経済・企業 経済の盲点
日米欧の資本主義の強みと弱点を知る――日本で賃上げとイノベーションが停滞したのはなぜなのか 山内麻理
岸田文雄首相は就任前の自民党総裁選時から「新しい資本主義」を掲げてきた。人への投資、科学技術分野への重点投資、スタートアップの起業加速、「グリーントランスフォーメーション(GX)」への投資など四つの柱で構成し、「課題解決と新たなマーケット創出による成長の二兎(にと)を追う」という。ただ、これらの経済政策が日本の資本主義の形態に合うのかどうかはほとんど検証されていない。
労働者主導で更迭されたVW社長
世界には様々な資本主義が存在し、雇用政策や経営も異なる対応が必要――。それを如実に示した“事件”が、昨夏の独フォルクスワーゲン(VW)で起こった。労働組合などの力で、同社のヘルベルト・ディース社長が昨年9月1日付で事実上、更迭されたのだ。
ディース氏は構造改革に伴い、独ウォルフスブルクの本社工場で最大3万人の従業員を削減する計画を明らかにしていた。ところが同社の労働組合が強く反発。同氏は求心力を失い、任期途中での退任となった。株主の意見が重視されやすい米国などのメディアは、労働者らが主導した社長更迭に衝撃を受けたようだが、私は「ドイツらしいエピソードだな」と思った。VWは歴史的な経緯から従業員の意思が経営に反映されやすいが、それに加えて、ドイツの資本主義がアングロサクソン系の国々のそれとは異なるからだ。
米国と日欧で異なる資本主義
一般にはあまり知られていないが、約20年も前に各国の資本主義の違いを鋭く分析した研究者たちがいる。ハーバード大学教授のピーター・A・ホールとオックスフォード大学などで教授を務めたデヴィッド・ソスキス(出版当時は、デューク大学教授)だ。2人の研究によると、代表的な資本主義には、市場での問題解決を重視する「自由な市場経済(LME、リベラル・マーケット・エコノミー)」とコーディネーション(調整活動)を重視する「調整された市場経済(CME、コーディネーティッド・マーケット・エコノミー)」がある。前者は米国など、後者はドイツや北欧、日本でみられる資本主義だ。
リスク志向の米国型はITやバイオ産業などで強み
LMEの大きな特徴の一つは「規制の少ない労働市場」だ。採用と解雇が規制に阻まれず、「低コスト」で実施できるため、雇用調整が容易で報酬体系も柔軟だ。例えば2022~23年にアマゾン・ドット・コムなど米IT大手が進めた大規模な人員削減やリストラは、ドイツや日本では難しかっただろう。
コーポレートガバナンス(企業統治)のやり方にも特徴がある。LMEでは、投資家やアナリストなどが企業経営を監視する役割の一翼を担う。彼らは「収益性が不透明な事業や収益化に長い期間がかかる事業への投資を避けてほしい」と考える傾向がある。このため、企業が長期安定資金を継続して活用することが難しい面がある。
こうした経済環境では、従業員も転職先で使い物にならない「その企業独特の技能」の習得を敬遠。一般的な技能の習得に励む。このため、LME諸国は、柔軟な雇用調整を必要とする産業や高度な一般的な技能を必要とする産業、リスクを負担する資本である「リスクキャピタル」の活用が重要な産業でCME諸国よりも優れているとされる。
こうした背景からLME諸国は、ITやバイオテクノロジーなどのように急進的なイノベーションを必要とする産業で強みを発揮する。ソフトウエアの分野では技術や知識の陳腐化が起こりやすいアプリケーションやミドルウエアではLMEが強い。バイオテクノロジーでも、治療用バイオテクノロジーでは、米国などアングロサクソン諸国に強みがある。
欧州型は長期間の技能蓄積を可能に
一方、CMEの労使関係はLMEとは大きく違う。例えばドイツの大企業では、共同決定法に基づき経営を監視する監査役会(取締役会)が株主の代表と従業員の代表が同数でなければならない。企業は労使協議会を設け、従業員と企業代表が就労規則などについて協議する。賃金交渉は産業別労働組合と雇用者連合の間で行われるため、同一のジョブであれば企業間の賃金格差は低く、引き抜きのリスクや価格競争は緩和される。
コーポレートガバナンスは、従業員代表や銀行など内部者も含むステークホルダー(利害関係者)によるモニタリングが重視される。ドイツでは未上場の大企業も珍しくない。投資家やアナリストなどが企業を監視し、大きな影響力を持つLMEとは対照的だ。金融システムでは、伝統的に銀行による間接金融が主体だ。このため、CMEでは長期の資金調達が円滑となり、不況期でも雇用が維持しやすくなる。米国などLME諸国と違って企業内の職業訓練や職種別の職業訓練が発達し、企業内の特殊技能や産業内の特殊技能を習得しやすくなる。
熟練労働者不足で躓いたTSMCの米工場
こうした理由から、CME諸国は漸進的イノベーションを必要とする分野で強みを発揮する。例えば、長期投資や熟練工が重要な自動車産業や機械産業などはCME諸国の十八番だ。知識の集積や擦り合わせなどが必要な業務用ソフトウエアでも、ドイツなど安定した労使関係を持つ国に強みがある。
アリゾナで台湾積体電路製造(TSMC)の半導体工場建設が、熟練労働者不足から延期された。ホールとソスキスは、一つの国がすべての産業で優位性を発揮するのは難しいことを20年前に示唆したが、その通りの展開だ。
賃金が上がらない日本型の弱点
日本はCMEに分類されるものの、ドイツなどとの違いは大きい。産業内でのコーディネーション(調整活動)が中心のドイツに対して、日本は「系列」やサプライチェーン(供給網)など企業グループ内が中心だ。このため、ドイツなどと比べて中途採用市場は発展しづらい。日本の労働市場が柔軟性を欠き、転職が容易ではないのはこうした背景がある。「ジョブ(職務)」の定義も企業ごとで曖昧だ。賃金交渉も多くの企業が集団で行い、職種・業種別に合意されるのではなく、各企業の経営者と企業別組合間で行われるため、平均年収も上がりづらい。価格競争も厳しい。
日本では新卒一括採用がなぜ続くのか。なぜ賃金が上がらないのか。国産ワクチンがなぜできないのか――。多くの課題が繰り返し検討されながら、本質的な改革には至っていない。変化のために何が必要か、変化により失うものはなにか、変化は本当に望ましいのか。私たちはこうした論点を真剣に話し合う必要がある。
この連載では、私が専門とする雇用や職業訓練制度の国際比較の知見をベースに、次回以降、日本経済が復活するための処方箋などを示していきたい。
(山内麻理・国際教養大学客員教授)
<プロフィール>
やまうち まり
専門は雇用制度や教育訓練制度の国際比較、制度的補完性。カリフォルニア大学バークレー校 東アジア研究所、フランス国立労働経済社会研究所(LEST-CNRS)、ドイツ日本研究所で客員研究員、同志社大学 技術企業国際競争力研究センター、国際教養大学で客員教授(現任)。『雇用システムの多様化と国際的収斂:グローバル化への変容プロセス』(2013)が、労働関係図書優秀賞、日本労務学会学術賞を受賞、『欧州の雇用・教育制度と若者のキャリア形成:国境を越えた人材流動化と国際化への指針』(2019)が大学教育学会選書(JACUEセレクション)入賞。日本労務学会・学術賞審査委員、国際ビジネス研究学会・学会賞委員会委員、中央職業能力開発協会 参与、厚生労働省グッドキャリア企業プロジェクト審査委員などを歴任。博士(商学)。