体験者が語る紛争国からの邦人退避 失敗目立った日本政府 庄司太郎
今年4月15日、アフリカ・スーダンで正規軍と準軍事組織「即応支援部隊」(RSF)が武力衝突・内戦に発展したことを受けて、日本政府は在留邦人の国外退避の支援活動を行った。首都ハルツームで退避を希望していた日本人らは、主に陸路で約700キロメートル離れた同国の港町ポートスーダンに移動。そこから自衛隊機で隣国のジブチに避難した。日本政府は4月27日、退避を希望する全ての日本人57人の避難が完了したと発表した。近年の海外邦人の大規模退避は、2021年8月のアフガニスタン退避があるが、これは大きな失敗だったと評価されている。
日本政府、特に外務省の重要な責務のひとつは、海外に滞在する自国民の保護であることは言うまでもない。しかし、これまでの政府による邦人救出活動は、失敗が多かったといえるのではないか(表参照)。筆者はかつて、サウジアラビアに原油生産基地を持つアラビア石油に勤務しており、1990年のイラク軍クウェート侵攻での「日本人人質」救出活動、翌年の湾岸戦争でのアラビア石油社員(日本人)の陸路退避に携わった経験がある。その時の実話を紹介しながら、海外での邦人救出のあり方を考えてみたい。
対応誤り「人間の盾」に
1990年8月2日未明(現地時間)、イラク軍がクウェートに侵攻を開始し、約2時間で首都中心部のシーフパレスを制圧した。クウェートの欧米企業は、それぞれの情報網によって、すでに事態を把握していて、相当数の欧米人、クウェートのアラブ人が、個人でリスクを判断し、自分たちの車両で砂漠の国境を越えて避難を始めていた。イラク軍も当初は国境の監視を緩やかにしていた。
しかし、日本人は緊急時の行動は集団で考えるという習慣があり、個人で判断して行動する例は少ない。当時の日本人は集団で行動するリスク管理手法を教育されていたので、やむを得ない部分があった。欧米人やアラブ人は、リスクは自分たちで判断し、まずは自主解決を目指して行動する。
クウェートでは、侵攻開始5日後の8月7日、在クウェート日本大使館から、「日本人は全員大使館に緊急退避」との指示が出され、大使館に集まった。だが、8月22日、集まった日本人全員(270人)は、イラク航空機に乗せられ、バグダッドに連行されてしまった。日本人はバグダッドのマンスール・メリアホテルに軟禁された後、男性を中心に、イラク各地の化学工場や空港の管制塔などの重要施設に配置された。いわゆる「人間の盾」にされてしまったのである。
「人間の盾」にされたのは、日本人213人と欧米人合わせて約6000人とされている。当時の日本政府と民間企業は、どのような条件で解放交渉をすればよいのか分からず、結局、諸外国と行動を共にして、交渉を行うタイミングを待つという姿勢をとった。その一方で、日本企業は各社が解放策を模索していた。そして、クウェート日本人会の総意として、人質解放に関する提案書を、海部俊樹首相(当時)に提出している。
アラビア石油にはパレスチナ人従業員も多くいたが、イラクのサダム・フセイン大統領(当時)を支持したとして、クウェート在住のパレスチナ人従業員は、亡命クウェート政権の方針で、職から追放されていた。私たちはヨルダンのアンマンで、パレスチナ人元社員に会い、人質にされた日本人社員の状況把握を依頼した。すると彼らは、独自のルートで拘束場所などの正確な情報を収集し、他の日本人人質の情報も合わせて、私たちに知らせてくれた。私たちはこの貴重な情報を日本人会や外務省と共有し、パレスチナ人ネットワーク網を使って、人質に文書での連絡と差し入れを行うことができた。
他国に依存
その後、私たちはサダム・フセイン政権の高官が、ロンドンからの帰途にアンマンに立ち寄るとの情報をつかみ、人質解放に便宜を図ってくれるよう交渉したところ、その高官によれば、少人数ずつならば病気を理由に解放(国外退去)できるとの言質を得た。そうこうしている間に、中曽根康弘元首相(当時)による交渉で、11月6日に日本人人質74人が解放され、アントニオ猪木議員(当時)がイラクで実施した「平和の祭典」絡みの交渉で、12月6日に日本人人質41人が解放された(日本人女性と子供は「サダムの特別配慮」で8月29日に解放されている)。結局12月7日には、サダム・フセイン大統領は、日本人の残り155人を含む各国の人質全員を解放した。
当時は政府専用機もなく、自衛隊機派遣は法制度上の問題もあり、極めて困難だった。自衛隊にも民間航空会社にも、紛争など緊急時における邦人救出の備えはなく、いざという時は、外国の航空会社のチャーター便に頼るしか手段がなかった。アントニオ猪木議員のイラク訪問は、トルコ航空が引き受けてくれたおかげだった。
時を経て、自衛隊法改正などにより、自衛隊機派遣が可能となったが、スーダン邦人退避に関しては、アフガニスタン失敗の反省も考慮に入れ、自衛隊機の迅速派遣や準備などに、安全保障関連法施行後の自衛隊法84条の3、4項など、関連法制の改正が役立ったのではないか。
さらに重要なのは、現地の軍事・情勢分析などの「インテリジェンス力」だ。90年のクウェート侵攻当時と比べて、日本政府の情報収集力は各段に進歩していると思うが、それは自衛隊を海外に派遣しないことを前提とした拡充だ。スーダン退避のケースでは急速に変わる首都ハルツームの状況把握は的確だったのか。ハルツームからポートスーダンまでの多国籍車両コンボイに関する安全情報、護衛体制はどうだったのか。最後はアラブ首長国連邦や韓国に頼って、陸路で退避せざるを得なかった。日本政府の危機に備えた情報収集能力は、発展途上のように見受けられる。また、安全保障関連法の施行後も、派遣時の安全確保や相手国の了承の要件など、さらなる現実的な解釈と運用が求められると思う。
クウェート侵攻の翌91年には、湾岸戦争が勃発した。筆者はその頃、アラビア石油のカフジ原油生産基地(クウェート国境から約30キロメートル)にいたが、カフジ一帯はイラク軍と米軍の国境を挟んでの緊張が続いていた。
91年1月17日、米軍を中心とする多国籍軍は、バグダッドへの空爆を開始。湾岸戦争の火ぶたが切られた。イラク軍も反撃を開始し、同日、カフジ基地にも、約5時間にわたるロケット弾攻撃が行われた。基地には日本人社員48人が残留しており、攻撃時は地下シェルター(防空壕(ごう))に隠れていた。私たちは近傍で攻撃態勢をとっていた米海兵隊とサウジアラビア政府当局から、近日中にカフジで地上戦が行われるとの情報を得ていた。ロケット弾攻撃がやんだすきに、車両19台に分乗し、約300キロメートル離れたペルシャ湾沿いのダンマンに向けて避難を開始した。カフジでは1月30日未明に、サウジ国内唯一の戦闘となる多国籍軍とイラク軍による激しい戦闘が行われた。
頼りは「ドルの札束」
私たちはダンマンで先行避難していた社員らと無事合流したが、ほっとしたのもつかの間、ダンマンにもイラク軍のスカッドミサイルによる攻撃が始まった。ホテル近くの米軍宿舎にミサイルが命中し、死傷者が出たこともあって、私たちは一刻も早く脱出することを決めた。しかし、近くのダーラン空港やバーレーン空港には、もはや日本人を乗せられる民間航空機はなく、陸路での退避を余儀なくされた。脱出ルートは二つ。アブダビに行くか、空港が閉鎖されていない紅海側の都市ジェッダに行くかである。ジェッダに向かうことを選択した。
ダンマンからジェッダまで約1400キロメートル。1月22日、私たちはまず首都リヤドに向かい車列を走らせ、リヤドでミサイル攻撃の音を聞きながら一泊。翌朝、ジェッダまでの長いドライブに出発した。途中のメッカでは、イスラム教徒ではないために通過できず、遠回りをさせられたが、何とかジェッダにたどり着くことができた。先行していた社員8人がジェッダの空港に直行し、長蛇の列だったが、ドルの現金払いで交渉して、何とか米ニューヨーク便のチケットを購入できた。いざという時に頼りになるのはドルの札束だ。残りの社員は会社のチャーター機でアテネまで行き、27日に日本に帰国することができた。
湾岸戦争当時、日本政府や現地大使館からは何の情報もなく、米軍とサウジアラビア政府当局から情報を得ただけだった。カフジでは原油タンクや病院などが破壊され、不発のロケット弾が地面に突き刺さっていた。無事に退避できたのは、社員の努力と幸運に恵まれた面があったのも確かだ。
昨今の安全保障環境の厳しさが増大している状況下で、政府は平和安全法制の整備などで対応を進めているとは思うが、今回のスーダン退避活動からも、しっかり教訓をくみ取り、緊急時に海外在留邦人をどう保護するのか、不断の検討を続ける必要があるのではないかと考えている。
(庄司太郎、中立地帯研究所代表・元アラビア石油取締役)
週刊エコノミスト2023年6月20日号掲載
海外の邦人退避 湾岸戦争で決死の逃避行 失敗多かった日本政府の救出=庄司太郎