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三冠から30年 史上最強の競走馬「ナリタブライアン」の伝説 武豊、南井克巳…名騎手が証言!

勝利を喜ぶ南井克巳騎手とナリタブライアン
勝利を喜ぶ南井克巳騎手とナリタブライアン

全軌跡を取材した記者が語り尽くす

「ナリタブライアン」と聞くと、胸が熱くなる競馬ファンも多いのではないだろうか。1990年代中盤、並み居る強豪馬を蹴散らした名馬中の名馬である。史上最強の競走馬とも言われる「怪物」の疾駆に併走して徹底取材した記者が、その光と影の全体像を明かす――。

ファンが夢を託した「怪物」――その「暴力的なまでの強さ」とは?

 JRA(日本中央競馬会)は今年9月に創立70周年を迎える。馬券の売り上げが最も多かったのは1997年。実に4兆6億6166万3100円に及んだ。その前年まで現役競走馬だったナリタブライアンが、売り上げに貢献したのは間違いない。

 ナリタブライアンの全盛期、私は夏競馬を除く週中のほとんどを滋賀県にあるJRAの施設、栗東トレーニング・センターでの取材に明け暮れていた。スターホースが出走する週は、月曜からレース前日まで泊まり込みで朝早くから取材し、毎日その馬の記事を書く。93年の夏にデビューしたナリタブライアンもそうした一頭だった。皐月(さつき)賞、日本ダービー、菊花賞の3歳クラシックレースを総なめにして史上5頭目の三冠馬に輝いた94年は、彼を中心に取材活動をしていたと言っても過言ではない。彼が制した三冠すべてをこの目で見て、取材し、記事を書いた。

 2005年に無敗で三冠馬となり国内史上最強馬の誉れ高いディープインパクトが登場した今でも、三冠レースに限定すればナリタブライアンを史上最強とする競馬ファンは多い。この5月、私が刊行した『史上最強の三冠馬ナリタブライアン』(ワニブックス)の取材で、ナリタブライアンに騎乗したことがあり、ディープインパクトの主戦を務めた武豊騎手にインタビューした際、彼はナリタブライアンの手綱を取る前、ライバルに騎乗して戦っていた時の印象をこう評した。

「見てて史上最強馬だと思っていました」

 3歳クラシックで、ナリタブライアンが2着につけた着差は、皐月賞3馬身半、日本ダービー5馬身、菊花賞7馬身。その類(たぐい)まれな強さは私の目にも焼き付いている。

 ところが、それだけの名馬にもかかわらず毀誉褒貶(きよほうへん)がある。ただし、自分の意思でレースを走っていない馬に責任はない。人間のエゴに翻弄(ほんろう)された不運な馬でもあったのだ。中でも96年の天皇賞(春)で2着に敗れた後、短距離の高松宮杯に出走したことは世間の非難を浴びた。3200㍍の大レースを走った馬が一気に2000㍍も距離を縮めて1200㍍のスプリント戦に出走することなど前代未聞だったからだ。

 それを述べる前に栄光の足跡をたどりたい。

名馬に跨った者にしか分からない感触

 名馬にはエピソードがつきものだ。ナリタブライアンにも大小さまざまな逸話が語り継がれている。この馬を語る上で欠かせないデビュー前の出来事がある。93年8月の朝、函館競馬場で調教師の大久保正陽(まさあき)が騎手・南井克巳(みないかつみ)に声をかけた。

「君はダービーを取ったことはあるか」「いえ、ありません」「じゃあ、本当に勝てるかわからんが、乗ってみるか」

 デビュー前にナリタブライアンに跨(またが)った南井は、馬体の重心がグンと下がって加速していく感触に、かつて主戦を務めた希代のアイドルホース・オグリキャップの乗り味を重ね合わせた。高級車が加速するにつれて車体が沈み込むようなもの。名馬に跨った者にしか分からない感触。それを再び味わえたことに酔いしれ、嬉(うれ)しくなった。

 ナリタブライアンは同年8月15日の初陣こそ2着に終わったが、2週間後の2戦目で2着に9馬身差をつけて圧勝した。その際、大久保正陽は生産した早田牧場新冠(にいかっぷ)支場の場主、早田光一郎に「この馬は兄を超えますよ」とささやいたという。

 兄とはビワハヤヒデ。クラシック制覇はその秋の菊花賞まで待たねばならないが、皐月賞、ダービーで2着だった。既にスターホースの兄以上の活躍ができると確信していたわけだ。

 馬の鼻の上部にぐるりと巻くように着ける白いモール状の「シャドーロール」。その馬具を競馬ファンに知らしめたのもナリタブライアンだった。シャドーロールを装着するまでの彼は、芝の切れ目や物の影などに驚くことがあり、勝つときは強いのに負けるときはあっさり。どっちが本当の姿なのか判然としないでいた。ところが、京都3歳(現2歳)ステークスで、下方を見えにくくして前方に意識を集中させる効果のあるこの馬具を着けてからレースぶりは一変し、圧勝劇を披露し続けることになる。純白のシャドーロールはナリタブライアンの代名詞となり、いつしか「シャドーロールの怪物」と呼ばれるようになった。その戦績を2期に分けるとしたら「シャドーロール前」と「シャドーロール後」とするのが正しいだろう。

 クラシック初戦の皐月賞を、ナリタブライアンはレースレコードを一気に1秒2も縮めたばかりか、コースレコードさえ0秒5も塗り替える驚異的な走破タイムをマークして戴冠。その暴力的なまでの強さは3歳最高峰の一戦、日本ダービーでさらに際立った。

 3コーナー手前から徐々に進出し、4コーナーを大外から騎手が促すことなく2番手まで上がる。直線に入ると、南井はさらに馬場のいい外へと進路を取って先頭に躍り出る。無人の野を突き進むが如く馬場のほぼ真ん中を真一文字に疾駆した。2着との差は5馬身。単勝の配当120円は、84年の三冠馬シンボリルドルフの130円を抜く、当時のダービー史上最低配当。シャドーロールの怪物は、ファンからの圧倒的支持に圧勝という形で応えた。

武豊「一回も本調子じゃなかった」

 その頃から日本中の競馬ファンは、ビワハヤヒデとの現役最強を決める兄弟対決を夢見ていた。ナリタブライアンが皐月賞を制した翌週、ビワハヤヒデは天皇賞(春)を制覇。ナリタブライアンが日本ダービーを快勝すれば、兄も宝塚記念を5馬身差で圧勝したからだ。過去にも賢兄賢弟はいたが、兄弟が同時期にターフを沸かすことは一度もなかった。それだけに兄弟が同じ年に大レースを勝つ姿は、ファンにとって血が騒ぐほどの興奮を覚えるものだった。2頭の兄弟対決は、大相撲で絶大な人気を博していた若貴兄弟の優勝決定戦よりも早く実現するかもしれないという高揚感が競馬ファンにあった。ちなみに、若乃花、貴乃花兄弟による史上初の優勝決定戦が実現したのは95年の九州場所だった。

 ところが、夢は夢のままで終わった。ナリタブライアンの三冠が懸かる菊花賞の前週に行われた天皇賞(秋)のレース中、ビワハヤヒデは競走馬にとって不治の病といわれる屈腱(くっけん)炎を患って引退することになったのだ。

 兄弟対決は幻に終わったが、ナリタブライアンは菊花賞で圧勝劇を演じて三冠馬に輝いた。テレビでは、関西テレビアナウンサーの杉本清が「弟は大丈夫だ」という名実況で10年ぶりの三冠馬誕生を伝えた。戴冠を重ねるたびに着差を広げていった「シャドーロールの怪物」に、ファンは現役最強を夢見ることになった。それに応え、初の年長馬との対戦だった続く有馬記念で、平成初の三冠馬は横綱相撲で並み居る強豪たちを一蹴した。

 三冠&有馬記念制覇によって94年の年度代表馬に選ばれて現役最強の地位を確固たるものにしたら、次に目指すのは史上最強馬の称号しかない。95年3月12日、阪神・淡路大震災で著しい被害を受けた阪神競馬場に替わって京都競馬場で行われた阪神大賞典を単勝オッズ1・0倍で圧勝したとき、その桁違いの強さに誰もがその称号を手にするだろうと思ったはずだ。

 だが、1月の大震災に次いで3月20日に発生したオウム真理教による地下鉄サリン事件で世の中が騒然とするなか、ナリタブライアンに暗雲が垂れ込める。天皇賞(春)を目前にして股関節炎を発症。秋まで休養を余儀なくされてしまった。

 それからの「シャドーロールの怪物」は、真の怪物ではなくなっていた。不運は重なる。同年秋、復帰を目指している最中に南井克巳がゲート内で騎乗馬が暴れて右足首の複雑骨折を負い、長期離脱することになったのだ。

 的場均に乗り替わった天皇賞(秋)は12着。武豊が手綱を取ったジャパンカップと有馬記念は6着と4着に終わった。今年1月に取材した際、武豊は、彼が騎乗したときのナリタブライアンは「一回も本調子じゃなかったと思います」と振り返った。しかし、たとえピーク時の能力を発揮できなくなっていても、ナリタブライアンは伝説を作った。

南井「もう少し長く生きてほしかった」

 96年の阪神大賞典。同じ父を持つ前年の年度代表馬マヤノトップガンと4コーナー手前から熾烈(しれつ)な一騎打ちを演じた。残り100㍍で一旦トップガンに差し返されたが、また差し返す。馬体を併せたままゴールを迎え、アタマ差で制した。「馬が本当にゴールを知っているような感じで踏ん張ってくれた感じでしたね。凄(すご)い馬だなと思いました」と武豊は28年後に述懐した。

 復帰した南井克巳に手綱が戻って1番人気で臨んだ天皇賞(春)は、同い年のサクラローレルに差し切られて2着。「馬は最高に仕上がっていたと思うけど、僕がちょっと早めに仕掛けて行きすぎたかな。それに骨折した足首が歩いていても躓(つまず)くぐらいまだ固かったから。あれは勝たなきゃいけないレースだった」。南井にとって最も悔いが残る一戦となった。その結果、南井に手綱が戻ることはなかった。

 陣営が雪辱戦に選んだのは、この年に2000㍍から1200㍍の短距離戦に生まれ変った高松宮杯だった。前走で3200㍍を戦った三冠馬のスプリント戦への出走に賛否両論が巻き起こった。鞍上は南井ではなく武豊。「降ろされたと思うよ、完璧に。こんなレースを使うんだもの」。昨秋、南井は言い切った。高松宮杯を使った理由のひとつは自分を降板させるためだった、と言うように。

 レースは後方4番手から馬群を割って伸びてきたが4着まで。昨秋、南井は悔しそうに本音を吐露した。

「僕が天皇賞で負けたのが原因でそうなったから、馬のために申し訳ない。だけど、やっぱり可哀そうだよね。こんな強い馬を高松宮杯に使ったらね。それで終わったでしょ」

 結果的にこの一戦が現役最後のレースとなった。高松宮杯から1カ月後の6月19日、屈腱炎の発症が明かされた。大久保正陽は現役に固執。これも今なら種牡馬(しゅぼば)として大きな期待が寄せられている馬に対する態度でないと非難されても不思議はない。大久保が観念した格好で、ようやく引退が正式に発表されたのは10月10日のことだった。

 それから2年後の98年9月27日、「シャドーロールの怪物」は急逝した。胃の破裂。腸が長いゆえに人間よりは多く見られる腸閉塞が悪化して胃に影響を及ぼした、稀(まれ)な例だった。91年5月3日に生を授かり、わずか7年と4カ月24日の生涯だった。南井は言う。

「ああいう馬はなかなか出るものではない。やっぱり、もう少し長く生きてほしかった」

 2年間の種付けで151頭の子どもを残したが、父に並ぶような戦績を残す子どもに恵まれなかった。

 名高かった生産牧場も負債総額約58億円を抱え破産宣告を受けて消えてしまい、その後、場主は横領容疑で逮捕された。不運に見舞われ、人間の欲望にも翻弄されたが、それでもナリタブライアンが20世紀を代表する名馬だったことは揺るがない。

(敬称略)

(「サンケイスポーツ」編集局専門委員 鈴木学)


すずき・まなぶ

 1964年生まれ。サンケイスポーツ編集局専門委員。93年から競馬担当。『週刊Gallop』編集長、サンケイスポーツレース部長、競馬エイト担当部長などを歴任。現在、サイト『サンスポZBAT!競馬』、『週刊新潮』などで競馬コラムを連載中

「サンデー毎日」6月30日号表紙
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