「なかなかやるね」日銀の植田さん ハト派を続ける事情とは 窪園博俊
経済学者の植田和男氏が日銀総裁に就任して3カ月が経過した。ソフトな語り口で好感度は増しているが、7月下旬の金融政策決定会合が今後の金融政策を展望するうえで正念場となる。
市場機能に配慮なく債券市場で高まる不満
「植田さん、なかなかやるじゃないか」──。今年6月、ポルトガル・リスボン郊外のシントラで開かれた欧州中央銀行(ECB)主催の国際金融会議でのパネルディスカッションで、日銀の植田和男総裁が英語でジョークを飛ばす動画がSNS(交流サイト)上で飛び交い、称賛する声が相次いだ。
米連邦準備制度理事会(FRB)のパウエル議長、ECBのラガルド総裁、イングランド銀行(BOE)のベイリー総裁とともに壇上に上った植田氏は、金融政策が効果を上げるまでのラグ(遅れ)について、司会者から質問された。植田氏が、「私が日銀の審議委員だった25年前、日本の政策金利は0.2~0.3%で、今はマイナス0.1%。ラグは少なくとも25年間はかかる」と答えると、パウエル、ラガルド、ベイリーの各氏は破顔一笑。会場からは拍手が沸き起こった。
今年4月に退任するまで10年にわたって日銀総裁を務めた黒田東彦氏も英語は堪能だった。ただ、日銀総裁ともなると、即興のジョークや「小声でひそひそ話」をこなす高レベルな英語力が求められる。
経済学者の植田氏は、日銀審議委員を長く務めたものの(1998~2005年)、退任してから十数年が経過。昨年末から年明けにかけての次期総裁の人選に関する一連の報道で、植田氏の名が挙がることはなく、多くの市場関係者には「忘れられた存在」だった。報道で名前が挙がった複数の候補は英語が苦手とされた。意外な人選にみえた植田氏の起用だが、国際コミュニケーション能力という点では適任だったといえよう。
国内の記者会見でも、前任の黒田氏が一方的な物言いだったのに対し、植田氏は分かりやすい説明を心がけ、ソフトな語り口も好印象を与えているようだ。
しかし、債券市場を中心に金融市場では、植田体制への不満もくすぶる。かたくなにハト派姿勢を決め込み、市場機能に配慮する気配がないためだ。植田執行部のハト派姿勢は家計に打撃となる円安も招いている。7月27、28日には植田体制で3度目の金融政策決定会合を控え、正常化する意思があるのか改めて問われるだろう。
黒田前体制を「継承」
2月下旬の国会での所信聴取と質疑が、政策論を披露する植田氏のデビュー戦となったが、その内容は黒田体制の大規模緩和をそっくり継承するというもの。質疑では何度も「大規模緩和の堅持が適切」と訴えた。植田氏はまた、2%の物価目標を盛り込んだ政府との「共同声明」(13年1月公表)も「当面は変える必要がない」との考えを表明した。
「共同声明」では2%の早期達成がうたわれており、「金融政策だけでデフレ脱却できる」というリフレ思想に傾倒した当時の安倍政権の強い意向を受けたものだ。金融市場ではかねて「金融政策に過度な負担がかかり、市場機能を阻害する」(シンクタンクのアナリスト)として、早期達成の文言削除を求める声が多かった。植田体制になれば「声明が見直される」(同)と期待された。
「大規模緩和」と「共同声明」を黒田体制から引き継ぐ方針を示した植田総裁。金融市場での「物価目標を見直して大規模緩和を修正してくれる」(債券ファンドマネジャー)との期待を裏切る国会答弁だったが、植田氏への期待感は根強く続いた。「国会で政策継承をアピールしたのは、総裁就任への支持を集めるため」(外資系ファンド幹部)とみられたからだ。安倍晋三元首相の悲運の死によって金融緩和を大胆に推進するリフレ思想は退潮したが、「与党内には支持者がおり、植田氏は安全運転の答弁を行った」(同)というわけだ。
「時間軸政策」の支柱に
植田氏が「正常化に前向き」とみなされたのは、審議委員時代の言動も大きい(図1)。特に99年のゼロ金利導入では「時間軸政策」の理論的支柱になったことで知られる。当時の時間軸は「デフレ懸念の払しょくが展望できるまでゼロ金利政策を継続する」というものだった。この政策のメリットは、市場機能を生かしながら緩和効果を強められることだ。デフレ持続が見込まれると金融市場では自然な形で長めの金利が下がり、イールドカーブ(利回り曲線)はフラット(平たん)化する。このフラット化が緩和効果となるわけだ。
時間軸政策は、フラット化が進みやすくなるように日銀がゼロ金利の持続期間を約束するものだ。黒田体制が16年9月に導入した「長短金利操作(イールドカーブ・コントロール=YCC)」は、長期金利を強引に誘導するもので、自然な価格形成は阻害される。将来のインフレ期待に関する債券市場のシグナルは抹殺され、金融政策運営に役立てることはできない。この点、植田氏が主導した時間軸政策は「市場機能を生かした金融緩和の補強手段」(日銀OB)であり、「YCCよりも機動性が高い」(同)といえるだろう。
植田氏は、総裁候補として国会ではハト派姿勢を強調したが、「総裁就任後はさっそく長期金利の誘導をやめ、YCCの枠組みを廃止する」(先の債券ファンドマネジャー)と期待された。YCCに代わって導入されるのが、かつての「時間軸政策」を現在の金融情勢にアレンジし直したものだ。具体的には、弊害の大きいマイナス金利は若干のプラスを許容する「ゼロ金利」に置き換える。その上で、「『ゼロ金利』をデフレ脱却が明確になるまで続ける」という時間軸政策が考えられるだろう。
「インフレの方がまし」
ところが、総裁就任後の植田氏は大規模緩和を修正する気配はまったくみせず、ひたすらハト派姿勢を強調するばかりとなった。もとより、大規模緩和の修正は少しでもにおわせてしまうと、瞬間的に金融市場に織り込まれる。このため、事前には何も言えないものではあるが、それにしても強まる一方のハト派姿勢は「植田総裁は何もする気がないのだ」(同)との不満を強めることになった。とりわけ強い不満・批判を招いたのは次のフレーズだった。
5月下旬、内外情勢調査会(時事通信社の関連団体)で講演した植田氏は「拙速な政策転換を行うことで、ようやくみえてきた2%達成の『芽』を摘んでしまうことになった場合のコストは極めて大きい。逆方向の、政策転換が遅れて2%を超える物価上昇率が持続してしまうリスクもあるが、2%の定着を十分に見極めるまで基調的なインフレ率の上昇を『待つことのコスト』は前者に比べれば大きくない」と述べた。ざっくりいえば「デフレに後戻りするぐらいならインフレの加速を許した方がましだ」という考え方に近い。
早めに動いてインフレを予防するのではなく、インフレが起きてから対処する。「ビハインド・ザ・カーブ」(意図的に利上げを遅らせること)と称される対応だが、植田体制での早期の大規模緩和修正を期待した向きには絶望的な対応だ。日銀の今年4月時点の「経済・物価情勢の展望」(展望リポート)によれば、足元で2%を超えた物価上昇率(生鮮食品を除く消費者物価上昇率、コアCPI)は24年度に2%へ低下し、25年度には1.6%に切り下がる見通しだ。
これに沿うと、「少なくとも向こう2年は大規模緩和が続く」(先の外資系ファンド幹部)ことになる。大規模緩和を続けるために直近0.4%台で推移する長期金利(10年物日本国債)の変動幅を一段と広げる可能性はあるが、恐らく植田氏のハト派姿勢は本物であり、「大規模緩和の修正にも慎重」(同)とみられる。
円安加速で介入も視野
植田氏の念頭にあるのは00年8月のゼロ金利解除の失敗であろう。この解除劇は、当時の速水優総裁(故人)が主導したものだが、不運にも「ITバブル」崩壊と重なり、翌年春には量的緩和に追い込まれた。また、政府の反対を押し切っての解除は、政界での日銀不信を招いた。
当時、審議委員として解除に反対票を投じた植田氏。総裁になった以上、同じ失敗は繰り返さない、との思いが強いだろう。当時の解除劇が「拙速だった」(複数の日銀OB)のは否めない。植田総裁の「拙速な政策転換」との表現には、解除失敗の記憶がなお鮮明なことがうかがえる。
ただ、政策運営で「拙速」を回避して安全運転を心がけても、大規模緩和の長期化が見込まれると為替市場で円安が進みやすい。実際、植田体制のハト派姿勢が鮮明になると、歩調を合わせて円安が進行。折しも欧米中銀は根強いインフレ圧力に直面して、利上げ路線を追求する構えを見せている。
日本と欧米諸国の金融政策の方向性の違いから、6月末には円は1ドル=145円台まで売り込まれた(図2)。昨年秋に政府・日銀が介入した水準(145円台後半)も視野に入り、「再び介入を迫られる可能性も否定できない」(大手邦銀アナリスト)という。
植田体制として注意すべきは、過度な円安が政策修正を迫る可能性があることだ。黒田体制は昨年12月、長期金利の変動幅を拡大させた。債券市場を念頭にその「市場機能に配慮」したものだが、実際には「その前に過度な円安が進み、政府が円買い介入を余儀なくされたからだろう」(ある日銀OB)とみられる。
今後、円安がさらに進み、政府が再び介入せざるを得ない事態になると、「長期金利の変動幅を一段と拡大するなど、大規模緩和の修正に追い込まれるかもしれない」(同)という。7月の金融政策決定会合は、ハト派を続けるかどうかの最初の正念場となろう。
(窪園博俊・時事通信解説委員)
週刊エコノミスト2023年8月1日号掲載
「なかなかやる」?日銀の植田総裁 実は大規模緩和の修正に「慎重」 債券市場に配慮なく高まる不満=窪園博俊