新規会員は2カ月無料!「年末とくとくキャンペーン」実施中です!

国際・政治 創刊100年特集~Archives

日本人に見えなかった中東の真実 なぜ、パレスチナでは紛争が絶えないのか? 福富満久(2016年9月13日)

中東が揺れている。2016年に連載した福富満久・一橋大学教授の「日本人に見えなかった中東の真実」(全13回)の一部を再掲載します。

〔日本人に見えなかった中東の真実〕連載1 なぜ、パレスチナでは紛争が絶えないのか?

はじまりは、100年前の英国の「三枚舌外交」

 2016年5月16日、英国とフランスが交わした中東分割の密約「サイクス・ピコ協定」が結ばれてから100年が過ぎた。

 この密約の一方で、英国はイスラム教徒とユダヤ教徒のそれぞれに、中東での領土を約束した。この英国の「三枚舌外交」が、その後100年にわたって中東に戦火をまき散らすことになると誰が予測できただろうか。

3宗教の聖都

 パレスチナに接する、イスラエルのエルサレム。ここは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三つの宗教の聖都だ。

 エルサレムのいわれは、ヘブライ語で平和の町を意味する「イール・シャライーム」である。中心に位置する旧市街は、周囲が深い谷になっており、難攻不落の要塞(ようさい)を思わせる。

 紀元前1020年に興った最古のユダヤ人国家、古代イスラエルのダビデ王は、このエルサレムを聖地として、息子ソロモンに王位を継いだ。だが、その後、バビロニア(現在のイラク)に攻め込まれ、人々は捕虜としてこの土地から連れだされてしまった。

 イスラム教徒にとっては、預言者ムハンマドが亡くなった際に、翼のある天馬で昇天した地が、エルサレムといわれている。キリスト教徒にとっては、イエスが生誕した地だ。

 更に、エルサレムは、アフリカ、アジア、欧州を結ぶ文化都市であり、商業の集積地でもあった。

 一方、パレスチナは、古代イスラエルの敵として聖書にも登場するペリシテ人の土地という意味で、そこに住むアラブ人のことをパレスチナ人と呼ぶ。彼らはユダヤ人国家の再建を目指す運動のシオニズムにより、ユダヤ人がパレスチナにやってくる前から、そこ住んでいた。パレスチナ人とユダヤ人は、このパレスチナの土地を巡って、半世紀以上戦争を続けてきた。

 イスラエルを含むパレスチナの面積は、2万1500平方キロメートルである。そのうち、現在パレスチナ人がかろうじて死守している土地は、ヨルダン川西岸地区の5673平方キロメートルとガザ地区の360平方キロメートル。東京都と埼玉県を合わせたほどしかない。

 15年7月時点の人口は、イスラエルに住むユダヤ人が805万人、パレスチナ人が西岸地区とガザ地区を合わせて466万人である。

日露戦争に触発

 これまでパレスチナは、さまざまな国に支配されてきた。第一次世界大戦の直前に支配していたのは、オスマン・トルコ帝国だった。

 当時、巨大な力を持っていたオスマン帝国であるが、1905年に極東の新興国、日本が日露戦争でロシアに勝利したことがその基盤を揺るがした。日本の勝利に影響を受けたオスマン帝国の若者が、08年に「青年トルコ革命」を起こす。それ以降、オスマン帝国は弱体化の様相を呈した。

 一方、不凍港を獲得することが悲願であったロシアは、日本に負けたことでアジアでの南下政策を断念。代わりに、オスマン帝国の勢力圏・支配圏であったアドリア海や地中海に出ることを虎視眈々(たんたん)と狙った。

 このロシアの南下を食い止めるために、オスマン帝国は第一次世界大戦の口火が切られると、ドイツやオーストリアをはじめとする同盟国側に立って参戦した。

 すると、フランスやロシアと共に連合国側にくみしていた英国は、同盟国側についたオスマン帝国の内部崩壊をもくろんだ。オスマン帝国の支配下に住むアラブ人に対して、オスマン帝国への武装蜂起を呼びかけたのだ。

 この呼びかけに応じたのがサウジアラビアの聖地メッカのシャリーフ(ムハンマドの血統を有するメッカの警守)のフサイン・アリーだった。英国は、対価としてこの地域におけるアラブ人の独立を15年10月に約束した。フサイン・マクマホン協定である。

 ところが、膨大な戦費を必要としていた英国に融資していたのは、ユダヤ人の富豪ロスチャイルドだった。17年、英国はそのロスチャイルドにユダヤ人国家の建設を約束した。これをバルフォア宣言と呼ぶ。

 更に英国は、同じ連合国側のフランスやロシアと、大戦後の中東地域の分割を協議していた。その密約が、今から100年前に結ばれたサイクス・ピコ協定である。

 英国の「三枚舌外交」で、約束をほごにされたのは、アラブ人だった。アラブ側は、19年のパリ講和会議にフサインの三男ファイサルが出席し、パレスチナの支配権を約束通り求めた。しかし、英国とフランスはそれを拒否。

崩壊した宗教の寛容性

 1920年4月、サイクス・ピコ協定通り、パレスチナとイラク中心部で石油生産が見込まれるバグダッド・バスラ、そこからの積み出し港となるペルシャ湾岸までを英国の委任統治領に、肥沃(ひよく)な三日月地帯の北部シリアから地中海に抜けるレバノン沿岸部のすべてをフランスの委任統治領にすることが決定された。

 その後イラクでは、委任統治に対する反乱が起きたため、英国は最終的にファイサルをイラク国王に、フサインの次男アブドゥッラー(現ヨルダン国王アブドゥッラー2世の曽祖父)をトランスヨルダン王にすることで融和を図った。

 しかし、パレスチナには、バルフォア宣言通り、ユダヤ人の建国が進められるのである。

 英国の狙いは、ユダヤ人とアラブ人の対立を作り上げることによって、調停者としての役割を担うことだった。

 だが、英国進駐により、それぞれの宗教が緩やかに共存していた土地に所有意識が芽生え、宗教本来が持つ寛容の精神も崩壊していった。

 貧しかったパレスチナの民は、第二次世界大戦時に迫害を逃れてやってきたユダヤ人の入植者に土地を売った。そのため、パレスチナにおけるユダヤ人の人口は急速に増加した。これは後にアラブ諸国から非難される。

 47年11月29日の国連総会では、パレスチナの56・5%の土地をユダヤ国家、43・5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを国際管理とするという国連決議が、賛成33、反対13、棄権10で可決された。ホロコーストに加担したフランスをはじめとする欧州諸国は贖罪(しょくざい)の意味で賛成、また、米国、ソ連、ブラジルなども賛成した。当事国の英国はひきょうにも棄権した。アラブ諸国は当然のことながら、反対に回った。

 48年5月、英国のパレスチナ委任統治が終了すると、イスラエルはパレスチナ分割決議を根拠に、独立を宣言、イスラエル国家が約2000年ぶりに誕生した。

 その後、中東諸国はイスラエルとの戦争に明け暮れることとなった。英国が奪ったアラブ人とユダヤ人の寛容性は、その後取り戻されることはなく、2016年の現在でもパレスチナに和平は訪れていない。

(福富満久・一橋大学教授)


■人物略歴 ふくとみ・みつひさ 1972年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。パリ政治学院Ph.D.。一橋大准教授などを経て2015年より現職。

インタビュー

週刊エコノミスト最新号のご案内

週刊エコノミスト最新号

12月3日号

経済学の現在地16 米国分断解消のカギとなる共感 主流派経済学の課題に重なる■安藤大介18 インタビュー 野中 郁次郎 一橋大学名誉教授 「全身全霊で相手に共感し可能となる暗黙知の共有」20 共同体メカニズム 危機の時代にこそ増す必要性 信頼・利他・互恵・徳で活性化 ■大垣 昌夫23 Q&A [目次を見る]

デジタル紙面ビューアーで読む

おすすめ情報

編集部からのおすすめ

最新の注目記事