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日本歌謡界の至宝 天童よしみ物語/下(最終回) 私はなぜ歌い続けるのか 松尾潔

天童よしみ(写真協力:天童事務所)
天童よしみ(写真協力:天童事務所)

 反骨ルポライター竹中労に見いだされた天童よしみは、大阪「新世界」の屋台で一人歌うなど、厳しい武者修行を竹中に課せられるが、庶民感情のただ中から汲み上げる歌をさらに成長させていった。心を揺り動かす天童節の秘密に分け入る、注目評伝の最終回――。

「演歌」から「艶歌」へ 大阪「新世界」の路上で演歌の究極の真髄を感じた

 この国が誇るソウルシンガー。そう言いきってしまいたい。天童よしみが、新国劇、美空ひばりとの出会いを経てたどり着いた『全日本歌謡選手権』の審査員・竹中労。ふたりの魂の交歓は燃えさかる焔(ほのお)のようだ。〈うた〉の生まれる理由がここにある。

 ここで私的な事情を記すことをお許しいただきたい。

 テイチクレコード本社でこのインタビューを行った2023年7月、ぼくが15年間所属した音楽事務所スマイルカンパニー(以下、SC)のマネージメント契約が、中途で終了になった。

 SCが契約終了を迫ってきた理由は、ぼくが故ジャニー喜多川氏の性加害疑惑についてジャニーズ事務所(当時)の徹底調査を求めるとメディアで呼びかけたからだ。その際、最高責任者の藤島ジュリー景子社長(同)について名指しで言及したことを、ジャニーズと近い関係にあり、〈義理人情〉を社是的に掲げるSCの小杉周水社長は大きく問題視した。いわば不敬罪による一発退場だった。

 この出来事は『情報ライブ ミヤネ屋』『サンデージャポン』をはじめとするテレビ番組やラジオ、あるいは新聞、雑誌で大きく取り上げられ、ネットでも記事が量産された。その処遇をめぐってはさまざまな意見が飛び交うことになる。

 さらには、SCの看板アーティスト山下達郎氏が、自らのラジオ番組でジャニー喜多川氏への変わらぬ敬意を強調し、「人生で一番大切なことはご縁とご恩」と断言したことが賛否両論を呼んだ。シティポップの帝王として音楽業界に君臨する山下氏がじつは演歌的ともいえる信条の主だったことに、人によっては意外な印象を抱いたのだろう。

 インタビュー当日も、ぼくは天童さんに会う直前まで取材を受けなければならなかった。テイチク社屋に足を踏み入れてからも、スタッフからの視線にただならぬ気配を感じる。無論たんなる気のせいかもしれない。だが天童よしみが身を置く演歌界こそは〈義理と人情〉の総本山とされる世界なのである。

 では、天童さん自身はどうだろう。正真正銘、演歌の象徴的存在である彼女は、ぼくの身の回りで起こっている騒動をご存じなのだろうか。ご存じだとしたら、それをどう捉えているのだろう。取材依頼は騒動の前だったとはいえ、天童さんはどんな気分でぼくのインタビューを受けるのか。そんな訝(いぶか)しい気持ちを抱えながら、半世紀以上のキャリアを誇る国民的歌手に向きあう瞬間を迎えたのだった。彼女は、歌手天童よしみの生みの親である竹中労について語り続けた。

飲んでるおっちゃんたちが泣き出すんです

天童 竹中先生にはいろんな武者修行をさせられました。屋台で飲んでいるおじさんたちの前で歌ってこいと、まだ10代の私を大阪の新世界にひとり置いてきたり。仕方ないから私も「オレが生まれた〜」と歌うんです。そうしたら、飲んでるおっちゃんが泣き出すんですよ。「自分の家を思い出した」って。「ふるさとへ帰る家ないんですか?」って聞いたら「そんなもんあるかあ。あれへんから、ここにおんねん……この子、歌うまいなあ」と何度も言って、ぽろぽろ泣いて。周りを見たら、みんなが泣いているんですよ。

松尾  現在ならコンプライアンスに反する指導法と言われるでしょうが、鳥肌の立つお話です。竹中さんには弱き者に対してのまなざしが常にあり、いつも虐げられる者の側に立ち続けた印象があります。新世界の路上で寝ている人も、子ども時代からそこで寝ているわけじゃないでしょう。社会にうまく適合できなかったのか、人に騙(だま)されたのか、いろんな事情でそこに集まったみなさんが、寄り添うように生きている。

天童 そこで歌うのがやっぱり演歌の究極の真髄(しんずい)ってことなんでしょうね。

松尾 演歌にかぎらず、大衆歌謡、ポップミュージックと呼ばれる音楽は、世界中でそうなのかもしれません。この世は自分の思うがままだという人のものではない。世の中ままならないという人たちにとって、ひとときの憩いとして機能する音楽。それがやっぱり一番強いと思う。天童さんの歌声にはその強さがあります。

天童 2013年、NHKの『ファミリーヒストリー』で私も知らなかった家族のルーツが解き明かされました。父は地元の和歌山県の白浜の明光バスの運転手を務めていて、そこで信頼していた人たちに裏切られたみたいなんですね。それで、私がまだ赤ちゃんだったころ、大阪の八尾に出てきたんです。組合活動を熱心にやっていました。「悪いものは悪い、いいものはいい」ってはっきり言う人で。

松尾 加えてアマチュアミュージシャンでもあり、芸事好きでもあった。

天童 白浜にいたころは『紀伊民報』という新聞に関わっていました。美空ひばりさんがロケに来たら一人で「インタビューさせてくれ!」と言ってひばりさんを取材しているんですよ。当時の新聞も残っているんですけど。だから長い間、父とひばりさんが一緒に写った写真を見て、「親戚のおばちゃんかな?」と思っていたんです。

松尾 その後、愛娘の芳美ちゃんが子役としてひばりさんの舞台に立った時点で、まずお父様の夢は一回叶(かな)っていますね。それが最終的にはひばりさんと同じ生業(なりわい)になるという。なんという運命でしょうか。

親がわりの竹中労は賛否両論ある人

天童 そのときは、ひばりさんに和歌山の印象を訊(き)いたみたいです。「夕べは眠れましたか?」と父が訊く。「波の音が聞こえて、眠れなかったわ」とひばりさんが答える。「何が好きですか」「梅干しかな?」「じゃあ、お土産に梅干しを持っていきます」「あら、ほんと」っていう記事なんですけどね。父とひばりさんのツーショットがすごく大きく出ていて。

松尾 おふたりの短いやりとりに、すべてが詰まっているような感じさえありますね。

天童 もう本当に、そうなんです。

松尾 お父様は竹中さんのことをジャーナリストとしても尊敬されていた、というのは当然あるわけですか。

天童 そうです。ジャーナリストとしても尊敬していました。

松尾 ジャーナリズムと芸能は、遠くにあるようでいて絶対分かちがたいものですよね。だから僕自身、音楽を作りながら、こうしてインタビューや執筆もしています。どちらもあってこそだと思っているので。吉田(天童の本名)家もお父様の代からそうなんですね。

天童 そうですね。そこから始まっているんですね。

松尾 竹中さんも多分、芸能と言論活動の間に線は引いていなかったはずです。

天童 はい、いろいろなアドバイスもいただきましたし。「風が吹く」という曲は、集団就職で故郷から離れて東京へ来た人たちを歌っています。「夕方になると、どの家庭からも夕飯の匂いがするんだよ。ああ母ちゃんどうしてるかな、父ちゃんどうしてるかな、とか故郷のことを思うんだけど、帰るに帰れない。ここで働いてお金を貯(た)めたら帰れるか。『風が吹く』にはそういう想いがあるんだ」とおっしゃるんです。朝鮮半島を旅して、ヘリに乗って上空から街を見たときに、それが戦後の日本の暮らしと重なって「オレが生まれたあの村」「さらばさらばと風が吹く」って歌詞がどんどん出てきたと伺いました。

松尾 芸能プロデューサーとしては異色の竹中さんに見出されて世に出た天童さんは、今この国の音楽業界の真ん中を歩いておられます。あるいは天童さんが歩かれた道が真ん中になったと言い換えてもいい。じつに興味深い話です。

天童 なるほど。ただ、竹中先生が誰からも愛されていたかというと……。

松尾 賛否両論あった方ですからね。そのことでご苦労もありましたか。

天童 ありましたね。一切使ってくれない放送局がありました。ゲスト出演が決まっても、その日のうちに断ってこられたり。「めっちゃ嫌われてるやん!」と思って。「なんで、あんなすごい先生なのに」って。賛否両論で。先生がそういう生き方でしたからね。

松尾 竹中さんは、いわば芸能界における親がわり。うちの親がみんなには好かれてないと気づくのは、子どもには結構きついことですよね。

天童 いろいろと知識があっても、頭がよくても、損する時があるのかなあって思って。

松尾 もちろん「俺は竹中労、大好きなんだよ」っていう人もたくさんいたでしょうが。

天童 いらっしゃるんですよね。そういう方にだけは飴(あめ)を配りたい、という思いでした(笑)。

「ただす人」が涙が出るぐらい好きです

 天童さんの話を聴いていると、長い歌手人生の中で神風らしきものが何回か吹いていることは明らかだ。彼女自身の意図とはちょっと違ったかもしれないが。

天童 吹いてますねえ。私ひとりが「こうしたい」ということではなくて、みなさんが気づいてくれる。だからそこへ行く、みたいなところがありますね。

松尾 初めはちょっと反発を感じても、そういうことを何回か体験してくると、いまはそういう成り行きを面白がる気持ちの方が強いですか。

天童 そうですね。次、何来るやろ?っていうのはものすごく思っていますね。だからこそ、続けられるのかもしれない。期待感っていうか、ワクワクっていうか。別にそれが何十年かかっても、構わないのですよ。その間はそれでそれなりにやっていきますから。

松尾 やめないかぎりはチャンスも続きますよね。

天童 やめたらダメなんですよ。退くと、結局負けます。だったら絶対に私は勝ち組に行きたいですね。常にそればっかりです。やっぱり私もはっきりした性格なので「あかんなもう」といくら言われたって「あかんことあっか!」って、そういう気性なので。

松尾 お父様にも竹中さんにも通じます。

天童 だから、私は「ただす人」が好きです。先生(筆者)のような。ただす人が本当に大好きなんです。涙出るぐらい好きで、共感するんです。それはもう本当に。芸能界ではいろいろなことが日常茶飯事のように起きていますよね。その中でも、自分さえ信念持ってやっていれば、絶対に人様は見ていてくれる。お上手したりするのは、私らも嫌なんで。絶対にそれだけは信念を持ってやっていこうと思っています。

 そうして芸能活動を重ねてきて、「風が吹く」から、竹中先生、河内音頭、「珍島(チンド)物語」の果てに遭遇したのが松尾先生であり、「星見酒」なんですよ。「星見酒」を歌うときに「風が吹く」の思いがものすごく出てくるんですね。若い時分にがむしゃらに頑張っていたこととか、自分のそういう記憶が湧き出てくる。松尾先生が本当にどこまでも天童のことをわかってくださっていると思えて、それをそのままストレートに歌って表現させてもらえるのが、私は嬉(うれ)しいんですね。「星見酒」を歌わせていただくときも、マイクを持って「みんなもう、ごちゃごちゃ言うなよ。はい、星を合図に飲もう。忘れよう。それで、明日また頑張ろう」って、そういう気で歌っています。だからみなさんも共感してくれる。もう、そこなんですよね。

松尾 (しばし無言)……作家冥利に尽きます。

天童 出会えて本当によかったって思いますよ。

 さすがと言うべきか、やはりと言うべきか。

 天童さんは、ジャニーズ性加害問題で揺れる芸能界を冷静に捉えて、そこで不器用に声を上げつづけるぼくを「ただす人」のひと言で全肯定したのだった。

 彼女のデビュー曲「風が吹く」の作詞を手がけた竹中労は、そこで高度成長期の集団就職が生みだした心象風景を描こうとした。寂寥(せきりょう)のきわみである。戦前の丁稚(でっち)制度よりも苛烈な環境を強いられたともいわれる集団就職は、労働力需給調整や労働力移動の制度化において中心的な位置を占めた。いわば若年労働力移動のための国家的プロジェクトだが、その本質は中央と地方の経済格差に基づく国内奴隷制の亜種であろう。

 弱き者の側に立ち、時に社会通念を紊乱(びんらん)しながら芸能の何たるかを問いつづけたルポライター竹中労。彼に「発見」された天才少女・吉田芳美。大衆音楽の真実と歓喜がこの邂逅(かいこう)にある。天童さんに書き下ろした「帰郷」が、「風が吹く」の主人公の半世紀後の帰還であることをぼくは否定しない。その主人公が一日の最後に飲むのが「星見酒」であることも。

〈うた〉の生まれる場所はここにもあった

 予定を大幅に上回る長いインタビューを終え、天童さんは取材の場となった役員室を出た。ぼくも誘われるまま彼女に続き、テイチクのスタッフがデスクワークを行う大きなワーキングスペースへと向かった。そこに入るのは初めてのことだった。

 スタッフは50〜60人ほどいただろうか。天童さんが、誰もが知るあのよく通る声で「みなさーん、おつかれさまです!」と呼びかける。全員が仕事の手を止めてこちらを見る。

「『星見酒』、おかげさまでようけ売れてます! 手応えも感じてます。みなさん、おおきに!」

 スピーチの意外なほどの短さと簡潔さが、彼女がスタッフと共有した歳月の長さをかえって雄弁に物語る。スタッフも手慣れたもので、殊更に大仰なリアクションをとることもなく、あたたかく自然な拍手を国民的歌手に送った。もちろんぼくも拍手を重ねる。

 と、ここで天童さんが声を張りあげた。

「今日は松尾先生が来てくださっています。先生、ひとことお願いします!」

 耳を疑った。そろそろ退出するつもりだったのに。第一、そんなこと聞いていない。

 が、何か言わねば。まず名前を述べたあと、不意に口をついて出てきたフレーズは、「お騒がせしております」。初めて会うスタッフたちが苦笑しているのがわかる。いや、苦笑いするしかないのかも。

「でも本業のほうでは、素晴らしい歌手の方とめぐり会うことができて、いいものができました!」

 本心だった。自分では歌わない作詞家、プロデューサーにとって、優れた歌い手との出会いに勝る歓(よろこ)びがあるものか。

 するとどうだろう、いつのまにか起立状態のスタッフ全員から拍手が起こったではないか。そのつよい響きと彼らのやわらかい表情から、この拍手が共感を意味することが伝わってくる。

 官能に直結するこの昂揚(こうよう)こそ、「天から授かった童」(竹中労)である天童よしみが歌い続ける理由だろう。〈うた〉の生まれる場所はここにもあった。竹中とも縁深い五木寛之が広めた「艶歌」という言葉をふと思いだす。鼻の奥がツンとした。(了)

作家・作詞家・音楽プロデューサー 松尾潔

まつお・きよし

 1968年生まれ。作家・作詞家・作曲家・音楽プロデューサー。平井堅、CHEMISTRY、JUJUらを成功に導き、提供楽曲の累計セールス枚数は3000万枚を超す。日本レコード大賞「大賞」(EXILE「Ti Amo」)など受賞歴多数。著書に、長編小説『永遠の仮眠』、エッセイ集『おれの歌を止めるなージャニーズ問題とエンターテインメントの未来』ほか

「サンデー毎日3月17日号」表紙
「サンデー毎日3月17日号」表紙

3月5日発売の「サンデー毎日3月7日号」には、ほかにも「岸田首相の政倫審“奇襲”出席で4月解散浮上」「原田ひ香×和田由貴 物価高時代の『節約』対談」「前川喜平『野党よ、もっと政権に牙を剥け』」などの記事も掲載しています。

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