➋噛み合わせと全身は調和している 林裕之
歯だけを対象にした修理修復が主で、「歯を見て全身を見ない治療」になってしまっていることに警鐘を鳴らす。
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「噛(か)み合わせ」というと、上下の歯が噛み合った、静止した状態を思い浮かべるかもしれません。正しくは、噛み合わせた時の上下の歯の接触状態を指し、その人の歯の形状や歯並びなどで決定される各人固有のものです。歯が抜けていたり、痛む歯があった場合でも噛めるところを無意識に探して上下の歯を噛み合わせます。たとえ歯が1本もなくても、上下の歯ぐきを使って噛む場合もあります。
歯ぐきで噛む
1990年代に100歳を超えて明るいキャラクターで人気者になった双子の姉妹「きんさん、ぎんさん」の姉のきんさんは全ての歯がありませんでした。しかし、好物だという赤みのマグロをおいしそうに食べていたそうです。まれなケースかもしれませんが、このように歯がなくなっても歯ぐきで噛むこともできるのです。口腔(こうくう)内の状況に合わせて噛み合わせは変化します。激痛があるなどよほどの場合を除いて人間は、噛めるところで噛むようにできているのです。
私たちは歯のない状態で生まれ、母乳に吸い付き、一生懸命顎(あご)(咀嚼(そしゃく)筋)を動かして乳を飲みます。生後7~8カ月ごろに乳歯の前歯が顔を出し始めますが、乳歯が生えそろう2歳ごろまでは乳歯での咀嚼は安定しません。
しかし、乳児期は授乳以外の時におもちゃなどいろいろなものを口に入れて噛むこと(咀嚼)を学習していきます。2歳ごろになると上下で10本ずつ計20本の乳歯が生えそろい、軟らかいものなら大人と同じものが食べられるようになります。
出生時に50センチだった身長も90センチに、体重は3キログラムから13キログラムへと急成長します(いずれも平均値)。全身の骨格や筋肉が大きくなるように顎の骨や咀嚼筋も発達し、噛む力も徐々に強くなり5歳ごろには、大人と同じものが食べられるようになります。
乳歯列での咀嚼は5歳ごろまで続き、小学校へ入学する頃から永久歯への生え変わりが始まり、12歳ごろまで続きます。小学生の6年間は乳歯から永久歯への交換期と重なるのです。乳歯は基本的に1本ずつ生え変わります。右側の乳歯が抜けそうなときは主に左側で噛み、左側の乳歯が抜けそうなときは主に右側で噛むといった具合に交換期全体を通して噛み方の左右バランスを取ることにより、体も左右に偏ることなく成長できると考えられます。
よく噛むこと=認知症予防
乳歯は小学生の間に永久歯に交換し終えますが、永久歯としての噛み合わせ(咬合(こうごう))が安定するのは15歳ごろになります。あまり知られていませんが、歯は歯冠部(口の中に出ている歯の部分)が生える前から大きさが決まっていて顎の骨の中にあります。
その歯冠部が口の中に出た後に徐々に歯根が成長し、それぞれの歯の位置が固定されるのです。根の成長を促すのが、咀嚼による刺激だといわれています。永久歯列の一番うしろにある第二大臼歯の歯根が完成するのが最後で中学3年生の頃です。これで上下の永久歯の咬合関係も歯並びも決まり、噛む力も格段と強くなります。
成長期は体が大きくなるだけでなく、体の各部位の使い方(動作)も学習し体得していきます。その代表例が歩行です。寝たきりだった新生児が寝返りを打てるようになり、ハイハイし、やがて立ち上がれるようになり、そして歩けるようになります。この期間は、歯のない状態で顎を動かして乳を飲み、乳歯が生え始めて軟らかいものを噛み、乳歯列の完成によって上下左右で噛めるようになる時期でもあります。
その後、6年間におよぶ乳歯から永久歯への交換期は、やがて永久歯列で力強く噛めるようになるまでの準備期間です。心身の成長とともに各人特有の噛み方も習得していきますが、この期間の咀嚼運動は脳神経の発達にもとても重要です。
マウスの実験ですが、成長期に咀嚼刺激が低下すると、顎の骨や咀嚼筋の成長を抑制し、海馬(記憶をつかさどる脳の一部)をはじめとする脳神経系の発達を妨げ、記憶・学習機能を障害する可能性が示されたとする報告があります(マウスモデルで咀嚼刺激の低下が記憶・学習機能を障害するメカニズムを解明:https://www.jst.go.jp/pr/announce/20170616/index.html)。
体だけでなく脳の発達にも「よく噛む習慣」を身に付けさせることが重要なのです。この研究は、成長期だけでなく認知症予防でも、咀嚼機能の維持や強化が有効であることを示唆していると結ばれていました。生涯においてよく噛む習慣(咀嚼機能の維持)が心身の健康につながっているのです。
頭痛の原因が親知らず
骨格や筋肉だけでなく脳神経の発達なども含めて「噛み合わせと全身」が調和しています。しかし、残念ながら現在の歯学教育は「噛み合わせと全身は調和している」ことを前提としていないため、歯だけを対象にした修理修復が主で、「歯を見て全身を見ない治療」になってしまっています。
成長期を過ぎても親知らずが生えてきたり、虫歯や歯周病で歯の状態が変わったりすれば噛み合わせも変化し、体へのなにがしかの影響はあります。頭痛や肩こりの原因が親知らずの場合もあります。
また、噛み締めや歯ぎしりなど歯や咀嚼筋にダメージを与える癖があればなおさらです。たとえ死ぬまですべて自分の歯だったとしても、歯はある程度はすり減りますので、噛み合わせも徐々に変化します(加齢による咬合の変化)。ですので、その時の状態だけに合わせた治療ではなく、ある程度の将来予測を含めた治療法を示せる歯科医選びも大切です。歯の修復で使う材料も天然の歯より硬過ぎても軟らか過ぎても他の歯との調和が取れませんので、慎重に選ぶ必要があります。
咀嚼機能の維持安定を言い換えれば、上下左右の歯でよく噛めるということです。しかし、歯科技工士として日々向かい合っているのは、それがままならなくなった人々の歯型(石膏(せっこう)模型)です。虫歯や歯周病にならずに済めば、それに越したことはありません。次回は虫歯と歯周病の予防法の真実についてお伝えします。
■人物略歴
はやし・ひろゆき
1956年東京都生まれ、歯科技工士。77年日本歯科大学付属歯科専門学校(現日本歯科大学東京短期大学)卒業。歯科技工所、歯科医院勤務を経て、歯科医師の弟(林晋哉)の林歯科(千代田区平河町/自由診療)で、「顎・口腔系」の技工を担当。「咀嚼と健康」「歯の誤解と正しい知識」などをテーマに講演活動も行う。
週刊エコノミスト2024年6月4日号掲載
歯科技工士だから知っている「本当の歯」の話/2 「噛み合わせと全身」は調和している=林裕之