週刊エコノミスト Online サンデー毎日
元日にボクは死にかけた 部屋中に散乱する下血、意識混濁、血圧降下、そして救急搬送… 水道橋博士の藝人余録/7
テレビで能登半島の悲鳴を聞きながら/「下部消化管出血」という危険な病名/まさに「命あっての物種」
鬱病を発症して「議員失格」となった自身のことを振り返る前回は大きな話題を呼んだが、その後の博士を、今度は重篤な病気が襲った。しかも今年元日に。死なずにすんだ博士が、持ち前の「記録への意志」を発揮して、その全経緯を詳細に辿り直す――。
《地上最大の当然事――
他人の死、
地上最大の意外事――
自分の死》
と、名著『人間臨終図巻』に書いたのは作家・山田風太郎(2001年没)ですが、その「意外事」寸前の出来事が今年の元日、我が身に起きたことを今回は語りたいと思います。
2024年元日。
大晦日(おおみそか)に歌舞伎町で朝5時までライブと配信番組に出演後、自転車で1時間かけて朝6時に帰宅。1年の計である日にもかかわらず、いぎたなくも午(ひる)過ぎに起床しました。
旧年は鬱(うつ)病が再発し、参議院議員辞職までしたボクも、自転車でUberEatsの配達員ができるほど元気になったつもりなのですが、体調面で気になることは排便時に下血が続いていることでした。年末に人間ドックを受診したところポリープが2カ所見つかりました。12月25日に掛かりつけの医院で日帰り手術コースで全身麻酔を施し、S状結腸のポリープを除去。そして直腸のポリープを焼却しました。直腸の方は肛門と近いため傷痕を留めている器具(クリップ)が取れて大出血のおそれもあるとのことで、2週間の禁酒を念押しされましたが、年末27日のライブの打ち上げでついつい飲酒をしてしまいました。
そして迎えた元日の16時過ぎ、能登半島で地震が発生します。想定外の大地震で、当初から津波警報が出されTVが次々と特番に変わっていきました。あの辺りは原発銀座であることからも3・11以来の緊張感が募りました。そんな時に便意が更に頻繁となり、ついに8回連続下血が続くと、文字通りに顔面から血の気が引きました。
元日は我が家では末っ子の誕生日のため、ケーキを買ってきたカミさんに体調不良を申告したのですが、その時すでに前後不覚で立っていられず、便意が我慢できず漏らしてしまった血痕が部屋中に散乱していました。まるで漫画『殺し屋1』の惨殺シーンのように。部屋を眺めて異常事態に驚愕(きょうがく)するカミさんに119番を要請しながら、そのまま意識が更に遠のきました。海で溺れているような感覚のなかで、家族の混乱が朧(おぼろ)げにわかります。
どうやら正月なので電話が通じない様子。子どもたちにもお願いして3カ所から消防庁にダイヤルしているようでした。家族は一丸となって今にも消えていきそうなボクの命を救おうとしていますが、ボクは遠い彼方からそれを夢見心地で眺めていて、静かに人生からフェイドアウトしていくような感覚でした。
18時ごろ、やっと救急電話が繋がり、すぐに東京消防庁から救急救命士3人が駆けつけてくれました。ボクは薄れゆく意識で椅子に腰掛け、救命士さんが大きな声で「バイタル」を確認していきます。「バイタルサイン(vital signs)」とは「生命兆候」という意味の医学・医療用語です。医療従事者の間ではバイタルサインを「バイタル」と略して呼ぶのが通例です。血圧、脈拍、酸素濃度の確認が基礎的です。ボクはNHK総合で『総合診療医ドクターG』の司会を務めていたので緊急時のやりとりは見慣れた光景だったのです。
意識を失い、遠くからカミさんの声
そうこうするうちにサイレンの音を立てて救急車が到着し、先着の3人と状況の伝達事項を引き継ぐと、今度は別隊の4人体制での救助チームになります。再びバイタルを確認すると、血圧が下がり続けていました。目は霞(かす)み、会話もままならず、血圧が上で86しかないと判明した時、即座に搬送が決まりました。
救急車から慌ただしくストレッチャーが部屋に運び込まれ、横たわると、そのまま救急車へ運び込まれました。救急車に乗るのはこれで人生4度目です。
1度目は30年前に日テレのスタジオで収録中、椎間板(ついかんばん)ヘルニアが悪化して一歩も動けなくなった時です。原因は『スーパージョッキー』でやった雪山での人間サイコロでした。
2度目は20年前のTVロケで、北海道の旭川で自衛隊と雪中行軍を徹夜で2日続け下山と同時に失神して運ばれました。
3度目は10年前にウイルス性髄膜炎で本番終了後のスタジオで倒れ「東京医大」に搬送され入院しました。
人生通算の平均値を取っても、4回は多い方ではないでしょうか。
車内でヘモグロビンの点滴を受けながらも、バイタルの数値が測り続けられます。一度は意識を失いました。遥(はる)か遠くから一緒に車内に乗り込んだカミさんの声が聞こえてきます。
搬入先の病院が決まらず、しばしの待機時間がありました。元日なので病院も限られるのでしょうが、最終的には西新宿の「東京医科大学病院」に決まりました。バイク事故の時の師匠ビートたけしの搬送先であり、冒頭の山田風太郎の出身校でもあります。
けたたましくサイレンを鳴らしながら救急車はノンストップで新宿へ向かいます。救急隊の確認連携に耳を傾けました。「主訴、ふらつき」「お名前、小野正芳、男性」「症状、発汗、冷や汗、冷感……」
点滴が続くなかで意識を取り戻すと「後進に伝えるために、今のこの様子を動画で回していいですか?」とボクが訊(き)くと、隊長が即座に怒気を含んだ声色で「ご遠慮ください!」と返されました。隊長を中心に刻々とバイタルデータを取り、隊員の皆さんは険しい顔を崩さず、気を抜かず、緊張感が続きました。
点滴が功を奏したのか段々とボクが生気を取り戻し、血圧が90台後半になるのを確認すると、隊長がひときわ大きな声で「大丈夫です!! よかったあ!」と言うと、ボクの肩に抱きついてきたのです。そして「顔色も良くなっています!」と救急隊の皆さんが声を上げ、一緒に安堵(あんど)してくれます。逆に言えば、それほどボクが危険な状態だったのでしょう。
震えが止まらなくなり、うめき声が
到着した西新宿の東京医大ではまず入り口でコロナの検査をします。綿棒を鼻の奥まで入れられ、思わず「痛い!」と声を上げました。そのままストレッチャーごと降りると、ER(緊急治療室)へ直行します。広いERの部屋には夜勤の担当チームが5~6人いますが、皆さんお若いのに驚きました。「正月から帰省もしないでご苦労さまです」と恐縮してしまいます。
ストレッチャーからベッドに移されると、名前、生年月日の確認、そして治療方針を告げられ、MRIを実施後、造影剤を注射して内視鏡検査の準備を整えます。服を脱がされると否応(いやおう)なくオシメを穿(は)かされました。担当医がボクの肛門に指を入れて触診します。これが痛いのなんの!
その後、急に寒さを感じ始めました。部屋は暖房禁止なのかバスタオルを次々に掛けてもらっても追いつきません。看護師さんが乾布摩擦のように体をさすってくれますが、震えが止まらない。最後は布団乾燥機のようなもので熱風を送られるのですが、それでも凍死しそうな感覚に襲われます。「寒い、寒い」とうわ言のように言っていました。
そのまま消化器専門医を待つ時間、内視鏡検査のための浣腸(かんちょう)をされ、オシメが更に大きなものに取り換えられました。込み上げてくる大便も小便も垂れ流すのですが、周囲は女性の看護師さんのみです。たけし軍団育ちのボクですら恥ずかしい思いがしました。
そのうち寒さからなのか突如震えが止まらなくなりました。激しく体が揺れ動きます。それを見て周囲も混乱していきます。「シバリング発生!」「シバリング発生!」と合言葉のように発せられると、管制塔のスクランブル放送のように対策案が飛び交います。
シバリング(shivering)とは体温が下がった時に筋肉を動かすことで熱を発生させ体温を保とうとする生理現象で、「身震いする」という意味の英語です。シバリングは主に術後、全身麻酔からの覚醒後に起こりがちな現象です。歯のかみ合わせがガタガタガタと鳴り、自然に「ウーアー!」と、意味不明のうめき声が自分の意思では止まらなくなりました。まるで体内に別人がいるような、自分が映画『エクソシスト』の悪魔に憑(つ)かれた少女・リンダ・ブレアのようでした。
しばらくこの状態が続いたまま、消化器系の医者が到着。ここからボクに入院させるための趣旨説明が始まります。
「先生、入院は嫌です。帰らせてください。明日、家族で帰省するんです」とブルブル震え、ガタガタ歯を鳴らしながらも、カタコトで頼み込みます。ボクでは埒(らち)が明かないと待合室に居たカミさんがERに呼ばれ、医師団の説明を聞き終えると、あっさり入院を受け入れコチラを向いて、「パパ、諦めて。もう帰省はバラしたから。新幹線もホテルも解約したから」。
その瞬間にポロポロと涙が零(こぼ)れ落ちました。「ああ、あんなに子どもたちが楽しみにしていたのに。またボクのせいで」。10年前の緊急入院の時もパリ行きの家族旅行が中止になり、ボクの心に悔恨を残していました。
全身麻酔をしないで内視鏡検査が始まります。痛みと違和感とシバリングで壮絶な現場になっていますが、緊急手術を経て再びポリープを焼き切りました。先生の説明によると、焼却したはずのポリープの傷痕から血管が飛び出していたので、その血管を焼き切る手術を施したとのこと。
そして、今まで垂れ流しになっていた出血が止まりました。
改めて悟りました。人間とは口から肛門までの一本の管と周囲の肉と骨と筋肉と血管だ、と。やはり人間は「考える葦」なのです。
数時間処置が遅れれば死んだ可能性も
入院する病室が決まり、ベッドに移されても点滴と酸素吸入が続きます。熱を測ると38度2分もありました。病室でカミさんと2人きり携帯を覗(のぞ)き込みながら、家のリビングで子どもたち3人だけで末っ子の誕生会をするところを見ていました。ケーキの上の15本の蝋燭(ろうそく)に火を灯(とも)し、新たな誕生日が祝われていました。
ベッドに横たわり鼻に酸素の管を通し、腕には点滴の管を通すと、見た目は立派な重病人に仕上がります。
深夜にテレビで、能登半島の様子を見ていると自分よりもはるかに重い、日本列島の悲鳴が聞こえました。入院の書類に目を通しながら診断書で正式の病名を知りました。
「下部消化管出血」
数時間でも処置が遅れれば死亡率も高い病気でした。
毎日ブログを書くボクはこの日も病床から書き綴(つづ)りましたが、当初は飲酒について触れていなかったので、掛かりつけ医院の「医療ミス」と誤解される方もいました。しかしすぐにSNSで訂正して禁酒期間中の飲酒の事実を書きました。そうなると逆に自己管理の甘さに非難囂々(ごうごう)となり、年末年始、繁忙期の医療リソースの侵害とも書かれました。ボクは病院関係者には個別に謝罪しました。
訂正の訂正を書かせてもらえば、傷痕のクリップが外れた理由は、ボクの長時間ライドによる自転車のサドルからの刺激によるもの、の説も有力です。また、ボクが腸活のために毎日食べている「キムチ納豆」のお陰で快便になり、毎朝、見事な一本グソを出しているため、その硬度が高い排便が直腸を圧迫していた説もあります。
笑い話を付け加えておけば、消防隊が部屋に入ってきた時、一刻を争う張り詰めた空気のなか、隊長がカミさんに向かって「娘さんですか?」と第一声。カミさんが1オクターブ上がった声で「いいえ、妻です!」と答えた場面は、我が家だけの「スベらない話」として語り継がれています。
記録用に残そうとした救急搬送の車内ビデオは撮れませんでしたが、こうして文章で詳細に体験を残すことはできました。まさに「命あっての物種」です。
再び山田風太郎を引きます。
《人間には早過ぎる死か、遅すぎる死しかない》
今回はボクが早すぎる死を免れた話でしたが、次回はボクの周囲の知己の早すぎる死について、「藝人死話」で偲(しの)びたいと思います。
すいどうばしはかせ
1962年、岡山県生まれ。お笑い芸人。玉袋筋太郎とのコンビで「浅草キッド」を結成。独自の批評精神を発揮したエッセーなどでも注目され、著書に『藝人春秋』1〜3、『水道橋博士の異常な愛情』ほか多数ある