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日本歌謡界の至宝 天童よしみ物語/中 『全日本歌謡選手権』で「歌とは何か」を知った 松尾潔

写真協力・天童事務所
写真協力・天童事務所

 演歌の底力をいま最も体現する天童よしみの軌跡を、異能の音楽プロデューサーが長時間インタビューに基づいて描き出す注目連載の中篇。子役として美空ひばりに可愛がられた幼少期の天童は、のど自慢で歌の腕試しに向かう。そこに厳しい審査員、反骨ルポライターの竹中労が立ちはだかった―。

 現役最高の演歌歌手・天童よしみ。レコードデビューして半世紀を超える音楽キャリアを誇るが、それより前、小2で子役として出演した新国劇が長い芸能人生のはじまりであるのは、知る人ぞ知る話。辰巳柳太郎や島田正吾といったレジェンドたちに請われて即興で浪曲を披露するなど、当時から天才ぶりを遺憾なく発揮していた。

   ◇   ◇

天童 新国劇でお芝居をスタートさせていただいたあと、8歳で美空ひばりさんの舞台『お夏清十郎』の村娘役のオーディションがあって、出ることになったんです。

松尾 それが運命を大きく決定づけたんですね。

天童 新国劇のみなさんと同じように、ひばりさんも、5人ぐらい子役がいる中でなぜか私だけ楽屋に呼ぶんですよ。目立つのか何なのか。

松尾 まだ歌いはじめる前でしょう?

天童 全然。ただ緊張しまくっていました。「ひばりさんはすごい人なんだ」ってことは、みんなに植え付けられているから。「粗相があってはいけない」と思って。

松尾 そりゃそうですよね。あの美空ひばりだもの。

天童 はい。最初は舞台上で子どもらしく走り回って「わーい」と言っていたんですが……1カ月近くも公演するものですから、だんだん飽きてきちゃって。ちょっと転んでみたりとか。誰も助けてもくれないので「痛!」とか言いながら(笑)。「こんなに目立つことはやめておこう」と思って、一回きりでしたけどね。母も「あんた、やめなさい! 子役が大怪我(おおけが)かって、お客さんびっくりするじゃないの」って。

松尾 そこで個性を出してみたくなる子どもだったんですね。それをひばりさんも目に留めてくださったのかも。「面白いわね」って。

天童 私も小さいけれど、ひばりさんも小柄な方で、いつも楽屋に呼ばれては「みんなに食べてもらって」と言われて、お菓子とかおみかんとかをお袖にもいっぱい入れてくださって。袖が膨れ上がってしまって。「またもらってきたよ」みたいな感じでね。そういう子ども時代を過ごしておりました(笑)。

松尾 それは人生の大きな出会いだなあ。

天童 本当にそう思います。そんなすごい人たちのところで子ども時代を送らせてもらったことが、もう宝物です。

 ひばりの天才が天童の魅力を見抜いたか

 まだ唇に歌を持つ前の吉田芳美(天童よしみ)が、なぜ美空ひばりの楽屋に呼ばれたのか。歌謡界の女王にそうさせた天童さんの魅力とは何だったのか。現在となっては確かめようもない。俗に「天才、天才を知る」と言うが、そのあざやかな証左となるエピソードであろう。時に美空ひばり25歳、天童よしみ8歳。奇(く)しくも、美空ひばりが前名「美空和枝」で初舞台を踏んだのも8歳といわれる。

   ◇   ◇

松尾 そしていよいよ歌の世界に入るわけですね。

天童 小2までは劇場公演の子役を務めていたんですけど、やっぱり義務教育ですから、学校の先生から両親へ「こんなに長いお休みには許可をしかねる」という話があって。1年間だけ我慢していたんですよ。そうしたら、小4のときにフジテレビで『日清ちびっこのどじまん』が始まったんです。これは絶対出たいですよね。いてもたってもいられなくて。お父さんと計画を立てたんです。一方、母はびっくり。やっと子役から抜けて勉強するって言ってたのに、またそういう番組に出たいと言い出すなんてと。

松尾 今いつもお仕事の現場にいらっしゃるお母様からは想像しがたいですが、その時点ではそんなスタンスだったんですね。

天童 まだ人生決めるには早すぎですからね。「あの子は何が好きで、何をしたいのかまだはっきりしない」という年ごろでしょう。私、ひとりっ子なんですよ。

松尾 お母様のお気持ちはよくわかります。

天童 小4で『日清ちびっこのどじまん』に出るために父と一生懸命に練習を始めました。ふたりで選曲して、練習して、正統派の演歌を歌ったんですよ。チャンピオンを獲得すれば、次はグランドチャンピオン。その頂点に日本一があるんです。

松尾 どんな曲を歌われたんですか。

天童 「北海育ち」。中村佳代子さんの曲です。「この歌は絶対に芳美にぴったりだ」って。お父さんは歌うときのジェスチャーまで教えてくれましたね。

松尾 狙いを定めて勝ち取った優勝だと。

天童 そうです。チャンピオンを獲(と)って、次がグランドチャンピオン大会。司会は大村崑さん。そこで(のちに漫才師になる)上沼恵美子さんが登場するんですよ。のど自慢荒らしだったふたりが、とうとう鉢合わせ。結果、私がグランドチャンピオンになった。その瞬間、恵美子ちゃんの顔色が変わったんです。それまでは仲よしで、トロフィーを持った私の後ろで拍手を送ってくれていたのに、「恵美子ちゃん」とふり返ったらいなくなってた。彼女だけじゃない、周りに誰もいなくなった。「みんな私を憎んでいる」と感じました。なんだかすごく、ひとりぼっちの寂しさみたいなのが、そこにはあって。

松尾 ソロシンガーって孤独な仕事ですよね。ヒットが出ようが出まいが孤独。

天童 いやあ、孤独ですよ。

松尾 ヒットすればするほど孤独の影も強くなるし、当たり前だけどヒットが出ないともうずっと孤独ですし。小4のころからすでにそんな体験をされていたわけですか。

天童 そのとき、人が掌(てのひら)を返すってことを初めて体験しましたね。

写真協力・天童事務所
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 「父の言葉に力をもらっていました」

 だが芳美ちゃんにも「恵美子ちゃん」と同じ痛みを味わう日が来た。『日清ちびっこのどじまん』の日本一決定戦で敗れたのだ。初めての敗北経験。出場者でひとりだけ演歌の「北海育ち」を歌った天童さんに対し、優勝したのはアメリカンポップスの日本語版「バケーション」。だが、その先には現在へとつづく出会いが待っていた。

   ◇   ◇

天童 見事に負けました。けれど潔かったですね、私は。「お母さん、お父さん、私はこういうオーディション番組はもう十分。グランドチャンピオンまで獲ったんだし」。そう言ってから1カ月もしないうちに『全日本歌謡選手権』という番組が来たんですよ。父が「芳美、この番組や。セミプロ、アマチュア、プロでトーナメントになっていて、10週間勝ち抜きや。これでお前、実力を出せ」って、『巨人の星』の星一徹みたいに言うんですよ。

松尾 お父様の方が夢を見る気持ちが強かったのかも。

天童 父はそういう人なんですよね。

松尾 では、当時の天童さんは〈歌いたい気持ち〉〈喝采を浴びたい気持ち〉〈お父様に笑顔になってほしい気持ち〉のどれが一番強かったですか。

天童 やっぱり父、ですかねえ。身近にいる父が「今日、ノっていないなあ」って言うと、私も「ああ、もうダメなのかなあ」って思うし。力を出して歌うと「そうや、それや。やっとわかったか」とか、父が言ってくれる言葉に、ものすごく力をもらっていました。

松尾 それで『全日本歌謡選手権』に出場したと。

天童 はい。出たら審査員席に、父よりもっと怖い竹中労先生が座っていたんですよ。

松尾 ついに出てきました!

天童 5週目に「あなたのブルース」を歌って、初めて竹中先生が批評してくださったんです。

松尾 かっこよすぎだなあ(笑)。なんだか、剣道の大将みたいな。ずっといるんだけど手は合わせず、ついに5週目で、という。

天童 かっこいいんですよ。「来た、竹中先生だ」と思って、ぐっと俯(うつむ)いたら「変な子だね、君は。君は誰の歌を歌っても、全部自分の歌にしちゃう。君はね、まだ磨かれないダイヤモンドだ。でも下手に磨かれない方がいい。八尾の心意気でいけばいい」と言われて「え、私のプロフィール、知ってるんや」と思って。「八尾の心意気で、ガーッと歌った方がいいな。どんどんいろいろな人の歌を歌いなさい。君の歌をいつもモニター画面で見てるんだけど、テレビ映りがいいんだよ。歌うときの顔がとってもいいんだ。君は綺麗(きれい)な子になるよ」とおっしゃって。最後にその言葉、すごく嬉(うれ)しかったですね。

松尾 それはハートを鷲掴(わしづか)みにされますね。前4週分の冷たい印象が一転する。お父様もそれで「やっぱりあの人はわかってはるわ」みたいな感じだったんですか。

天童 もーのすごく父も喜んでいました。「あんな厳しい先生がお前の歌を褒めてくれた。歌を聴いているときの先生は微笑(ほほえ)んでいる。すごくいい顔になってるんや」って。

松尾 お父様もずっと気になっていたんですね。

竹中労は天童に最後の批評を捧げた

 ルポライター竹中労。1991(平成3)年に逝去してから30年以上が過ぎ、彼の名を聞く機会もめっきり減った。好んで語った「左右を弁別すべからざる状況」という言葉に象徴されるように、イデオロギーを超えて世界革命を志したアナキストにしてジャーナリスト。琉球独立運動や東映俳優労働組合を支援したり、渡辺プロダクションのテレビ業界支配を告発したりと、政治、社会、芸能を地続きで捉えて行動する人物でもあった。その彼が惚(ほ)れ込み、事実上のプロデューサーとして世に送り出した天童よしみが、竹中労の偏愛の対象であったことは間違いない。ならば、天童さんの中にも竹中の志と呼応する確かなものがあったのだろうか。

   ◇   ◇

天童 7週目に私は「北海育ち」を出したんです。

松尾 自信の一曲を。

天童 そうしたら、先生、ちょっと辛口をおっしゃられたんです。そして「君、いま北海道でニシンが穫れるかどうか知っている?」って訊(き)かれて。「そんな、ニシンなんかわからない。どうしよう。穫れないと言ったら、この人、なんて言うのかな。穫れると言ったら、どうなるの。せっかく、ここまで来てるのに」と思った果てに「穫れます!」と答えたんです。そうしたら「そう、そうなんだよね。穫れますって答えると思っていたよ。北海道はね、ニシンがいろいろな公害でもって、いなくなっちゃったんだ。だからニシンが穫れなくなっているんだよ。それを穫れますと思って歌っているから、この歌は生きているんだよ」ってそういう言い方を、私のような子どもになさるんですよ。

松尾 最後まで耳を澄まして聞かないとわからない話(笑)。

天童 それでやっと私もほっとしたんですが、歌にまつわることは、なんでも調べていかなきゃいけないんだと思ったんです。

松尾 これは「歌とは何か」論であると同時に、竹中労という人物が矛盾を抱えていたことの証跡(しょうせき)でもある。その矛盾が魅力的。音楽って、そもそも白黒はっきり分けられないもの。清濁併せ呑(の)むようなところが大衆音楽の魅力だと思うんです。

天童 最後の10週目では、竹中先生が作詞してくださった「風が吹く」を歌いました。そして、その放送を最後に先生も審査委員長を降りたんです。

   ◇   ◇

 まさか、勝負どころで天童よしみはしくじったのか。あるいは、彼女の歌唱に竹中労は失望を覚えたのか。

いずれも答えは否である。それが証拠に、竹中は以下のコメントを残している。

「君に会えたから、もう僕が批評する人はいない」

 この強烈な言葉に、天童よしみとその父は感電した。当然だろう。

 一方、竹中労はどうだったか。その職を背負ってこれほど覚悟を要する言葉もなかったのではないか。同じ作詞家、プロデューサーの端くれとして、ぼくはそう推察する。〈最後の批評〉を捧(ささ)げた天童よしみは、つまり竹中労にとっての〈卒業作品〉であった。(以下、後篇に続く)

作家・作詞家 音楽プロデューサー 松尾潔

まつお・きよし

 1968年生まれ。作家・作詞家・作曲家・音楽プロデューサー。平井堅、CHEMISTRY、JUJUらを成功に導き、提供楽曲の累計セールス枚数は3000万枚を超す。日本レコード大賞「大賞」(EXILE「Ti Amo」)など受賞歴多数。著書に、長編小説『永遠の仮眠』、エッセイ集『おれの歌を止めるなージャニーズ問題とエンターテインメントの未来』ほか

「サンデー毎日3月10日号」表紙
「サンデー毎日3月10日号」表紙

 2月27日発売の「サンデー毎日3月10日号」には、ほかにも「荻原博子が緊急指南 家計ビンボーで泣かない! すぐやる6つの防衛術」「多弱野党よ! 命がけで政権交代せよ! 自壊した自民に訣別を 古賀茂明が没落ニッポンに諫言」「2024年入試速報・第2弾 大学合格者高校別ランキング 『女子大御三家』、法政、関西など62私大」などの記事も掲載しています。

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