週刊エコノミスト Online サンデー毎日
皇籍離脱を自ら申し出た旧皇族の情願書を発掘! 社会学的皇室ウォッチング!/117 成城大教授・森暢平
これでいいのか「旧宮家養子案」―第19弾―
敗戦後に皇籍離脱した旧皇族が、日本国憲法施行から約半年間は皇位継承資格を持っていたことが、旧宮家養子案の論拠の一つになっている。だが、旧皇族は憲法施行前に皇籍離脱を自署をもって申し入れている。それを示す情願書を今回、筆者は発掘した。皇籍離脱は、旧皇族自らの意思であった。(一部敬称略)
情願書は、閑院宮春仁(のち閑院純仁と改名)の著書『私の自叙伝』(1966年)に紹介される。だが今回、筆者の調査によって、宮内庁宮内公文書館に写しが保管されていることが分かった。
「最近の国情に鑑み今後わ(ママ)皇族の身分を離れ、宗室の外に在って皇運を輔(たす)け世務(せいむ)に尽したいと思います。茲(ここ)に謹みてこの情願を容れ給(たま)わむことを冀(ねが)います 昭和二十二年三月六日」
昭和22年は1947年であり、2カ月後の5月3日、新憲法が施行される。情願書には日付が5月1日になっているものもあったが、事情は後述する。
情願書は、伏見宮朝子(ときこ)、博明、光子、賀陽宮(かやのみや)恒憲、久邇宮朝融(くにのみやあさあきら)、俔子(ちかこ)、静子、梨本宮守正、朝香宮鳩彦(やすひこ)、東久邇宮稔彦、北白川宮房子、祥子、竹田宮恒徳(つねよし)、閑院宮春仁、東伏見宮周子(かねこ)の15人分。1人を除くと、印刷された宮内省起案の書面の最後に署名が書かれる。宮内公文書館にあったのは写しなので、署名部分は宮内省職員の筆記である。原本は宮内庁の現部局が保管中であろう。
文章が異なるのは朝香宮鳩彦の分である。「勅諚(ちょくじょう)を畏(かしこ)み、今後は皇族の身分を離れ、宗室の外にあって皇運を輔け世務に尽したいと思います。茲に謹みて微衷(びちゅう)を陳(の)べ、聖鑑(せいかん)を仰ぎます」とあった。
朝香宮の「勅許」主張認められず意思離脱に
文章を変えたのは朝香宮なりの抵抗であろう。朝香宮は前年(1946年)、「臣籍降下をやるなら勅許でやれ」と注文をつけ(高橋紘ほか『天皇家の密使たち』)、離脱に抵抗したことが知られるからである。「勅諚(天皇の決定)をおそれ多くも承り」「微衷(本心)を陳べ聖鑑(天皇の判断)を仰ぐ」という表現は、昭和天皇への皮肉と批判が表れている。「こんな事態になり、皇籍離脱しなければならないのは、天皇の責任だ」という気持ちが込められている。結局、勅許(天皇の許し)による離脱の主張はとおらず、結果的には本人の意思(情願)による離脱となった。
男系継承維持派は、昭和天皇は、旧皇族の離脱に反対し、最後まで抵抗したなどと論じる。歴史の読み間違いである。天皇の本心は離脱推進だ。だから朝香宮が反発するのである。
ところで、旧皇族は当時11宮家51人があり、なぜ15人分かと言えば、基本的に、当主が離脱すると直系卑属は一緒に離脱するからである。ただ、当主が兄博明(15)であった伏見宮章子(13)、小学生だった北白川宮家の当主、道久(10)と妹の肇子(はつこ)(7)は家族で離脱とはならない。このため、意思による離脱ではなく、「やむを得ない特別の事由」(皇室典範第11条2項)による離脱となり、情願書はない。また、山階宮家にひとり残っていた当主、武彦(49)は、心の病が悪化しており、意思を示せる状況になかった。このため彼も同条同項での離脱となった。
こうして15人分の情願書で、当時の旧皇族51人が、一斉に皇籍離脱する。1947年10月13日の皇室会議で決まった。たしかに、この日は、日本国憲法施行(同年5月3日)から5カ月後で、51人は新憲法下のわずかな期間、皇族の身分を保持した。
しかし、前述したとおり、情願書が最初に書かれたのは3月6日だ。翌日、「皇族の身分を離れる者等に対する一時金支出に関する法律案」が閣議決定されるので、それに備えて、署名を集めたのである。当初、皇籍離脱は、憲法施行前に予定されていた。言い換えれば、新憲法施行をもって、11宮家は皇室から切り離されるはずだった。
ところがGHQ(連合国軍総司令部)は、離脱する11宮家に多額の一時金が支出され、それが新しい国会の審議を経ないことを問題視した。明治憲法下での離脱にストップをかけ、5月3日以降、国会で審議してから離脱一時金を決めることを求めた。このため宮内省は憲法施行直前の5月1日、15人分の情願書を集め直し、新憲法下の議論に備えたのである。
こうした事情で、11宮家のメンバーは新憲法下でも5カ月間、皇族であった。形式的には男子に皇位継承権はあっただろう。しかし、一旦、「辞表」を出したメンバーに、実質的な継承権があっただろうか。
新憲法下の継承権は単なる形式に過ぎず
皇位継承の有識者会議報告書(2021年)には、「旧11宮家の皇族男子は、日本国憲法及び現行の皇室典範の下で、皇位継承資格を有していた」とある。少なくとも形式的にそうであったにすぎず、皇籍復帰の根拠とすることには無理がある。
なお、47年2月18日、「近く臣籍降下する宮家に対する降下後の宮中における取扱方針」が決定された。新年、天長節(天皇誕生日)などの拝賀、春季皇霊祭などの祭典参列はこれまでどおりと決まった。これについて歴史学者、勝岡寛次は「殆(ほとん)ど皇族と変らないのではないか」(「菊栄親睦会の基礎的研究」『日本国史学』17号〈2021年〉)と評価する。しかし、旧皇族の男系男子から皇位継承権を取り上げ、財政的な支えをなくすという大改革の裏面で、せめて拝賀や参列を従前どおりにするのは激変緩和措置にすぎない。認められたのも、当主、尊属、嗣子とその配偶者に限られた(51人中28人)。
そもそも、「皇室典範増補」(1907年)第6条に「皇族の臣籍に入りたる者は皇族に復することを得す」とあったことを軽視するのはおかしい。皇室と国民の間に明確な区別をつけ、皇室の尊厳を守る措置だった。皇室の聖性を守りたい男系派が、区別を曖昧にしている。旧皇族はGHQによって無理やり離脱させられたと言いたいのだろうが、情願書を見てもその主張には無理がある。
〈サンデー毎日6月30日号(6月18日発売)より。以下次号)
情願書は、宮内庁宮内公文書館所蔵の「皇族御身分録昭和22年~25年」(識別番号30754)のなかに収められている。
■もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など