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日本近現代史と格闘した孤高の思想作家「高橋和巳」の豊穣な物語世界 小野沢稔彦
歴史のなかの人間の煩悶を描いて、戦後日本文学史に孤高の光を放つ高橋和巳。その表現世界はいまだに、私たちの日常を揺るがす鮮烈な力をたたえている。鬼才評論家が、高橋文学と映画化作品を掘り下げ、現代の苦悩と向き合うヒントを探る――。
◇『邪宗門』『日本の悪霊』『悲の器』…
私たち一人一人のかけがえのない暮らしがノッペリとした日常性のなかに埋没し、思想も文学も時代の表層に安易に取り込まれて無化される。一方、「戦争」を止めることができない私たちの無力と無関心を背景に、専制的な軍事帝国は、周縁に暮らす多数存在である民衆の抹殺を公然と行い続ける。
冒頭から極端な状況認識を示したが、実際、「日常への埋没」と「戦争の継続」という二つの「政治性」によっていまや世界は固定され、不変のごとくある。では日本にあって、この時代とその内実を真に問う方法などあるのだろうか。私は、現在と対峙(たいじ)するために何を思考すべきかのヒントを得ようと、本誌で「戦後文学」と「映画」について論じてきた。今回は、民衆の多様なありかたを描き続け、生き急いだ孤高の思想文学者・高橋和巳について書いてみたい。彼の文学には「この時代を問う方法」が内包されていると思う。
五木寛之は、本誌5月5・12日合併号の「ボケない名言」で高橋和巳を取り上げ、《最近、しきりに彼のことを思い出すのは、なぜだろうか》と書いている。五木寛之の筑豊を舞台にした作品や、忘れ去られた民衆宗教への着目は高橋と通底すると私は思ってきたが、「なぜ」という五木の自問に触発されて、いまこそ高橋に眼を向け、その文学世界の復権を試みたい。
高橋和巳は、1960年代から70年代の左派的な党派政治の時代の高揚に併走する政治小説として読まれ、その沈静化に伴って忘れられていった。しかし、そういうこととは無縁に、高橋文学はいまなお豊穣な物語として圧倒的に面白いのである。
高橋文学は、この国の幕末・維新期に始まる近代の根源に迫る。日本的な目線によってではなく、近代を「世界時間」として描くことで、「国民文学」を超える世界性を持つ。また、高橋文学はたんなる政治小説ではない。むしろ、あらゆる政治的立場から追放された底辺民衆、なかんずく差別される女たちと向き合うその表現は、「反政治小説」なのである。民衆の多様な声、語り=騙(かた)りが交錯する豊かな「大衆文学」であり、日本文学のなかに特権的に存在する「純文学」ではなく、それに抗する「反文学」でさえある。
◇民衆宗教が「国体」を解体する物語
高橋の代表作であり、壮大な全体小説である『邪宗門』を再読してみよう。『邪宗門』は幕末以降の近代日本の歴史のなかに生きた「民衆宗教」の運動を思想実験の場とし、その転変を物語化している。人々の内面の運動を明確に捉え、その歴史の全体を検証し、国家の側が作意した歴史を逆なでする「反近代史」の試みである。このモチーフについては高橋自身が、《日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている〈世なおし〉の思想を》《極言化すればどうなるかを、思想実験してみたい》と端的に単行本あとがきで書いている。つまり高橋は、不変の体系とされた「国体」のなかで、民衆の世直しの思想によってその絶対性を解体しようとする物語を作りあげたのである。
高橋が創作した「ひのもと救霊会」という民衆宗教の教義にはどんな革新性と組織性があるのだろうか。
〈1〉開祖が時代と社会から貶(おとし)められた女であり、抑圧された女の声が教義であること。世界の宗教史・民衆史においてその開拓者が女であることは、性の問題を正面から問うその教義を含めて、極めて革命的であり、その意味は大きいだろう。
〈2〉開祖の宗教思想は矛盾にあふれ、それを宗教教団の思想大系として整備したのは開祖を継ぐ二代目教祖たる男によってである。近代という時代のなかで教団は飛躍的に巨大化する。それはしかし、国体との折り合いをつけることを意味した。
〈3〉幾重にも差別され、極限状況で生きなければならなかった女の戦いは、開祖に連なる多くの女たちの内面で活性化し、言葉にならぬ「世なおし」の意志を生成する。そして、男たちを巻きこみ、巨大な運動となっていく。教団は戦争の現実と向き合い、国体を解体する方向へと運動は向かわざるをえない。すると組織は政治性を表面化することになる。
〈4〉男たちが形成する教団は、常に体制と折り合って組織の延命を図る。体制との妥協策はやがて戦争を受け入れ、その渦中に「北満」や「南方の島々」で、教団と国家の矛盾を女たちが背負わされる惨劇となって顕現する。
〈5〉そして敗戦直後、高橋は思想実験として、教団の「外」の革命指導者による、教団を主体とした「革命」を設定する。子どもの頃、母の人肉をさえ喰(く)って成長した革命指導者は、教団が戦争を受け入れた負の歴史を検証することもせずに、展望なき政治革命を起こす。政治革命は一瞬の成功を収めるが、制度の側の暴力を前に、たんなる革命ゴッコに終わる。この「外」からの思想注入による政治革命においては、たとえば女と性の問題、教団の運動と構成員の個の内面は問われることがなく、表層的な体制変革が目指されたにすぎない。そして無残な敗北と教団の終わり。民衆は無明の闇のなかを羅針盤もないままどう歩めばいいのか。再度、高橋のあとがきを引用したい。
《私の描かんとしたものは》《私の悲哀と志を託した宗教団体の理念とその精神史との葛藤だった》《私が生れ育ったこの日本の現代精神と私の夢とを》《文学の領域において格闘させることが必要だった》。私たちは、高橋の苦闘を追体験することから現在を問う試行を始めるべきではないだろうか。
◇革命の名の下に行われた殺人の記憶
高橋和巳の小説は、その壮大なスペクタクル性によって、映画化しやすいように思われる。しかし現実には、黒木和雄監督『日本の悪霊』一作だけにすぎない。小説『日本の悪霊』とその映画化作品を見透して、この特異なミステリーを覗(のぞ)き込んでみたい。
ドストエフスキーを念頭におき、日本の戦後史のなかに「罪と罰」を表象するこの物語は、国家という迷宮と、法の罠(わな)に捉われてしまった人間の苦く悲惨な物語である。
敗戦後の混乱期に、強い権威を持つ前衛党が主導する軍事行動、いわば矮小化(わいしょうか)された革命運動に参加した男が、山林地主を殺害し、その後8年(当時の時効期限)逃亡し続け、いまなぜか卑小な詐欺事件を起こして自ら出頭する。特攻で死にそこなった刑事がその事件に興味を抱く。刑事は、事件の裏に男の過去が影を落としていることを感知するのだ。追う者と追われる者との間に奇妙な親近感が生じる。8年前の事件は無かったことにされ時効が成立している。しかし男は、自分が信じて行った行動が無化されることにたえられず、事件が正当に裁かれ、自分が真っ当に処罰されることを求める。事件の裏には前衛党の裏切りもありそうだ。男は自分の処罰を求めることで、かつての行動の意味と自らのアイデンティティを再構築しようとしている。
個人の内実を超えて、時代のなかで生ずる人間の罪と罰。歴史のなかで行われた「犯罪」を無かったことにして、国家も前衛党も延命する。卑小な詐欺罪の裁判で、国家は男に「無罪」を宣言する。すると男は、その場で自死を敢行する。刑事は直感的に覚(さと)るのだ――《死が生にとって最も恐しいことなのではなく、死から拒まれてあることが》《恐怖なのであること》を。男は、くつがえることのない法という国家制度に対し、「落とし前に時効はねェ」(映画化作品のセリフ)ことを全存在を賭けて実行するのだ。
この傑作の映画化に際し、シナリオ作家・福田善之は小説をいったん解体し、当時流行していた仁侠映画のパロディとして、まず男と刑事を佐藤慶の「一人二役」で再設定し、国家とヤクザ共同のヤラセ「ヤクザ戦争」というギャグ映画として再構成する。この演劇的世界の創出によって、地主殺害という革命行動が、実はパロディでしかなかったことを笑劇(ファルス)として浮上させる。しかし、シナリオが仕掛けた方法は、現場の映画制作者たちのシナリオへのとまどいと、同時に高橋小説の神話化とに呪縛され、ただシナリオの表面を追いかけるだけに終わってしまった。
優れた文学を映画化するには、まず深くその世界を読み込むことが求められる。そして物語を解体し、小説とは別の「映像」世界へと変換する仕掛けを準備しなければならない。福田の舞台空間的で先鋭なシナリオを、古い映画的なリアリズムによって再現しようとした結果、映画は中途半端なものとなった。
◇「家政婦」の告発によって破滅する法学者
《一片の新聞記事から、私の動揺がはじまったことは残念ながら事実である。もし何事もあかるみに出ず、営々として構築した名誉や社会的地位が土崩することもなければ、現在もなお私は法曹界における主要メンバーの一員であり、また大学教授としての精神的労作いがいの負担は私の魂には加わらなかったであろう。傷ついた私の名誉は、しかし私が気に病むほどには人は気にしてはいまい。また、私自身、事態を悲しんでいるわけではない。愛のことどもについて、ほとんど考えてみもしなかった学究生活においても、考えてもなんの結論もえられぬことを知った今も、私は悲哀の感情とは無縁であった》
このように始まる『悲の器』は高橋和巳の文壇デビュー作であり、1962年、第1回文藝賞受賞作となり、彼はこの作品によって時代の寵児(ちょうじ)に躍り出た。当時、高校生の私も、この新人作家の作品を「読まねばならぬ」文学として早速読み始めた。
冒頭を引用したが、ここには生き急ぐように次々と大作を書き継いだ彼の表現の核心が表象されている。デビュー作にしてほとんど完成された、老成したかのような小説の力に驚嘆するしかない。以後、彼はどの作品においても、この国の近代以降に生きる人間の根拠を問い続けた。特に昭和という絶対的「神聖国家」の時代に迫る作業は、私たちを挑発してやまない。
人格を無視され性加害を受けた「家政婦」の告発によって破滅していく、戦後日本を代表する法学者――。『悲の器』は、昭和という時代とその神聖な権威性を問う。絶対的な自明性としてある「知」と、特権的知識人の思想と行動を見すえることで、時代の総体を暴くのである。不動の絶対性を持つ「知」の体系が、孤高の男性知識人にとって「他者」でしかなかった女たちから、非対称的な性関係という、男性知識人が考えたこともない現実を突きつけられることによって、崩壊していく。男性中心主義の知識人は、下世話なスキャンダラス世界のなかに自ら解体せざるをえない。
男性中心主義の知識人にとって、下位的な人間活動だった性の世界と、人間活動の上位に鎮座する「知」の制度性を、高橋はまったく同位のなかに思考し、性の侵犯性が神聖な権威社会を解体することを凝視する。これは高橋にとっての「わが解体」であり、この小説を読む私たちにとっては自明のものである「私」の解体であるだろう。『悲の器』は近代という時代におかれた人間の全面的解体を模索する小説なのだ。
実は『悲の器』について、私はおよそ50年にわたって、映画化を目論(もくろ)んできた。そしていまも試行している。50年前、当時のATG運動のなかで私たちが行おうとした、この小説の映画化は、様々な理由で頓挫した。いまはその作業の結晶である「シナリオ」だけが残存している。私はこの小説を何度も読み返すことで、高橋の世界を現代においてなお映画化するために、当時のシナリオに何を加え、映画制作についてどんな新しい組織と方法を持てばいいか、いつも考えている。
女性と性についてさらに深く、我が身に関わらせて見つめ直すこと。男性中心主義を歴史的、社会的に問い直すこと。新たなシナリオ作業の基点には、やはり近現代史のなかの人間を捉えようとした高橋の「精神の運動」が据えられなければならないだろう。(小野沢稔彦)
<サンデー毎日6月9日号(5月28日発売)より>
■たかはし・かずみ
1931〜71年。作家。中国文学者。62年、『悲の器』で第1回文藝賞受賞。近現代史のなかの人間を見つめ、新たな倫理を模索した。著書に『散華』『邪宗門』『憂鬱なる党派』『わが解体』など
■おのざわ・なるひこ
1947年生まれ。映画プロデューサー、監督、脚本家、批評家。著書に『大島渚の時代』(毎日新聞出版)、『〈越境〉の時代 大衆娯楽映画のなかの「1968」』(彩流社)。製作した映画に『圧殺の森』(小川紳介監督)、『幽閉者』『断食芸人』(いずれも足立正生監督)、監督作に『巨人ミケランジェロ』(日本テレビ)など多数