ドキュメンタリー映画「奇跡の子 夢野に舞う」を監督――沼田博光さん
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北海道テレビ放送 報道デスク、プロデューサー 沼田博光/102
北海道長沼町の遊水地を舞台に、タンチョウを呼び戻そうと奮闘する地元農家の姿を7年にわたって追い続けた。その裏側には、ローカルテレビ局員としてのある深い思いがあった。(聞き手=りんたいこ・ライター)
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── 沼田さん初監督作のドキュメンタリー映画「奇跡の子 夢野に舞う」が、1月20日から札幌市のミニシアター「シアターキノ」を皮切りに全国で順次公開されます。北海道でタンチョウと人間の共生を描く今作品の、製作に至った経緯を教えてください。
沼田 2015年ごろ、フランスの映像製作プロデューサーから「富士山をバックにタンチョウを上空から撮影したいから協力してくれないか」という相談を受けました。タンチョウは日本では道東(北海道東部)にしか生息していないので、さすがに無理だと断りましたが、一応調べてみようとリサーチを始めたところ、たどり着いたのがタンチョウ研究の第一人者で、専修大学北海道短期大学(17年4月廃止)の名誉教授、正富宏之さんでした。
そして正富先生は、「長沼町にツルを呼ぶという世界初の計画がある」と教えてくれたのです。北海道の長沼町は札幌市から東に車で1時間ほどのところにあり、タンチョウの生息地である釧路湿原からは250キロメートル以上離れているので、これには驚きました。そこで、現地に行ってみると、農家さんのグループが一生懸命タンチョウを呼ぼうとしている。興味を覚え、長沼町に通うようになりました。
── なぜ、この計画に興味を?
沼田 北海道の湿地は開発のため、この50年で7割以上がなくなったといわれています。一方、タンチョウは、水辺の生態系のトップにいます。タンチョウが住める環境を作るということは、タンチョウが食べるエサや、そのエサが生息する水辺や湿地帯などを丸ごと復活させるということなのです。
「タンチョウを呼び戻す農家の7年の記録」
「奇跡の子 夢野に舞う」は、北海道テレビ放送(HTB、札幌市)で報道デスク、番組プロデューサーを務める沼田さんの初監督ドキュメンタリー映画。赤い頭頂部が特徴的な大型のツルの一種、タンチョウは、乱獲などにより数を減らし、国の特別天然記念物や絶滅危惧種に指定されている。約130年前、開拓当時の長沼町にもタンチョウは飛来しており、町立長沼舞鶴小学校(20年3月閉校)などに「舞鶴」の地名が残る。 過疎化が年々進む中、子どもたちが誇れる町にしたいと、地元の農家14人がタンチョウを呼び戻すために立ち上がった。舞台となったのは、洪水対策として15年3月に完成した「舞鶴遊水地」(約200ヘクタール)。映画では湿地づくりなどに取り組む彼らの姿を7年にわたって追い続け、俳優の上白石萌音さんがナレーターを務める。
中止となった放水路計画
── 長沼町での撮影は16年に開始したそうですが、苦労したことは?
沼田 最初の課題はカメラの手配でした。報道部では事件や事故の取材が優先される中、来るかどうかも分からないタンチョウに撮影班を出すのは無理に等しい。ちょうどそのころ、私が報道部の仕事と兼務していた映像技術部では、四季折々の美しい自然の風景を撮影し、その映像素材を販売する事業を始めようとしていました。そこで、取材対象の農家さんの許可を取り、美しい田園風景を高精細の4Kカメラで撮るという企画を立てて、2人のカメラマンが事件や事故の発生に関係なく長沼町に通えるようにしました。
── その映像で製作したのが、20年5月にテレビ朝日系で放送したドキュメンタリー番組「タンチョウふたたび」ですね。
沼田 そうです。でも、その30分の番組では、20年4月にタンチョウが飛来したというシーンまでを入れるのが精いっぱいでした。それで、その後を追いかけた60分の拡大版「たづ鳴きの里」を北海道のみのローカル地上波で6月に放送しましたが、それでもタンチョウを呼んだ農家さんの苦悩や、あの地域が抱えている歴史に触れることはできませんでした。
── 地域の歴史や農家の苦悩にこだわったのはなぜですか。
沼田 1981(昭和56)年に記録的な集中豪雨で、石狩川と千歳川流域で大洪水が発生する、いわゆる「56水害」が起きました。私は当時、高校2年生で、通学途中に豊平川(石狩川の支流)の濁流を見た時は恐怖を覚えました。洪水の後、ボーイスカウトのボランティア活動で被害に遭った養豚農家さんのところに行き、死んでしまった豚を土砂の中から引っ張り出す作業をしたこともあって、よく覚えているのです。
札幌市出身で自然番組が作りたいとHTBに88年、入社した沼田さん。報道記者として駆け出しのころに取材したのが、その56水害をきっかけに北海道開発庁(現国土交通省)が策定した「千歳川放水路計画」だった。沼田さんは、北海道開発庁と自然保護を訴える反対派が対立する現場を取材しながら「記者として公平な立場にいなければいけないと思いながら、どう考えてもこの計画は環境への負荷が大きすぎると思った」と振り返る。その後、転勤で数年のブランクはあったものの、この放水路計画が中止となる99年まで取材に携わった。
報道記者として「落とし前」
── その56水害と今回の映画は、どうつながっているのですか。
沼田 今回…
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週刊エコノミスト
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