週刊エコノミスト Online サンデー毎日
女系重視の前例もある 江戸時代の「皇位継承」論理 社会学的皇室ウォッチング!/112 成城大教授・森暢平
これでいいのか「旧宮家養子案」―第14弾―
旧宮家養子案を推す人、すなわち男系継承の重要性を強調する人たちは「男系」だけが皇位継承を説明する唯一の論理だと考える。だが、それは適切ではない。中宮欣子内親王と光格天皇の次の時代の継承の議論をたどれば、女系によって天皇本家の血筋をつなごうとする意識も観察されるからだ。(一部敬称略)
内親王欣子(よしこ)は1779(安永8)年に生まれた。9カ月後、父、後桃園天皇が亡くなり、中御門(なかみかど)天皇系の血筋を引く最後の遺児となる。側近たちが将来、欣子と縁組をさせる前提で、閑院宮家から師仁(もろひと)(当時8歳)を迎え光格天皇としたのは、これまで見てきたとおりである。欣子が光格の正式な后(きさき)(中宮)となったのは1794(寛政6)年、15歳のときであった。ときに光格は22歳。
欣子が中宮となる以前、光格天皇は女官に5人の子を産ませていた。第1子は嫡出(正室の子)で、という原則があったはずだが、欣子と光格との年齢差からこうした事態になったと考えられる。ただし、5人は門跡として出家することが想定され、皇位継承者とはみなされていなかった。かつ全員が夭逝(ようせい)している。期待は欣子にかかった。
欣子の初出産は立后の6年後、1800(寛政12)年1月。親王温仁(ますひと)の誕生である。彼は誕生直後に儲君(ちょくん)(皇位継承者)とされた。一方、1カ月後には典侍(てんじ)、勧修寺(かじゅうじ)婧子(ただこ)も出産している。親王恵仁(あやひと)(寛宮(ゆたのみや))である。彼こそが次代の仁孝(にんこう)天皇となるのだが、誕生時には皇位継承者とは考えられていなかった。空位になった京極宮家を継ぐことが想定されていただろう。
1800年はじめに生まれた2人の皇子だが、温仁は3カ月で亡くなってしまう。ただ、皇位継承者は天皇本家の血統を継ぐ欣子が産んだ子であることが前提で、弟、恵仁が直ちに継承者となることはなかった。欣子の新たな懐妊が待たれたのである。
しかし、欣子はなかなか子に恵まれなかった。1807(文化4)年、欣子が28歳のとき、欣子による嫡出子を得ることは断念され、恵仁(当時7歳)を儲君とすることが決まる。同時に、恵仁は欣子の「実子」と擬制され、同居して欣子に養育されることになる。18世紀の前例に沿った措置だが、欣子の「実子」とされたことは、中御門系皇統の連続性を強調する意図があっただろう。
他人の子を育てる中宮欣子の苦しみ
ところが、同居直後から、欣子が「常の通りにもあらせられず」という状態になる。状況は想像するしかないが、おそらく心的ストレスからの異常であっただろう。欣子は、天皇本家の遺児として、男子を残すことが求められた。しかし、1度しか懐妊せず、その子も夭逝してしまった。そんな欣子にとって、女官の子を「実子」として養育することは大きな負担や苦しみとなったに違いない。結果として2年後に同居は解消された。同じ年、9歳となった恵仁は皇太子となった。
それから7年後の1816(文化13)年1月、驚くべきことが起きる。37歳となった欣子が2度目の出産をするのである。高齢出産と言ってよい。生まれた皇子は悦仁(としひと)(高貴宮(あてのみや))と名付けられた。中宮、それも皇女による嫡出子が再び誕生したのだが、皇位継承者が直ちに変更されたわけではない。しかし、高貴宮という命名が示唆的であると近世史研究の佐藤一希が指摘する。江戸前期、兄から皇位を受け継いだ霊元天皇の幼名が同じ高貴宮であったためである。霊元と同様、兄からの皇位継承が想定された。恵仁は「中継ぎ」的な立場となった。
その後、光格天皇の生前退位を受け、恵仁が即位し、仁孝天皇となった。正室(女御)鷹司繋子(つなこ)との間に第1皇子(安仁(しづひと)〈鍠宮(おさのみや)〉)が誕生したのは、1820(文政3)年である。このとき、次代の皇位継承者は安仁ではなく、依然として天皇の弟、悦仁(当時4歳)であった。つまり、光格→仁孝→安仁という男系継承よりも、後桃園→欣子→悦仁という女系継承のほうが重視されたのである。
しかし、歴史は思いどおりには進まない。1821(文政4)年、悦仁、安仁が相次いで亡くなってしまう。ここで、天皇家には、21歳の仁孝天皇しか若い皇子がいない状態が出現する。さらに、繋子が再び懐妊するが、1823年4月、皇女出産時に母子ともに死亡するという大変な事態が起きる。
ここで光格上皇は、仁孝天皇の後室を再入内させようとする。選んだのは繋子の妹、鷹司祺子(やすこ)であった。江戸時代の宮廷では、五摂家の娘を天皇の正室とするのが通例だったが、特定の家に権力が集中しないよう一つの家から連続して入内させないようにしていた。実際、このとき、一条家にも適齢期の別の娘がいた。それにもかかわらず、光格上皇は祺子を選んだ。
仁孝の血の薄さを「女系」血統で補充
先の佐藤一希は、関白鷹司政通の日記に「皇胤(こういん)も御薄いので」とある記述に注目する。仁孝天皇の血筋は薄いので、鷹司家から正室をとりたいと解釈するのである。どういうことか。
欣子の年齢から考え、欣子の子を天皇にする当初の構想は断念せざるを得ない。しかし、閑院宮家系の仁孝天皇では、本家、中御門系皇統からどんどん離れていく。そこで鷹司家から連続して正室を入れ、せめて閑院宮系の血は濃くしていきたい―。光格上皇はこう考えたのではということだ。
鷹司家は1743(寛保3)年、閑院宮家から養子(輔平(すけひら))を入れ、皇別摂家となった。繋子も祺子も、鷹司輔平の孫であり、東山天皇の玄孫(やしゃご)になる。仁孝天皇の「血の薄さ」を、天皇家と血がつながる正室によって補強しようと考えたわけだ。ただし実際には、祺子は男子をなさず、構想は功を奏しなかったわけだが、傍系の光格上皇が血のコンプレックスを持ち続けていたことが分かる。
天皇から親等が離れれば当然、血統は薄くなる。仁孝天皇は、「女系」によって「血の補充」をしなければ、正統性が薄いと考えられていたのである。
<佐藤一希「寛政~文化期の皇位継承過程と光格天皇―中宮欣子と皇子をめぐる動向を中心に」『史学雑誌』132編3号(2023年)を参照した>
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など
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