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時代のなかの「運命の女」を描く村山由佳の物語世界 「行動するアナキスト」伊藤野枝 「鮮血の愛」阿部定

村山由佳氏 (C)中央公論社
村山由佳氏 (C)中央公論社

 大正期のアナキスト伊藤野枝の生涯を『風よ あらしよ』で描いて話題を集めた村山由佳氏が、昭和の性的猟奇殺人で知られる阿部定を主題にした『二人キリ』を上梓した。「評伝小説」という新たなジャンルによって、時代のなかの女を現代に呼び戻す村山文学の本領とは何か。奇才評論家が全力で解読する――。

 これまで本誌で、大江健三郎、石原慎太郎、五木寛之ら戦後派作家の表現世界を、その小説と映画化作品を通じて読み込んできたが、今回はより若い世代の作家である村山由佳の「評伝小説」という独自のジャンルに迫ってみたい。

 村山の『風よ あらしよ』(集英社、2020年)は、関東大震災直後に国家権力によって虐殺された、大正期の社会運動家・伊藤野枝と、アナキスト大杉栄を、「市井の人」として描く。同時に彼らは、「市井の人」つまり「大衆」の日常生活に組みこまれた「権威主義」をえぐり出し、仮借なく批判する者でもあった。ことに野枝は、この両義性の振幅を爆発する行動によって圧倒的に生きた。

 おそらく野枝と大杉が、他のアナキストや「主義者」と隔絶しているのは、2人の生の処し方におけるイデオロギーに偏することのない自由な遊戯的精神にあり、その生き方こそがいまも私たちの関心を呼ぶのであろう。『風よ あらしよ』は、これまで「アナキスト大杉と野枝」として神話化されてきた枠組みを取っ払って、2人が私たちの「同時代人」として、天皇絶対主義の時代と環境と人間関係のなかで、その桎梏(しっこく)に対して決然と、そしてしなやかに闘う姿を物語り、読む者を鮮烈に追体験させる。

「自由恋愛」を唱えていた大杉をめぐる、妻・堀保子、愛人・神近市子、新たな恋人・伊藤野枝という「3人の女」は、これまで思想的絡み合いを暗示する特権的な言説によって語られてきた。だが『風よ あらしよ』は、神近が大杉を刺して重傷を負わせた「日蔭茶屋」事件にしても、それが観念的な葛藤の果ての事件ではなく、市井の人間関係のなかでいくらでも起こりうる出来事として描く。

「日蔭茶屋」事件は、吉田喜重監督『エロス+虐殺』(1970年)によって、特別な寓話(ぐうわ)として映画化されている。あらゆる情況が揺らぎ、歴史そのものが根底から問われた1968年、それは政治、文化から性にいたるまで、社会の全域で世界的な異議申し立てが起こった年であるが、イデオロギーとジェンダーと抑圧の時代の相克の沸点として、「日蔭茶屋」事件は象徴化されたのである。この神話作用はその後の思想世界を呪縛し続ける。

「市井の人」伊藤野枝の「爆発する人生」

 それから半世紀。村山は事件を「下世話な愁嘆場(しゅうたんば)」の次元に引き降ろし、それゆえにこそ現実の人間を問う物語として描き出した。ここで村山は、吉田の映画などが作り出した神話の呪縛を、野枝が大杉の生死のみを気づかうという本能、市井の人の「情と行動」に収斂(しゅうれん)して突破する。しかし大杉の内面には、男本位の観念的男女観が残り続ける。ただ大杉が他の「主義者」の男たちと違うのは、彼に生得的にある吃音(きつおん)という身体的資質によって、話す人間としての自己を常に敏感に捉え、弱くあることの身体性を意識し続けることをバネに、他者への柔らかな触手を育てていったことだ。このあたりのさりげない描写が『風よ あらしよ』の魅力でもあるのだが、野枝との相互的な「性愛関係」を築き得たことによって、序々に2人の溝は埋められていく。自然な性愛関係を通じて、野枝と大杉は偉大な市井の人となるのである。

 野枝の生涯のなかで、いまも批判にさらされる、わが子を親戚などにゆだねた「里子問題」、さらには内務大臣の後藤新平や福岡のアジア主義団体・玄洋社に連なる代準介などの「権力側」への生活費の無心などについて、村山は野枝の福岡・今宿村での苦難に満ちた子供時代の生活体験から、彼女自身が直覚的に獲得した生活方法として淡々と描き出す。

 その生活術は、確かに危ういものであったが、同時に野枝を、「故郷の村」と「未来の無政府社会」を重ね、幻視のうちに共同体を望見する「老獪(ろうかい)な生活人」たらしめる根拠でもあった。

 このしたたかな生活術こそが大杉を導き、同時に野枝の豊かな思想と行動の源泉になっていったのだろう。『風よ あらしよ』は、野枝の性をめぐる新鮮な発見と、その行動のヴィヴィッドな表象によって、野枝と大杉への新しい見方を提出した。これは、「聞き書き」でもなく、「評論」でもなく、いわゆる「小説」でもなく、「評伝小説」という物語の方法を村山が編み出し、それによって野枝の生涯を照らし出したことによる達成だと思う。

「評伝」とは、野枝の生涯をめぐるあらゆる資料や関係者の多様な声や証言を見つけ出して批判的に検証し、それを立体的に再構成し直し、一篇の物語に成す試みである。そして「小説」の手法により野枝の時々の生活のなかに分け入り、憑依(ひょうい)し、これまで気づかれることのなかった現実性を見つけ出す。その積み重ねによって『風よ あらしよ』は、「市井の人」「爆発する行動の人」野枝を再生した。

《野枝は答えず、自分の寝間着の裾をたくし上げて大杉の腹に馬乗りになった》《胸の裡から喉もとへと、熱い塊のようなものが迫りあがってくる》《野枝は動き始めた。大杉の上で、暴れるだけ暴れてやる》

 身体中で性愛にひたる人間の本性。この至上の性愛への注視こそが、村山が『風よ あらしよ』の次に、阿部定と石田吉蔵をテーマにした『二人キリ』(集英社、2024年)という評伝小説を書くことになった根拠であろうと想像する。イデオロギーによっては、人間と世界を変えることはできない。いま私たちが眼を向けるべきなのは、強圧的な秩序世界に抗(あらが)って弾(はじ)ける人間の身体性なのである。

既成の「阿部定」イメージを解体する

 伊藤野枝を書いた村山が、続いて挑んだ「女」は、阿部定である。定についてはこれまで多くの書き手が様々な側面から描いてきた。映画や演劇においても実に多くの「阿部定」イメージが作られてきた。しかしそこに描かれた定には、書き手のステレオタイプ化された主観が投影されていた。たとえば「猟奇殺人犯」「妖婦」「毒婦」といった人物像であるが、村山はあえて事後的な、戦後の定の動向に読者の視点を向けることで、既成の「阿部定」イメージを打ち壊し、定の存在を戦後から未来へと解き放った。

 これまで阿部定事件として語られてきた多くの言説は定を語ることをもっぱらとしているのに対し、村山は石田吉蔵という事件の後景に隠れていた「男」を、定と対等の存在、あるいは定という女を成立させた協同行動者として掬(すく)い上げる。そして、「定 吉 二人キリ」という無上の性の二重奏を通じて、愛の極北を見つめようと試みる。

《さんざん甘やかされて、幼子に還(かえ)る。虐められて、女みたいによがり狂う。そうして最後にはあいつの上に乗っかって獣の雄になる。あんなめくるめく快楽はよそにはあり得ねえよ。すべてを預けられる女の中で精を放つのが、あれほど好いものとはね。頭がおかしくなりそうだった。いや、なってたのかもな。脳味噌なんかもうとっくに、溶けてなくなってたのかもしんねえや》(『二人キリ』より、吉蔵の述懐)

 定への見方は、一方的な男の視線によって特別な資質の性的人間として貶(おとし)めるものがほとんどだったし、一方、吉蔵は女に玩(もてあそ)ばれた哀れなピエロとして扱われてきた。しかし、『二人キリ』において定と吉蔵は、まさに協同して性愛の至高の時空を演ずる選ばれた者なのである。

 だが、定以上に吉蔵に関しての資料は少ない。村山の評伝小説は、吉蔵の忘れ形見(妾(めかけ)の子)を登場させ、彼が定の資料を探索し関係者の声を聞き、定本人に会い、彼が物語を書くという仕掛けを作る。彼は事件が忘れられていく戦後史のなかで、定と関わった人々に話を訊(き)き、それを1968年という物語内の時制において批評的に再構成する。彼が定に接触を重ねることで、あの瞬間と、事後の回想とが二重映しにされ、それを彼が書くという複雑な操作によって村山は定の核心に近づこうとするのである。

 しかしなぜ、吉蔵の遺児による阿部定評伝は1968年に書き上げられねばならなかったのか。確かにこの時代、繚乱(りょうらん)たる文化情況のなかで第何次かの阿部定ブームがあり、阿部定は突然、時代に呼び戻された。そのこともまた、村山が定を書くときの問いのなかにあったはずだ。一言で言うなら、阿部定は激動の世界史とともに召還(しょうかん)される。極限の私的世界にある性愛こそが、時代のありようを見直す媒介としてクローズアップされるのである。2024年の『二人キリ』も、またそうであろう。

「性愛」の恐ろしいほど豊かな可能性

 吉蔵の遺児とその同志愛で結ばれた友人Rは、映画制作者として「阿部定」の映画化を目指す。阿部定映画化の試みは実際にも行われ、70年代半ばに2本の「定=吉蔵」の映画を生んでいる。大島渚の『愛のコリーダ』と、日活ロマンポルノの代表作たる田中登の『実録 阿部定』である。

 それまで大島は、映画によって「政治」を挑発してきたかに見られていたが、この時彼は別の形で「政治」を問うべく、人間関係の最小単位である「性」の領域へとその関心を向け直した。当時私は大島から、ある過激な政治運動の映画化を相談されたのだが、結局、大島はそれに着手せず、『愛のコリーダ』に向かった。大島は、定が吉蔵との性交を重ねるなかから「自由」を発見していく軌跡を描き、2人の性愛のなかに世界を変える秘密を探ろうとした。大島は定と吉蔵との性交の体位の変化に注目し、2人の性愛ではあらゆることが許されるし、可能であるし、それが自由そのものであることを映し出した。

 田中は身体の細部の細やかな動きを見つめることで女の身体の自律性を探る。そしてあえて、狭い和室のなかに2人を幽閉し、そこを拠点に、閉ざされた密室性を性交によって突破しようとする。和室に象徴される日本という閉域を、2人の性交が自由に向かって打ち破る。

 定をめぐる虚実の世界でのこうした重層的な歴史を経た評伝小説として、『二人キリ』はある。そこにいま際立つのは、定と吉蔵との2人だけの瞬間における性愛の絶対至上性と、その瞬間が同時に「死」に至るという、表現の臨界点である。吉蔵の遺児とRによる映画化が突き当たる隘路(あいろ)も、本質的には、死を表現することの難しさと無縁でないだろう。『二人キリ』は、人間の生と性を描くのみならず、死を濃厚に抱え込んだ。思えば定は、苦界(くがい)という、無数の女たちの生と性と死が織りなす場所から立ち現れたのである。

《自分の働きで借金を返し終わって廃業できた娼妓の話なんか、ただのひとつも聞いたことがなかった。この泥沼から抜け出そうと思ったら、方法は三つだけ。運良く太い客を見つけて身請けしてもらうか、折檻覚悟の命がけで逃亡するか、あるいはもういっそ全部終わらせて楽になるか、のどれかしかないのだった》(同前、定の述懐)

 性労働の泥沼を経(へ)めぐった定は、運命的に吉蔵と出会った。彼らが過剰なまでに生きた軌跡は、定が吉蔵の身体に吉蔵の鮮血で書き付けた「定 吉 二人キリ」という言葉によって、人間の性愛の尽きない意味を浮上させ、2人の行為が現実に存在したことを私たちの歴史に刻印している。「性愛」の恐ろしいほど豊かで多様な可能性を、再び「産む」ことだけに限定しようとする潮流がいまだに力を持つこの時代に、『二人キリ』が多くの読者に読まれることを念じたい。

(小野沢稔彦)

村山由佳氏『二人キリ』書影(集英社刊)
村山由佳氏『二人キリ』書影(集英社刊)

『二人キリ』(集英社刊)


むらやま・ゆか

 1964年生まれ。作家。93年『天使の卵−エンジェルス・エッグ』で小説すばる新人賞、2003年『星々の舟』で直木賞、09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞、21年『風よ あらしよ』で吉川英治文学賞を受賞。他の近著に『Row&Row』『二人キリ』ほか

おのざわ・なるひこ

 1947年生まれ。映画プロデューサー、監督、脚本家、批評家。著書に『大島渚の時代』(毎日新聞社)、『〈越境〉の時代 大衆娯楽映画のなかの「1968」』(彩流社)。製作した映画に『圧殺の森』(小川紳介監督)、『幽閉者』『断食芸人』(いずれも足立正生監督)、監督作に『巨人ミケランジェロ』(日本テレビ)など多数

「サンデー毎日」2/18-25号表紙(表紙:「ハイキュー!!」)
「サンデー毎日」2/18-25号表紙(表紙:「ハイキュー!!」)

 2月6日発売の「サンデー毎日2月18・25日合併号」には、ほかにも「山本太郎のケンカ国会宣言『核心は大幅財政出動だ!』「映画『ハイキュー!!』大特集 二度とない瞬間を描く」「『家計』で『学び』は諦めない!『奨学金』の徹底活用術」などの記事も掲載しています。

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