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現天皇も伏見宮系? 竹田恒泰の不正確な議論 社会学的皇室ウォッチング!/108 成城大教授・森暢平

「光格天皇画像」(東京大学史料編纂所所蔵模写)
「光格天皇画像」(東京大学史料編纂所所蔵模写)

 これでいいのか「旧宮家養子案」―第10弾―

 旧宮家養子案を進める男系維持派の主張で気になるのは、自説に都合よく事実を不正確に述べることである。これまで国士舘大学客員教授、百地章(ももちあきら)の主張の誤りを指摘してきたが、今回はご自身も旧宮家出身である竹田恒泰の言論を取り上げる。(一部敬称略)

 竹田が2020年8月28日、「竹田恒泰チャンネル」に投稿した「河野太郎防衛大臣へ公開献本!今一度皇統について御勉強下さい!」と題するユーチューブ上の動画を考えてみたい。当時の河野防衛相が、女系天皇を容認する発言をした直後、大臣を批判する内容である。竹田は「ごまめの歯ぎしり」という河野のブログを読んだうえで、「恥ずかしい間違いだらけなんですね」と断じ、次のように続けた。

「(河野は)旧皇族というのは600年前に天皇家から分かれたって言い方をするわけですね。(略)ちょっと待ってくださいよ。600年前に分かれた伏見宮家ですよ。でもその後、そこから2回天皇立ててるんですよ。(略)600年前に分かれたからダメって言ったら、今の天皇もダメですよ、そんなこと言ったら。だいたいですね、今の皇室というのは、江戸時代の後期に新井白石が新しくね、伏見宮家から、ひとつ閑院宮(かんいんのみや)というのを立てて、そこから出たのが光格天皇ですから、250年前ですよ」

 光格天皇が伏見宮家の系統から出て、現皇統につながるという主張は間違いである。

 何の関係もない伏見宮と光格天皇

 話は江戸中期。東山天皇は1708(宝永5)年、6歳だった第五皇子、慶仁(やすひと)を皇太子とした(のちの中御門(なかみかど)天皇)。さらに1710年、5歳だった第六皇子、直仁(なおひと)を出家させず、宮家の当主とすることが決まった。

 宮家には当時、京極宮、有栖川宮、伏見宮の3家があった。

 京極宮家の当主文仁(あやひと)は、東山天皇の異母弟だったが、天皇とは険悪の仲だった。有栖川宮家の当主正仁(ただひと)は、東山天皇から見れば従甥(いとこおい)であり5親等離れていた。伏見宮家当主は邦永(くになが)であり、東山天皇の妹、福子を正室としていたが、男系血統で天皇本家と近かったわけではない。つまり、東山天皇には、皇太子慶仁に万が一があった場合、信頼できる継承者がいなかった。そこで、寵愛(ちょうあい)する直仁に宮家を創設させようとしたのである。慶仁が幼少で皇統にも不安があった。

 ただし、宮家創設は幕府が認め、財政的な裏付けがなければ実現できない。ひとつの宮家の運営には莫大な費用がかかるためである。当時は、徳川第6代将軍、家宣(いえのぶ)の治世。侍講として幕政を実質的に主導した新井白石が朝幕関係の安定の意味を込めて、宮家新設を認めた。直仁が立てた宮家が閑院宮家である。

 しかし、このあとの天皇家は、直系継承者の確保に苦しむ。中御門天皇の子、桜町天皇には男子が2人、その子、桃園天皇には男子が1人しかいなかった。その子(後桃園天皇)は正妻を娶(めと)り、女子一人(欣子(よしこ))を残すが、病気がちで1779(安永8)年に21歳で亡くなってしまう。ここで、天皇本家である中御門系は男系としては途絶えてしまう。

 そこで、当時の宮廷は、0歳であった内親王欣子と将来結婚する男子を確保し、皇位継承者とすることを決する。白羽の矢が立ったのは、後桃園天皇から見れば7親等も離れた閑院宮家の師仁(もろひと)(当時8歳)であった。即位して光格天皇となる。

 ここで重要なのは男系をつなぐ意識よりも、直系である欣子の血統が重視されたことである。東山天皇という祖を同じくし、男系でつながる師仁であったが、7親等も離れていたため、天皇の皇女と結婚してようやく皇位継承者としての正統性を確保できた。

 この継承の話に伏見宮家は出てこない。伏見宮家から閑院宮家が立てられ、光格天皇が出たというのは間違いである。東山天皇の皇子(直仁)が閑院宮家を立て、69年後に光格天皇が出た。光格天皇は伏見宮家とは何の関係もない。

 鳩山のバカタレ 求められる慎み

 話が不正確なのは、どうやら竹田の特徴のようだ。それは今も変わらない。

 同じく「竹田恒泰チャンネル」で今年2月29日に公開された動画、「立民『女性宮家が喫緊の課題』??

?皇室を蔑(ないがし)ろにしてきた立憲民主党、無礼の数々と彼らが目指すゴール。」で、竹田は、旧民主党が政権にあったときに皇室を軽視していたと主張した。竹田は次のように語る。

「鳩山由紀夫のバカタレがですよ、組閣するときに、天皇陛下(現・上皇)を、葉山でご静養中の天皇陛下を東京に呼び付けたんですから。(略)葉山でたった3日間ですよ、ご多忙の天皇陛下がようやく取れた2泊3日の葉山でのご静養、その中日に組閣したんですから」

 2010年9月の出来事を話しているのであろう。このとき、天皇と皇后は9月15日から19日までの「5日間」、葉山御用邸で静養していた。その「中日」である9月17日、皇居・宮殿で閣僚の認証式があり、天皇は午後、葉山を発ち、夜、葉山に戻った。

 しかし、これは鳩山内閣ではなく、次の菅直人が首班のときのエピソードである。9月14日の民主党代表選で、再選された菅は9月17日、内閣改造を行った。そのとき、たしかに天皇は葉山から急遽(きゅうきょ)上京した。

 竹田は、民主党批判の意図を持って話しているので、天皇を「呼び付けた」のが鳩山だろうが、菅であろうが、小さな違いなのであろう。しかし、「バカタレ」という強い言葉を使って政治家を批判するとき、その批判対象を取り違えるのは、言論人としていかがなものだろうか。

 竹田は著書『語られなかった皇族たちの真実』で、宮内省の次官、加藤進が1946年の「重臣会議」で、臣籍降下する宮家皇族について「万が一にも皇位を継ぐべきときがくるかもしれないとの御自覚の下で身をお慎みになっていただきたい」と述べた話を引用する。

 たとえ意見が異なっても、論争相手を尊重して議論を進める―。これが言論人としてのたしなみである。旧皇族として身を慎むべきは、竹田本人ではないだろうか。

(以下次号)

もり・ようへい

 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など

「サンデー毎日4月7日増大号」表紙
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