週刊エコノミスト Online サンデー毎日
現役最高峰の演歌歌手 天童よしみ物語/上 「お客さまから何かを託された」 松尾潔
芸能人生のスタートは新国劇の子役
心ふるわせる歌唱と愛すべきキャラクターで演歌の根強い人気を支える国民的歌手・天童よしみ。作詞家として、「帰郷」「星見酒」という名曲を彼女に書いた松尾潔が、長時間インタビューによって、類いまれな表現者の知られざる軌跡を描き出す。これ自体が語り物芸能のような天童一代記、その前篇をお届けする―。
唯一無二の演歌歌手。
こう断言したところで、どこからもクレームは入るまい。それほど圧倒的な歌唱力の主が天童よしみである。現役最高峰という評価もけっして大袈裟(おおげさ)には聞こえない。
長年の芸能活動を通じて人気を博しているのは歌声だけでは。親しみやすさと芯の強さを併せもつ稀有(けう)なキャラクターは、テレビのバラエティ番組、CM、最近では映画でも大いに発揮されている。佇(たたず)まいそのものが愛されていると言ってもいい。
例えば1998年、彼女をコミカルにミニチュア化した「天童人形」のキーホルダーが一世を風靡(ふうび)した。いかにも平成らしい逸話に思えるが、デビュー50周年の2022年に復刻された限定版の「天童人形」令和バージョンもあっという間に争奪戦となったのだから、人気の根強さがわかろうというものだ。
演歌が絶滅危惧種と叫ばれて久しい。だが、どっこい演歌は生きている、という体感もぼくにはある。多くの人がそうではないか。天童よしみの変わらぬ人気の理由を探ることは、演歌のこれまでとこれからを考えるにあたって、大いに役に立つに違いない。
だが、われわれは天童よしみの何を知っているだろうか。
以下、ぼくなりに天童よしみのバイオグラフィをまとめてみた。
1954(昭和29)年、和歌山県田辺市に誕生。58年、大阪府八尾市に転居。61年、テレビの素人参加型歌番組に初めて出演してからは、数多くの大会や番組に参加して優勝を重ね、〈のど自慢荒らし〉の異名をとる。70年、〈吉田よしみ〉名義でアニメ「いなかっぺ大将」の主題歌を歌う。72年、『全日本歌謡選手権』(読売テレビ)で10週連続勝ち抜き。同番組の審査員だったルポライター竹中労の作詞による「風が吹く」で、キャニオンレコードから〈天童よしみ〉として本格デビュー、上京。〈天から授かった童〉という意味の芸名もまた竹中による命名だった。2曲目以降はヒットに恵まれず引退も考えたが、両親の説得もあり、地元八尾に戻って河内音頭を歌ったり歌謡教室を催したりしながら音楽との縁を保った。85年、テイチクレコードに移籍。第1弾シングル「道頓堀人情」が翌年に80万枚のヒットとなる。『NHK紅白歌合戦』は93年に初出場。96年のシングル「珍島(チンド)物語」が130万枚を超える大ヒットとなり、翌97年から昨年まで紅白は27回連続で出場中。
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天童 今年、歌手生活52年目に入りました。本当に想像もつかなかったです。
松尾 歌手が一生の仕事だと意識したのはいつごろですか。
天童 苦難のときに思うものですね。紅白に初めて出場した翌年、落選しているんです。その次の年も落選。そこから這(は)い上がるときが最も厳しかったし、きつかった。
松尾 2度目の出場との間にブランクが何年あったんですか。
天童 4年です。「珍島物語」という中山大三郎先生の曲があります。家族愛を歌った曲で、韓国の珍島をテーマにしたお話。最初、自分では受けつけられなかったんですね。私には物足りなさがあった。自分の置かれている状況にぎくしゃくしている気持ちもあって。
松尾 多少神経質になっている時期だったと。
天童 はい。テイチクも社長が代わったところだったし、事務所のスタッフの面々も「天童がこの曲で歌謡界に新風を巻き起こすぞ」みたいな勢いがあって。もう全部が揃(そろ)ったという感じだったんですよ。でもそういうのは今になってわかることで。それまでもシングルをたくさん出してきたけれど、明らかに違う空気が漂っていたんです。
松尾 初めからヒットを出すことを強く意識していた。
自分以外の演歌はあまり聴かないんです
天童 中山先生には大変申し訳ないんですけど、自分自身では歌いきれないという思いがありました。今までやってきたコブシ、歌の中に入っているコブシ、それから、間の取り方。そういう自分の武器を活(い)かせる場所が「珍島物語」にはないんです。
松尾 天童さんの歌の独自性を発揮しづらい曲だと。
天童 ええ。「大丈夫だ」と言われても、私自身が前にちょっと進みにくかったんです。ところが、96年2月の〈さっぽろ雪まつり〉で、その月リリースしたばかりの「珍島物語」を初めて公衆の面前で歌ったんですね。嫌々ながらですが。1番の最後に「ねえ わたしここで祈っているの あなたとの 愛よふたたびと」という歌詞があるんですが、お客さまはそれを瞬時に理解してくださった。歌い手の私よりも先に。今までにない拍手が湧き起こったんですよ。それで初めて「これは、いける」と自分で確信できたんです。
松尾 天童さんが見事に歌詞世界を表現したからでしょう。
天童 そんなに表現もしてなかったと思うんです。けれども、歌に何らかの新鮮なものが生まれていて、みなさんに伝わったんだと思います。
松尾 リリースしたばかりですから、初聴きの方が多かったわけですね。「あ、天童よしみが歌ってる!」みたいな観光客もたくさん聴いていたはずですし。
天童 そう、私に全然関心のなさそうな方たちもいっぱい聴いてくださいました。
松尾 ご自身のコンサートでいただく拍手とはまた違う価値を感じたと。
天童 今でも忘れられないですね、あの強い拍手は。私に向かってくるみたいな、もう何かを託されたかのような、そんな拍手だったんですよ。
松尾 メロディよりも歌詞の力だったんでしょうか。
天童 そうなんですよね。曲は難しくなかったんです。演歌って、節回しなんかにしても気が遠くなるほど細かく考えなければならない。それぐらい難しいんですよ。じつは今でも自分以外の人の演歌ってあんまり聴かないんです。私、演歌がすごく好きかと聞かれたら、どうなんだろうなって思うんです。こんなこと、本当は言ってはいけないんですけど。美空ひばりさんの歌でもジャズアルバムが好きで好きで。私はどちらかというと、演歌ドップリではなかったのかなって。5歳でもうアメリカンポップスが大好きだったので。
松尾 そういう体験も、大人になって「珍島物語」のようなド演歌ではないポップス的な曲を歌うときに生きたってことですね。
天童 そうですね。やっぱりそこで美空ひばりさんという存在も、すごく私に影響を与えてくださった、というのもあるんですけど。
松尾 〈さっぽろ雪まつり〉で歌った「珍島物語」に手ごたえを感じたときは、その年の紅白は行けると思いました?
天童 思いました。思いましたけど「珍島物語」の年もダメだったんです。かなりのショックでした。でも会社は来年も「珍島物語」で行ってほしいと。その間に別の曲も出したんですが「珍島物語」が伸びてるって言うんですよ。
松尾 時間をかけて浸透した楽曲は、いちど光が当たればその後何十年と歌われる。
天童 翌年頑張ったら本当に復活したんですよね、「珍島物語」で。
松尾 失礼を承知でお訊(たず)ねしますが、もう飽きるほどくり返し披露してきた曲を歌うよう求められるときは、どうやってご自分を奮い立たせるんですか。
天童 もちろん「新曲やれないの?」って思うこともあります。でも「珍島でお願いします」と言われれば、「あ、わかりました」と「珍島物語」を歌うわけです。イントロからもうほんとに「これ随分やったよなあ」とか思いますよ。でも万感の想いを込めて、夜空を見上げるように「この曲があればこそ私は歌うことを続けられているんだから」と自分ですごく演出して歌うんです。そうやっていると、実際に気持ちがノッてくるんですよ。あとはやはりファンの方から届くお声ですよね。「うちの母が病気で長い間入院生活をしていたんですが、病室でいつも天童さんの歌を聴かせていたら、気持ちが穏やかになったり、元気になったりしました」というお手紙やメッセージをいただいているかぎりは、やっぱり私だけがこんな優柔不断ではダメだ、とことんまでこの歌に入り込まなきゃダメだと思うんです。何回も何回も、自分にとってこの曲はもうダメだ、クタクタになって飽きちゃったというところまでしっかりやらなきゃいけないなあと。
東アジアの和平を歌った「珍島物語」
中山大三郎畢生(ひっせい)の名作「珍島物語」の歌詞に、今ひとたび耳を傾けるがよい。離散した家族のリユニオンを切願するこの曲が、南北、日韓、あるいは東アジアの和平をテーマに掲げていることは明白だ。2002年、ぼくは同年行われた日韓共同開催によるFIFAワールドカップの公式ソング「Let’s Get Together Now」を書き、プロデュースした。この曲はワールドカップ開会式で歌われ、韓国で公式に放送された初めての日本語詞曲となったが、そこで描いた情景は「珍島物語」と相似形である。
天童さんと初めて会ったのは、そのちょうど20年後となる2022年のこと。デビュー50周年プロジェクトの目玉となる記念アルバムのプロデューサーを務める音楽家・本間昭光さんから、アルバムの表題曲となり得る歌詞を書き下ろしてほしいと依頼があった。
本間さんは、槇原敬之やポルノグラフィティ、いきものがかり等の仕事で知られる、J-POPの大ヒットメイカーである。彼の仕事ぶりを知る人ほど天童さんとのコラボレーションを意外に感じてしまうはずだが、ふたりは大阪・八尾の同じ小中学校の先輩後輩なのだった。年の差が10ほどあるとはいえ、同じ町で育ち、同じ川の色とにおいを共有してきた者どうし。その意気込みの高さが、八尾には縁のない自分にも伝染した。
身ぶるいを覚えながらぼくがまずやったのは、代表曲だけでなく、集められるかぎりの彼女の旧譜を徹底的に聴くこと。聴きこむほどに、まぶたの裏に浮かんでくる景色があった。それをスケッチする要領で綴(つづ)ったのがシングル「帰郷」だった。
初仕事だからといって、新奇な何かをもたらしたかったわけではない。世間が天童よしみに求めるものは〈最良〉であって〈最新〉ではないことは明らかなのだから。新しいクリエーションのヒントは、きっと過去のレパートリーの中にある。「道頓堀人情」の強い印象を残すフレーズ「負けたらあかんで東京に」を種にして、ささやかな想像力で敷衍(ふえん)した。故郷はあなたを責めず、ただ見守ると。この「帰郷」でぼくは第55回日本作詩大賞を授かるという栄に浴し、天童よしみという豊かなナラティブ(物語)の一部となった体感をようやく得ることができた。翌23年には2枚目のシングルとなる「星見酒」を書き下ろした。それでもなお知りたいことがあった。訊(き)きたいことがあった。
島田正吾先生から「浪曲を唸って」
松尾 デビュー以前のお話を聞かせてください。ご両親は芸事に関わっていたのですか。
天童 父はバンドを作ってクラブで演奏したりはしていました。アマチュアですけど。
松尾 そんなお父様を見て、幼な心に「音楽っていいな」「芸事って楽しそうだな」と。
天童 ええ。ちっちゃい時、テレビで放映していた『チャコちゃん』のチャコちゃんに憧れていました。前髪をいつもチャコちゃんスタイルにしていたほどで。初めてのお仕事は、小2のころに子役として出た新国劇。だから私のスタートは役者なんですよ。『喧嘩(けんか)富士』、『ビルマの竪琴』に出させてもらいました。緒形拳さんのデビュー作です。
松尾 その時点では、歌はたしなみのひとつぐらいの感じですか。
天童 そうなんです。私、本名が吉田芳美というんです。そのころ新国劇には辰巳柳太郎先生や大山克巳先生、島田正吾先生がいらっしゃって。エレベーターに私たちが乗る寸前に「君、吉田っていうの?」「はい」「吉田流(浪曲の強力な一派)か?」「はい」って私、噓を言ったんですよ。そうしたら「すぐ部屋に来てくれ」って言われて。
松尾 そりゃドキドキしますね。
天童 何かと思ったら「浪曲を唸(うな)ってほしい」っておっしゃるんですよ。無茶苦茶(むちゃくちゃ)でしょう? お母さんが「やめなさい、煎餅一枚のために行くのなんて」と言うんですが、行ったんですよ。唸りはしないんですが、一応浪曲の節だけは歌ったら「ああ、やっぱり(吉田流の)孫だ、すごい」っておっしゃられて。吉田っていうだけで(笑)。
松尾 やったらできた?
天童 コブシをつけて、ぐるぐる回しちゃって。島田先生なんか、お昼寝の後にいつも「ちょっと来てくれるか?」っておっしゃるので、そこへ私が行って浪曲をやるんですよ。もう、しょっちゅう。そこから、楽屋でものすごく有名になったんです。
松尾 「さすが吉田の血だ!」と(笑)。天才ならではのエピソードだなあ。
天童 嬉(うれ)しかったですね。「どうしてそんな噓つくの?」ってお母さんに言われたけど。私も「吉田」っていうから「ひょっとしておじいちゃん?」「違う違う、ウチはトラゾウじゃなくて、コウシロウや!」って(笑)。
♢ ♢
どうだろう、半世紀を超す歌手人生の「前史」だけでこの面白さ、このきらびやかさ。新国劇の錚々(そうそう)たるレジェンドたちを相手に痛快な大芝居を打つ7歳の昭和少女と、いまそれをとぼけた味わいで語る令和の国民的歌手は、同一人物なのだ。
だが少女は、つぎに自分が美空ひばりと邂逅(かいこう)を果たすことをまだ知らない。
(以下、中篇に続く)
作家・作詞家 音楽プロデューサー 松尾潔
まつお・きよし
1968年生まれ。作家・作詞家・作曲家・音楽プロデューサー。平井堅、CHEMISTRY、JUJUらを成功に導き、提供楽曲の累計セールス枚数は3000万枚を超す。日本レコード大賞「大賞」(EXILE「Ti Amo」)など受賞歴多数。著書に、長編小説『永遠の仮眠』、エッセイ集『おれの歌を止めるなージャニーズ問題とエンターテインメントの未来』