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生誕100年特別企画 安部公房は、なぜ今も新しいのか? 文学と映画化作品でその表現世界を読み解く 小野沢稔彦

安倍公房(あべ・こうぼう)1924~93年 現代日本文学を代表する作家。父が満州医科大学の医師で、幼少期を中国東北部で過ごす。戦後、花田清輝らの「夜の会」に参加。また『近代文学』同人に。51年『壁-S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞、63年『砂の女』で読売文学賞、フランス最優秀外国文学賞、67年戯曲『友達』で谷崎潤一郎賞、75年戯曲『緑色のストッキング』で読売文学賞を受賞するなど、受賞多数。93年、急性心不全により死去。
安倍公房(あべ・こうぼう)1924~93年 現代日本文学を代表する作家。父が満州医科大学の医師で、幼少期を中国東北部で過ごす。戦後、花田清輝らの「夜の会」に参加。また『近代文学』同人に。51年『壁-S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞、63年『砂の女』で読売文学賞、フランス最優秀外国文学賞、67年戯曲『友達』で谷崎潤一郎賞、75年戯曲『緑色のストッキング』で読売文学賞を受賞するなど、受賞多数。93年、急性心不全により死去。

自明性を揺るがす「世界文学者」

 現代における抑圧の正体とそこからの脱出を描いて世界文学者となった安部公房が、今月生誕100年を迎えた。日本的な文学風土と途絶した彼の資質はどこから生まれ、どんな表現を生んだのか。今なお斬新な人間へのその視線とは? 勅使河原宏監督と組んだ映画化作品を中心に、異能評論家が読み込む。

 安部公房の表現世界とは、日常性に支配された表層のコミュニケーションを解体し、象徴と寓意(ぐうい)に満ちた深層の現実を呼び起こそうとする永遠の文学的試みである。

 第2次世界大戦下の翼賛的な文学への批判を通して浮上した「戦後文学」が、同時に「世界文学」として屹立(きつりつ)する最前線が安部であり、その文学は、方法的にも、内実においても、一貫してきわめてアヴァンギャルドな実験精神の運動であって戦後日本の思想を領導してきた。安部の関心は、戦後日本の時代性、社会性を問う様々な文化運動へと向かっていく。

 すなわち、戦後まもなく清岡卓行、三島由紀夫、渡邉恒雄らと組織した「世紀の会」、花田清輝、岡本太郎、野間宏、椎名麟三、埴谷雄高らとの「夜の会」、野間、加藤周一、中村真一郎らとの「綜合文化協会」、京浜工業地帯の労働者との文学サークル運動「下丸子文化集団」などである。それらは同時に政治運動でもあった。安部にとって「文学」とは、社会へと解放されるべき方法であって、文学という枠組みのなかで自足すべき特権性ではなかったのだ。

 そうした文化=文学=政治の運動のなかで常に中心的な担い手であり続けた安部は、戦中から戦後へと持ち越された、戦争を遂行した大衆の集団的心性を鋭く批評的に捉え、深くえぐる志向を「文学」の課題とし、それを暴き出して揺るがそうとした。彼はその実践によって「日本文学」を突破し「世界文学」となったのである。彼の営為はまぎれもなく世界文学の前衛が担う課題と同時代的な質をたたえており、彼の文学は常にその最前衛に位置してきたと言えるだろう。

 安部は、最初期の小説『終りし道の標べに』と『けものたちは故郷をめざす』で、戦後史上の重要な思想課題である「国家からの脱出」を企てる。だが、その脱出行がどこまでも国家的な拘束のなかに収斂(しゅうれん)されるという彼自身の苦い体験、つまり満州移住者の子として彼が実践した朝鮮、奉天への、偽の診断書を携えての越境、また満州からの引き揚げ体験をバネに、絶対的な桎梏(しっこく)である国家をどう異化するかという課題と直面するのだ。以後、彼の文学は、この拘禁情況を解体する試行となる。

 このことは世界的にも、たとえばイタリアのディーノ・ブッツァーティの『七人の使者』が表象した茫漠(ぼうばく)とした国家脱出の企て―脱出することが拘束されることでしかない―と同質の内容を持つ。安部は、カフカ以後の世界の文学者の課題である、あらゆる自明性の神話を根底から疑うことに向き合うのだ。

 彼は、彼の同時代の世界的に重要な作家として、ラテンアメリカのガルシア・マルケスを讃(たた)え、エッセイのなかでこう書く。

《マルケスの魅力は、まずどこどこの作家というような所属の括弧(かっこ)からはずれたところにあると思う。あえて所属を言うならむしろ時代でしょう》《結局現代というこの特殊な時代の人間の関係を照射する強烈な光なんです》(『死に急ぐ鯨たち』)

 この評語は同時に安部本人への自己批評として的確であると思うが、マルケスもまた日本の作家としてただ一人安部を見出(みいだ)したと発言している。

 時代に拘束された人間を見つめ、脱出の途をいかに探り、自由への実践を行うか―その方法として安部は文化の全面的な改革を志向した。いまこそ私たちは、安部の実践に眼を向ける必要がある。時代に、国家に、縛られたままでは、私たちの想像は日に日に貧しくなっていくのではないだろうか。

勅使河原宏監督との共作『おとし穴』

勅使河原宏監督
勅使河原宏監督

 安部公房の活動は文学、映画、演劇、テレビ、ラジオと、多岐にわたっており、その実態は安部の「工房」のごとき様相を呈している。ここでは安部が自らシナリオを書き、勅使河原(てしがはら)宏が監督した映画について、二人(以下「二人」と表記)がなし得た芸術上の冒険を見てみたい。

 映画における二人の表現の特色は、シュールレアリズムとドキュメンタリーの統一への志向にあると言えよう。共同作業の始まりである『おとし穴』(1962年)は、戦後日本の政治事件が集約的に現出した1960年という時代を象徴的な寓話世界のなかに刻印し、その物語をいまここにおける現象としてドキュメンタリー的方法で捉える。政治事件とは、60年安保闘争とその挫折、戦後社会の構造的転換点となった炭鉱問題とその集約である三井三池闘争、そして頻発する政治的テロ事件……である。

 筑豊各地を移動する流れの炭鉱夫が、新しい職があると渡された地図に従って働き口を訪ねると、そこでまったく理由もなくテロリストに殺されてしまう。彼は幽霊となって、殺された理由をただそうと、炭鉱周辺を歩き回る。同時に、その男とそっくりの男が「大炭鉱」の第二組合長として存在し、殺された男と「同一人物」とされるその人物は、炭鉱の組合員の仲間割れのなかで、第一組合長と刺し合って死ぬことになる。「おとし穴」は、当時の社会情況を背景にした複雑怪奇な政治謀略のドラマでもある。

 この物語を担うのは「幽霊たち」だ。そこには落盤事故で死んだ炭鉱夫や朝鮮人徴用工が揺曳(ようえい)しているだろう。現実と幻想との境界は突っ払われ、当事者は両界を往復して物語を重層化する。そして幻想に満ちたグロテスクな物語が結末を迎えないまま映画は終わりを告げる。

 炭鉱という「煉獄(れんごく)」において起こる惨劇の臨界に、戦前戦中の日本の植民地主義が、戦後日本の筑豊などの周縁地に引き継がれたことがありありと見えてくる。そこでは、戦後復興とともに未解決のツケが暴発し、戦後日本の歪(ゆが)んだ現実が露呈するのである。

『おとし穴』は、福岡にあるRKB毎日放送のTV番組用に安部が書いた台本を基に、映画シナリオとして書き直した作品である。当時、生活を規定する文化全体への変革運動が日本各地で起こりつつあり、その中心の一つが北九州だった。安部を含めて多くの文化人やジャーナリストがこの地から発信していた。

 60年安保闘争の政治的挫折後、文化を問い直す運動が起こるなかで、それまで「映画」という表現様式が縛られていた制度的なありようを見直す映画として、『おとし穴』は出現した。この映画は、日本では61年に始まる「アートシアター」という新しい映画運動のなかで公開された。「アートシアター」とは、東欧、アジア、反ハリウッドなどの前衛映画の上映を行い、そこに関わる者の内面の変革をも挑発する場である。『おとし穴』の公開は若者に強い衛撃を与えた。高校生だった私もこの映画を観て、混沌(こんとん)とした世界を根底から射抜く力におののいたものである。『おとし穴』は、政治を政治だけの枠内で考えることに疑義を呈し、日本の至るところで起こる文化運動の大きな契機となったのだ。文化運動が同時に政治運動でもある安部の方法が、時代を動かし始めた。

『砂の女』に見る日常との戦い

『砂の女』撮影現場での安部公房と勅使河原宏(左から)。中央は瀬川浩カメラマン、右は岸田今日子
『砂の女』撮影現場での安部公房と勅使河原宏(左から)。中央は瀬川浩カメラマン、右は岸田今日子

 砂という抽象的で無機的で、それでいて圧倒的に流動し続ける自然である鉱物が、人間という自己だけが世界の中心としてあることを疑うことがない存在を、たえず侵食し続ける。人間は実は、人間が解明し征服したと思いこんでいる物質によって、犯され続ける不確かで脆弱(ぜいじゃく)な存在なのだ。

 二人が『おとし穴』に続いて撮った『砂の女』(64年)こそ、安部を「世界文学」の最前衛に一気に押し上げ、勅使河原もまた世界の映画界にその名を刻まれることになった記念碑的作品である。

 昆虫採集に訪れた男は、砂の穴のなかにある女の家に泊めてもらうのだが、そこから抜け出せなくなる。女は、人間の内部を侵食し続ける砂に対して日々抵抗し続け、砂の穴のなかに生きることに、自己の存在意義をしなやかに見つけ出している。そこに偶然、虫のように捉われてしまった男は、自由を拘束しているかに見える状況から何度も脱出を試みる。やがて男は、女の子宮外妊娠を契機に砂の穴からの逃亡の機会を得るのだが、その瞬間、女の生き方に自由のための抵抗を感得し、女の生き方から啓示を受けたように、外部世界へ逃亡するのではなく、ここにおいて自由への戦いを行うことを決意する。

 自明と思っていた外部世界での日常こそが、そこに生きる者を縛り、幻想によって人間が拘束され続けており、それゆえに自分たちがその現実に気づいていないことを男は知る。男の自由への脱出の戦い、その主観的なありようは、私たちが日常で繰り返す「働く」という自明性の、諧謔(かいぎゃく)にみちたアレゴリーである。逆に女の、自覚的な日常の戦いこそが、自由への戦いの現実性である。岸田今日子が演じる「砂の女」は、負性を負わされた日本の女性史を、したたかな生活の知恵によって転覆する。二人の映画的な想像力が、この背理を描き出すのである。

『他人の顔』が暴くファシズム社会

『他人の顔』撮影時の安倍と勅使河原。中央は医師役の平幹二郎、左の包帯姿は仲代達矢
『他人の顔』撮影時の安倍と勅使河原。中央は医師役の平幹二郎、左の包帯姿は仲代達矢

 それまで炭鉱や砂丘という特異な自然を背景にした寓意劇を展開してきた二人は、3作目にして、現代の大衆社会の大都市の時空が人間に強いる「匿名」性を暴く。二人の映画のなかでも最も難解な映画として『他人の顔』(66年)を作り上げるのである。

 映画は、仮面と素顔、虚と実といった哲学的なテーマと向き合いながら、偶然の事故から顔のない者となった主人公が背負い込むことになる「人間関係の喪失」が一貫して追求される。自明性としてのあるべき顔によって成立する社会とは何か。自明なものとしてある個の顔とは、果たして自律した人間の顔なのか。

 顔を喪失した男は、精神科医の協力で、過去の男が男であったとされる顔とは異なる「仮面」を被(かぶ)り、それまでの彼の人生とは別の人生を思い通りに演じ直そうとする。自分が自分でしかないことから脱却して、別の自分を意志的に生きようとして、男は様々なシーンやチャンスを活(い)かそうとする。

 男は、妻の内心を試そうと、別の男になって、妻に情事を仕掛ける。妻の内面を覗(のぞ)こうとする、仮面による情事の企図。しかし、顔という表層を変えることができた男も、その身体の細部に過去を宿したありようが妻によって見破られる。では妻は「貞淑」であったのか。妻もまた、世間が強いる「貞淑」という無言の要求に閉じこめられた顔を、変えたいと望んでいた。つまり、妻もまた別の人間を演じたい者なのだ。京マチ子は妖婦を演じることが多いが、ここでは曖昧さのなかに、「貞淑」とは別の概念を生きる妻を現代的に表現している。

 すべての人間が「同じ顔」を強いられる時代は、群衆の集合としてのファシズム社会でもあろう。男はそこで真の自己を回復することはなく、彼の同伴者である精神科医を、同じ顔を持った群像のなかで刺し殺す。主題に絡むように、原爆によって顔にケロイドを残す若い女とその兄とが絶望のなかで入水する挿話が組みこまれ、時代と顔との深く錯綜(さくそう)した現実が浮上する。

 人間から固有性を奪い、孤独な匿名性へと押しやる現代をどう暴くのか。この映画では「耳」をモチーフにした彫刻家・三木富雄のオブジェの挿入をはじめ、二人の映画の通奏低音である武満徹の実験的音響もまた、映画と時代との関係性を表すものとして注目に価する。

未完の遺作『飛ぶ男』は何と戦うか

『飛ぶ男』(新潮文庫)
『飛ぶ男』(新潮文庫)

 象徴的な抑圧構造をどう撃ち抜くのか。幻想のうちへと自らを閉じていく自己閉塞(へいそく)の回路をどう断ち切るのか。安部の幻想同調性に対する一貫する批判は、彼の表現の最初期からのテーマであったが、死後、彼のフロッピーから見つけ出された未完の小説『飛ぶ男』が安部の生誕100年を機に文庫化された(新潮社)。ここでも安部の、象徴的抑圧への狙撃者ぶりは、圧倒的に現前している。

 安部はエッセイ集『死に急ぐ鯨たち』で、「スプーン曲げ少年」のトリックに多くの人が囚(とら)われていることに触れているが、この「タネも仕掛けもある」めくらましを小説化して『飛ぶ男』が成立したとも言えるだろう。想像力によって空中浮遊する男を通して、幻想に支配される私たちの姿が暴かれていく。

《人間にとって未知のものとの接触ほど恐ろしいことはない》《人間がこのような接触恐怖から自由になれるのは群衆のなかにいる瞬間だけである》。安部がマルケスとともに最も注目する、ノーベル賞作家エリアス・カネッティは主著『群衆と権力』でこのように書いている。「群衆と個」のありようを、日本という「タネも仕掛けもある」幻想体系において見極めようとしたのが『飛ぶ男』ではないだろうか。安部の表現は、日本の抑圧体系への、想像力による異議と化す。

「飛ぶ男」に対する絶対的な抑圧体系として、地上に生きるすべての存在の内部にまで浸透し、何者にでも変身することができる「透明人間」が、「父性」を持つ者として設定される。これによって物語は運動化する。「飛ぶ男」対「透明人間」が開始されるのだ。

 透明な父権者は、どこからか渡された透明になる薬を自覚的に摂取して透明人間になり、象徴的な幻想として、時代に君臨する。そして透明人間は「タネも仕掛けもある」透明性を演じることで、同時代に生きる人間の内面を掌握する。一方そこに生きる者は、自らの意志で幻想の父権者による支配構造を永遠化する。

 しかし、その天皇絶対主義のような体制から弾き出された、飛ぶ浮遊者、引きこもり児、自己防衛する男性不信の女など、自明の社会のなかに足場を持たぬマルチチュード(有象無象の者)が、透明人間と戦う滑稽(こっけい)で悲惨な様こそが、この未完の小説の核心なのではなかろうか。

 地上の幻想体系による抑圧を描いた『飛ぶ男』を読む者は、たとえば核支配下の地球からの脱出を試みる『方舟さくら丸』と併読することによって、安部の壮烈な想像力に私たちの思索を接ぎ木しなければならないだろう。さらには、安部と勅使河原宏との協同作業である先駆的な映画を観直すことが求められる。

「タネも仕掛けもある」この日本社会は、その抑圧構造を露骨に剝(む)き出しつつあるのだから。

<写真:安部公房は毎日新聞社、他は一般財団法人草月会提供>


おのざわ・なるひこ

 1947年生まれ。映画プロデューサー、監督、脚本家、批評家。著書に『大島渚の時代』(毎日新聞社)、『〈越境〉の時代 大衆娯楽映画のなかの「1968」』(彩流社)。製作した映画に『圧殺の森』(小川紳介監督)、『幽閉者』『断食芸人』(いずれも足立正生監督)、監督作に『巨人ミケランジェロ』(日本テレビ)など多数


 ◆『おとし穴』(1962年 勅使河原プロ作品)

スタッフ

原案・脚本/安部公房

監督/勅使河原宏

撮影/瀬川浩

音楽監督/武満徹

音楽/一柳慧 高橋悠治

キャスト

井川比佐志

矢野宣

佐々木すみ江

田中邦衛

 ◆『砂の女』(1964年 勅使河原プロ作品)

スタッフ

原案・脚本/安部公房

監督/勅使河原宏

撮影/瀬川浩

音楽/武満徹

キャスト

岡田英次

岸田今日子

三井弘次

矢野宣

 ◆『他人の顔』(1966年 勅使河原プロ=東京映画作品)

スタッフ

原案・脚本/安部公房

監督/勅使河原宏

撮影/瀬川浩

音楽/武満徹

キャスト

仲代達矢

京マチ子

平幹二郎

岸田今日子

「サンデー毎日3月24日号」表紙
「サンデー毎日3月24日号」表紙

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