国内投資を怠り技術革新を諦め非正規雇用に頼ってきた日本の未来を考える 河野龍太郎
対外投資の収益は国内の有形・無形・人的投資には向かわず、コスト削減にまい進した結果が現状の日本経済・構造に表れている。
2023年度の経常収支は25.3兆円と07年度以来、16年ぶりに過去最大を更新した。その間、対外収支構造は大きく変貌している。16年前に13.7兆円だった貿易黒字は、今や3.6兆円の赤字に転落し、一方、直接投資収益などをはじめとする第1次所得収支黒字は、07年度の16.5兆円から、2.1倍の35.5兆円に膨らんでいるのだ。
少子高齢化による生産年齢人口の減少で、限られた労働力が非貿易財の生産に向かい、貿易財は輸入に回って貿易収支が赤字化するというのは、当初から予想されていた。また、それに伴い製造業が海外に生産拠点を移転し、その収益で第1次所得収支黒字が膨らむ点も事前に予想されていた。
日本政府も早い段階から、人口動態の変化に合わせ、日本企業の「稼ぎ方」が変わるのは、望ましいことだとして製造業の海外拠点シフトを後押ししてきた。ただ、そこに問題はなかったのか。それが本稿のテーマである。
高パフォーマンスは国境外
まず直接投資で上がった収益の過半は海外で再投資され、少なくともこれまでは、必ずしも国内の有形・無形資産投資や人的投資、賃上げにはつながってこなかった。
大企業経営者は生産性向上につとめ、過去最高の利益を上げていると胸を張る。しかし、高いパフォーマンスは、あくまで国境の外の話であって、国境の内側のパフォーマンスは芳しいとはいえない。それゆえ、円の実質的な購買力(実力)を示す実質実効円レートは1970年代初頭の水準まで大きく低下しているのではないか。
経済学者のリチャード・ボールドウィンの論じる通り90年代後半以降、ITデジタル革命によって、国境を越えた経営管理が容易となり、グローバル企業は、生産拠点の海外シフトを進めた。自らの経営ノウハウと新興国の安価な労働を組み合わせることが可能となったのだ。
かつてサプライチェーン(供給網)は1国で完結していたが、それが細分化され、一部を海外に移転するのも日常茶飯事となった。比較優位のメカニズムは、以前のような1国の産業構造にだけ当てはまる概念ではなくなり、企業単位の概念となって比較優位の無国籍化が進んだのである。
経済学者の深尾京司の分析によると、日本では最も全要素生産性上昇率の高い大企業の事業所が海外に移転し、空洞化が目立つという。かつては、大企業の生産性の高い生産現場から、中堅・中小企業の生産現場に技術のスピルオーバー(あふれ出し)も生じていたが、その機会も失われたという点では、二重の意味で空洞化が生じたとしている。
海外にシフトした大企業の生産現場が「高い全要素生産性上昇率」だったというのが過大推計なのであって、国内に立地する本社機能や研究開発がもたらす付加価値が過小評価されている、という反論もあるかもしれない。しかし、海外でもうかっても国内の有形・無形資産投資や人的投資、賃上げにつながってこなかったのは、紛れもない事実だ。
過去四半世紀にわたり、国内で賃上げが棚上げされてきた結果、日系のグローバル企業内では、海外の従業員と国内の従業員の間で、大きな賃金ギャップが生じている。23年と24年に見られた春闘での大幅賃上げには、大きく広がった社内賃金格差の調整という側面もあったのだろう。
90年代後半以降のグローバリゼーションやITデジタル革命によって、欧米と同様、日本でも中間的な賃金の仕事が失われ、高い賃金の仕事と低い賃金の仕事への二極化が進んだ。中間的な賃金の仕事を失った人々が低い賃金の仕事へ流れ込み、低い賃金にさらに低下圧力がかかったが、その際、我々は賃金水準が低くセーフティーネットも不十分な非正規雇用の増大を傍観した点を反省すべきだろう。
本来なら、非正規雇用が増大し始めた段階で、働き方にかかわらず、事業者が社会保険料を折半する被用者「皆」保険を導入すべきだったのだ。安い労働力をテコに業容を拡大する新興企業や人件費カットで収益率を高める既存企業を、もろ手を挙げて称賛するのではなく、高い賃金の仕事に就けるように、今でいうリスキリングを国の責任で当時から開始すべきだった。
おまけに00年代の社会保障制度改革では、膨張する高齢者の社会保障費を現役世代の社会保険で賄ったため、正社員の人件費が増え、企業経営者に非正規雇用を増やすインセンティブを与えた。被用者皆保険の導入など、社会保障制度をアップグレードするどころか、非正規雇用の増大を助長する政策を進めたのである。
十分なセーフティーネットを持たない非正規雇用は、所得が増えても、将来の不況で、自らが調整弁になることを恐れ、今も予備的動機で貯蓄を増やすばかりだ。不況が訪れた際、最も弱い経済主体にばかりショックが集中することが、完全雇用になっても個人消費の回復が精彩を欠く要因の一つである。24年度も賃上げが続き、楽観が広がっているが、セーフティーネットを整備しなければ、個人消費の回復はおぼつかないだろう。
これまでグローバル展開を進めてきた日系企業の中には、単に平成前半まで日本国内で通用していた古いビジネスモデルを新興国に適用しただけのところも少なくない。財・サービスの品質に対し、日本の消費者は世界で最も厳しいが、日本企業は高齢化など国内の需要構造の変貌に対応するためのイノベーション(技術革新)を怠ったところも少なくない。早々にイノベーションを諦め、古いビジネスモデルを基に海外展開に逃げたのである。
ただ、当時、高い成長を続ける中国経済への人々の世界的な「高い関心」が、低迷を続ける日本経済への関心の薄れを助長していたのも事実であろう。大きな流れに日系企業があらがうのは難しかったのかもしれない。
日本への関心の高まりの好機
経済学者のハーバード・サイモンが論じる通り、ヒトの「関心」の総量は限られる。過去30年にわたって、中国経済への高い関心と日本経済への関心の薄れが、日本経済の停滞をより強固にしていた可能性がある。
しかし、経済安全保障をきっかけに中国への人々の関心が低下し、日本への関心の高まりとともに生産拠点の国内立地が増え始めてきたことは、日本経済にとり、またとないチャンスである。少子高齢化による人手不足の下でも、AI(人工知能)やロボティクスを駆使し、生産の現場を持つことは、新たなイノベーションにつながり成長をもたらすはずだ。
(河野龍太郎〈こうの・りゅうたろう〉BNPパリバ証券チーフエコノミスト)
週刊エコノミスト2024年6月4日号掲載
円弱 二重の空洞化 国内投資怠り、技術革新諦め 非正規雇用依存経営の「末路」=河野龍太郎