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皇嗣不足の江戸時代でも側室増員をしなかった訳 社会学的皇室ウォッチング! /109  成城大教授・森暢平

一般公開される高御座=京都市上京区で2020年7月18日
一般公開される高御座=京都市上京区で2020年7月18日

 これでいいのか「旧宮家養子案」―第11弾―

 天皇の歴史で男系継承が最優先であったなら、複数の妻あるいは多数の側室を抱えればよいはずである。しかし、天皇が側室を無制限に持てたわけではなく、誰でも側室になれたわけでもない。実は側室とは「一夫一妻」の建前ができる裏面で発達する特殊な制度である。男系継承は側室制があったから続いたと単純に語られることが多いが、そもそも「側室」がシステム化されたのは、江戸時代中期のことである。(一部敬称略)

 江戸中期の4人の天皇の正室(中宮または女御)を確認しよう(表)。いずれも遅くとも21歳までに初産を経験している。注目すべきは、いずれも夫たる天皇の最初の子を産んだことだ。これは偶然ではない。

 一夫多妻であれば、天皇がどの女性に子を産ませようと構わないはずだ。中世の天皇は経済的な理由から正式に結婚できない場合があり、事実上、複数の女性を娶(めと)る一夫多妻の実態があった。しかし、江戸期に入ると「一夫一妻多妾(たしょう)」というシステムに変質していく。

 桜町天皇を例にとろう。二条舎子(いえこ)が皇妃となった(入内した)のは1736(元文元)年で、20歳のときである。このとき東宮女官(上臈(じょうろう))には姉小路(あねがこうじ)定子がいた。定子はのちに側室となるが、当初、あくまで正室からの嫡出子が目指された(定子は夜の務めをしていないと考えられる)。二条舎子は1737(元文2)年に盛子(もりこ)を、3年後に智子(としこ)(のち後桜町天皇)を産むが、ともに内親王であった。ここで姉小路定子の出番となったと考えられる。定子は1741(寛保元)年、遐仁(とおひと)(のち桃園天皇)を産んだ。父である桜町天皇は遐仁を二条舎子の「養子」とした。

 一夫一妻が原則であり正室の子(嫡出子)が継嗣となるのが基本であった。しかし、それだけでは跡継ぎを得られない可能性がある。そのため、側室が補完的に設けられた。ただ、側室の子(庶出子)を継嗣とするのは例外であり、一夫一妻を擬制するために、遐仁を舎子の「養子」としたのである。以後、明治までこの慣習は続く。

 運命に委ねると家断絶の危機に

「一夫一妻多妾」というべきシステムは、江戸時代、とくに大名家で一般的となる。大名家の婚姻には幕府による許可が必要である。幕府は許可制を通じて諸大名を管理した。末期(まつご)養子は禁止されていたから、正室に子がないと家が取り潰しとなる可能性が出る。しかし、例えば三代将軍、家光の正室、鷹司(たかつかさ)孝子は、夫との不和と心の病のため子をなすことができなかった。徳川家ですら庶出子を跡継ぎとしなければ、家を存続し得なかったのである。

 家の将来を、正室から男子が生まれるという運命に委ねていたら、いつか家が断絶しかねない(福田千鶴『近世武家社会の奥向構造』)。そこで正室とはほかの女性、つまりは側室に子をもうけさせるシステムが発達していく。宮廷を含む京都の公家と大名家では、婚姻システムが異なると考える人もいるだろう。しかし、公家から徳川家に嫁入りした先の鷹司孝子のように、公家社会と江戸城大奥は女性ネットワークでつながっていた。武家社会の習慣は公家、そして宮廷にも影響していく。「一夫一妻多妾」は、こうして天皇家の習慣になっていくのである。

 表に挙げた中御門天皇から後桃園天皇の時代は、嫡出原則を貫くために、側室を絞った時期であった。背景として、東山天皇の生母の出身家である松木家、中御門天皇の生母の出身家である櫛笥(くしげ)家が外戚として宮中に介入した経験があった。こうした弊害を断つため、天皇の正室となるべき家を五摂家(近衛、九条、一条、二条、鷹司)に限った。仮に、五摂家以外の側室が跡継ぎをなしたとしても、正室を「養母」とし、五摂家以外が外戚となることを防ごうとしたのだ。

 さらに、側室になるべき女官(典侍(てんじ))になれるのも、公家の序列のなかでは羽林(うりん)家、名家、半家のうち、江戸期以前から続く「旧家」を基本とするなどのルールも定まっていく。側室は家格が重視された。女性好きの天皇が、下級女官を「お手付き」とする場合もあった。このとき、故意に堕胎させる例まであったようだ。

 こうした「嫡出男子追求路線」の結果、起きたことは、跡継ぎの先細りであった。それぞれの後継男子は、中御門天皇に6人いたものの(成人となった者3人)、桜町天皇1人(成人まで成長)、桃園天皇2人(成人となった者1人)であり、後桃園天皇はゼロになってしまう。

 負の「スパイラル」構造的問題だった

 中御門天皇から後桃園天皇までは、女性の後桜町天皇を除けば、かろうじて直系継承が続いた。しかし、後桃園天皇は男子をなさないまま21歳で亡くなってしまい、中御門系の皇統は途絶えてしまう。ここで7親等離れた傍系である閑院宮師仁(もろひと)を即位させた(光格天皇)のは前号で紹介したとおりだ。

 歴史学研究者、林大樹は、正室の「第一子(後継者)を希求すると、女官・女中からの出生が憚(はばか)られ、皇子女の総数が減ってしまう。(略)成り手の不足によって女官の高齢化が進み、側妻候補が限られ、出生率の低下を招く、という、負のスパイラルを引き起こしていた。近世中期の後継者激減は、嫡出子相続を希求した結果発生した、構造的な問題だったといえる」と書く(「近世中期における朝廷政治構造の危機と変革」『日本史研究』2024年2月号)。背景には、むやみに側室を増員できない一夫一妻の理念があった。

 側室は一夫一妻を補完する制度だ。政治家のなかには、参政党代表の参院議員、神谷宗幣(そうへい)のように男系継承維持のために側室復活を主張する者までいる(『維新と興亜』2023年3月号)。側室があれば継嗣に困らないかのような物言いが現代社会で適切なのかはともかく、江戸時代でさえ側室制は止(や)むを得ずに行われていた歴史は踏まえるべきである。そして、側室があっても、男系継承に頼るのみではやはり皇嗣不足に陥った事実も確認されるべきだろう。

(以下次号)

もり・ようへい

 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など

サンデー毎日4月14号表紙(表紙=伊沢拓司)
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