教養・歴史書評

バブル崩壊後の90年代初頭~00年代前半にホームレス女性が遺した日記を書籍化 評者・後藤康雄

『小山さんノート』

編者 小山さんノートワークショップ

エトセトラブックス 2640円

 本書は、とあるホームレス女性──「小山さん」の日記を、彼女の没後に、知人や関係する人々が尽力して出版につなげたものである。通常の人々がホームレスの生活を内側から見る機会はまずない。テレビ番組のように部外者が一部を切り取った形ではなく、本人が経験し感じたことがありのままにつづられている。

 中心的な内容はあくまで個人の日記であり、自己主張や論理展開などはない。しかしそこにはわが国の貧困問題をめぐる課題や論点が凝縮されている。例えば貧困への支援が量的に足りないだけでなく、時に横柄な現場の対応は生活保護の受給者などの心理的ハードルを上げかねない。また、特に女性につきまとう暴力のリスク──ホームレス化のきっかけ(パートナーからの暴力など)として、あるいはホームレス後の攻撃という形で──もある。ひとたびつながりが切れると復帰が困難な社会構造など多様な問題も垣間見える。

 往々にして現代経済学は全てのことがらを金額換算できると「仮定」して議論する。社会の仕組みも、そうした「仮定」に基づいて効率性重視で築かれていく。実際は価格をつけられない大切なものがあるのに、いつしか経済的貢献の大小で人の価値まで測る意識をおそらく心のどこかに生んでしまっている。

 日記では、社会への経済的貢献はほぼゼロの彼女の不安、恐れ、悲哀などの悲観的要素が多々語られる。その一方で強く目を引くのは、日常のささやかな出来事や季節のわずかな変化をとらえる豊かな感受性である。その根底をなすのは社会への恨みよりむしろ感謝や慈しみであり、全体を貫くのは人間の尊厳である。

 日記の執筆期間は、バブルが崩壊した1990年代初頭から2000年代前半までの金融危機時に相当する。わが国にもっとも余裕が無く、貧困問題が顕著な形で噴出した時代であった。それでは現在は状況が改善したかといえば、支援が行き届いているとは到底いい難い。

 一般に経済成長と格差是正はトレードオフの関係にあるとみられがちだが、国民のモチベーション向上を伴うなど一定の条件下では二兎(にと)を追えるとの主張をはじめ、分配をめぐる研究や議論も進んでいる。我々の社会はまだ最終形ではないだろう。

 ある日の「小山さん」は、街角で「太陽がいっぱい」のメロディーを耳にし、なつかしさと希望を胸にする。私たちが未来に希望を持ち続けられるかはわからない。しかし、繊細な一人の女性がこの世に生きていた証しは確かにここにある。

(後藤康雄・成城大学教授)


 小山さんノートワークショップ 2015年から継続的に、「小山さん」が遺した手書きノートの書き起こしや路上朗読会、座談会などを行っているグループ。野宿者やひきこもり、非正規労働者、留学生などさまざまな人々で構成されている。


週刊エコノミスト2024年2月13日号掲載

『小山さんノート』 評者・後藤康雄

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