にシューマンの歌曲「悲しみ」を引用して苦痛を訴えるなど、党の幹部が聴いても分からないように、隠れた抵抗を仕掛けていた。
ジダーノフ批判は、絶対的な独裁者、スターリンからの批判でもあった。ショスタコーヴィチもその対象だった。筆者がショスタコーヴィチの寡婦、イリーナ夫人から直接聞いたところによると、ショスタコーヴィチは自分の作品について、悪く書かれたものだけを集める。通常、音楽家は、良く書かれたものだけを集め、悪評からは目を背ける。彼はおそらく、悪評の中に党からの批判に結びつく要素を探していたのだろう。
ナチス・ドイツのヒトラーに見られるように、芸術好きの独裁者は、好きな分野にこそ口を出すことが多い。画家志望で音楽好きでもあったヒトラーは、自分の理解できない芸術、ナチスの理念に合わない作品を憎悪し、「退廃芸術」として、前衛的な絵画や音楽を抹殺しようとした。
音楽好きのスターリンはよく音楽会に足を運んだ。演奏後に楽屋にも訪れた。旧ソ連の音楽家から、こんな話を聞いたことがある。演奏会後、楽屋に顔を出したスターリンをバイオリニストが最敬礼で迎えると、上機嫌のスターリンは、「○小節目の音程が4分の1低かった」としたり顔で指摘した。周りの幹部たちは、スターリンの“耳の良さ”を褒めそやす。ここで「いえ、音程は正確でした」などと反論しようものなら、音楽家としての生命を絶たれてしまう。バイオリニストは反省の言葉を口にし、スターリンを見送ったという。
実はジダーノフもピアノが弾けて、自らをピアニストと呼ばせるほどだった。それだけに、コンプレックスも交じって、音楽家への批判は苛烈だったものと思われる。
先にあげたプロコフィエフ、ショスタコーヴィチ以外にも体制の被害者は多い。プロコフィエフの盟友で、サンクトペテルブルク音楽院時代にはプロコフィエフと交響曲を共作、生涯にわたって交響曲を27曲も作曲したニコライ・ミャスコフスキーも、ジダーノフ批判を受けた。ミャスコフスキーは巧みに批判をかわしつつ、体制に迎合したようにも見える作品も作ってロシア国内に生きる場を見いだしたが、そのことを現代の視点で「体制に抵抗しなかった」と安易に責めることはできないだろう。
また、スクリャービンの影響を受け、ロシア・アヴァンギャルドの旗手だったアルトゥール・ルリエは、ジダーノフ批判とは別に、本来的に党の方向に嫌気が差し、西側に亡命した。亡命後、言うまでもなくその作品はロシアで演奏禁止となった。
父を銃殺されたリヒテル
他にも多くの音楽家が体制に人生を振り回されている。たとえば、伝説に残るピアニスト、リヒテル(ウクライナ出身)の父は牧師だったが、スターリン粛清時代にスパイであると密告され、銃殺された。捏造(ねつぞう)の密告をしたのは、母の再婚相手だった。最後の来日となった95年11月、リヒテルは一度も演奏会を開かなかったが、毎日、ピアノの前に座り、「弾けない」と涙を流し、親しくしていた日本人のマネジャーに、父の銃殺について語ったという。その2年後、リヒテルは82歳で旅立った。
ショパン・コンクールに優勝して日本でポップ・スター並みの人気を博したピアニスト、スタニスラフ・ブーニン氏も、党の監視に耐えかね、88年に西側へ亡命した。亡命当時、ブーニンは「初めは監視されているとは気づかなかった」と語っている。抑圧は、目に見えない形で始まるのだ。
今、ロシアは、「プーチンと親しい」という理由で西側から拒絶された指揮者ヴァレリー・ゲルギエフ氏の全盛時代である。プーチンは幸か不幸か音楽に関心がないため、「この音楽は西側的だ」というような抑圧は起きていないが、音楽家たちは不安にかられている。モスクワ音楽院の有名な教授は「ウクライナ侵攻については、誰が悪いのか、ロシアの人は皆、分かっている。音楽は、負けてはいけない」と学生に語っている。
政治が文化に介入し、結局、すべてを破壊することになった事例は、枚挙にいとまがない。辛酸をなめたロシアの音楽家たちの歴史は、いかなる差別・迫害も、決して許してはいけないということを教えている。
(梅津時比古・毎日新聞学芸部特別編集委員)
週刊エコノミスト2022年12月27日・2023年1月3日合併号掲載
ロシアの闘う現代アーティスト 「理解できない音楽」を粛清 独裁者に嫌われたプロコフィエフ=梅津時比古