流氓(チンピラ、フーリガン)で読み解く中国史 菱田雅晴
改革開放へとかじを切った1970年代末の中国には、“流氓(りゅうぼう)罪”があった。「流氓」とは、ならず者、チンピラ、フーリガンといったところだが、文革により荒廃した社会秩序を糺(ただ)そうと79年刑法には、けんかをしたり、婦女子をからかうなど公共秩序を乱すものには懲役7年を科す(160条)と規定されていた。
だが、この流氓罪は、97年の刑法改正で姿を消す。というのも、あまりに適用範囲が広いこの流氓罪は、「刑罰は必要最低限であるべきで、刑法は補充で十分」という刑法の謙抑性・補充性原理に背くからだった。
そもそも、「流氓」とは生業につくことなく社会を乱す無法者が本来の語義だが、現代中国でも「○○流氓」と日常会話でも使われる。
だが、荘子が《窃珠者誅、窃国者諸侯》(小罪は罰せられ、大罪は賞せらる)と説く通りならば、中国の王朝史の興亡とは傑出した流氓の蠢動跋扈(しゅんどうばっこ)によるものではなかろうか。
こうしたスケールの大きい歴史観から中国史を再編しているのが、陳宝良著『无籍之徒 中国流氓的変迁』(山西人民出版社、2022年)だ。明清史研究の第一人者、陳宝良・西南大学教授によるこの大著は、流氓意識が政治、経済そして道徳、文化領域に深刻な影響を与え、中国の2000年の歴史において流氓が極めて重要な役割を果たしていることを雄弁に示した。四書五経から二十四史まで、王朝文献から地方誌、司法文書から小説に至るまで膨大な史料を渉猟し、秦漢期から隋唐、明清に至る流氓階層を系統的に描き出し、とりわけ核心とされる流氓意識の政治への浸透では、劉邦=漢の始祖、趙匡胤=宋の太祖、そして朱元璋=明の開祖らの儒者君子の仮面に流氓無頼行為を見いだし、流氓が皇帝となる中国史を浮き彫りにしている。流氓史研究の金字塔的巨著といえる。
だが、前王朝を転覆するのが流氓だとすれば、1949年の中国革命を果たした中国共産党も流氓組織なのだろうか、というごく自然な疑問も浮かぶが、当然(!)本書が近現代に言及することはない。このところ相次ぐ「中華民族感情を貶(おとし)める行為」への治安処罰の適用等、恣意(しい)的な法規定を思い起こせば、中国には依然として“流氓罪”が存在しているようにも思える。
(菱田雅晴・法政大学名誉教授)
この欄は「永江朗の出版業界事情」と隔週で掲載します。
週刊エコノミスト2023年11月7日号掲載
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