プーチン大統領の葛藤と歪んだ歴史観をロシア取材40年の観察眼で解説 評者・高橋克秀
『プーチンの敗戦 戦略なき戦術家の落日』
著者 池田元博(日本経済新聞編集委員)
日経BP 2640円
冷酷だが合理的な戦略家。ウクライナ侵略でこうしたプーチン像は崩れ去った。西側世界からみると不合理で場当たり的なプーチンの行動原理は何か。本書はプーチンの内面と行動の揺れを1990年代にさかのぼって丹念に追っていく。東西パワーバランスの激変と大国ロシアの没落が、プーチン独自の神経症的な歴史観につながる過程を丁寧にプロファイリングしている。
もともとプーチンは骨絡みの反米主義者というわけではなかった。実際、2000年の大統領就任からしばらくは西側との融和を模索した。ソ連崩壊後のロシア経済の混乱と国際的地位の低下を目の当たりにして西側の資本と技術は構造改革に不可欠だった。なんとプーチンはロシア自身のNATO(北大西洋条約機構)加盟まで真剣に検討したという。こうした柔軟外交が奏功して西側との雪解けが近づいたかに見えた時期もあった。しかし、西側のロシアを見下すかのような冷たい視線に直面してプーチンは孤立感を深めてゆく。とくに米国がロシアの反対を軽視してNATOの東方拡大を進めたことはプライドを傷つけた。米露関係の浮沈がプーチンの心理を動揺させ、国際社会の秩序形成から疎外されたという感情が怨恨(えんこん)に転じてゆく。ウクライナ戦争とは「ウクライナとの戦いというよりも、ロシアを裏切った西側、とりわけ米国との戦いなのだろう」と筆者は推測する。
今から振り返れば西側はプーチンの心理的葛藤にあまりにも無頓着であったとはいえるだろう。プーチンが感じた屈辱は大国ロシアに対する国家的侮辱として彼の脳内で肥大化し、ロシアの正当性を独自の歴史観で裏打ちする方向に発展する。
歴史観とはじつに厄介な問題である。それが独裁者のゆがんだ歴史観となると災禍は全世界に及ぶ。中国にも同じことがいえようか。ウクライナ侵略の前年に発表されたプーチンの長大な論文「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」はロシアとウクライナは歴史的、民族的に同根であり、ウクライナの領土の大半はもともとロシアの一部であったと主張する。
こうしたプーチンの領土に対する執着を知っていれば、北方領土問題で日本と妥協する可能性は皆無であったとわかる。本書はファクトの積み重ねで読者を引き込んでゆく。ロシア取材40年の綿密な観察と国際政治を見る大局観が絶妙にブレンドされている。プーチン戦争の本質を考えるすべての読者にとって有益であろう。
(高橋克秀・国学院大学教授)
いけだ・もとひろ 1982年、東京外国語大学ロシア語科卒、日本経済新聞社入社。モスクワ特派員、ソウル支局長などを歴任。帰国後は論説委員会で活動。著書に『プーチン』などがある。
週刊エコノミスト2023年12月5・12日合併号掲載
『プーチンの敗戦 戦略なき戦術家の落日』 評者・高橋克秀