週刊エコノミスト Online サンデー毎日
議論の静謐さを言うとき 福沢「帝室論」は適切か 成城大教授・森暢平
◇社会学的皇室ウォッチング!/116 これでいいのか「旧宮家養子案」―第18弾―
皇位継承に関する各党・各会派会議は非公開で行われる。議事録も結論が出るまで公開されない。そうなったのには衆院議長・額賀福志郎だけでなく、福沢諭吉の『帝室論』を引用して、静謐な議論を強調した3年前の有識者会議にも非がある。福沢の引用は適切さを欠く。(一部敬称略)
2回にわたる各党・各会派会議で分かったことは、会議を仕切る額賀の杜撰(ずさん)さ、無定見さ、軽さである。論点整理のアジェンダ、議論の進め方、タイムスケジュールなど運営方針が、まったく合意できていなかった。与野党間というだけでなく、額賀と海江田万里(衆院副議長)との間、額賀と尾辻秀久(参院議長)との間にも合意がなかった。
会議は、国会の正式な協議体ですらない。皇位継承という重大事を非公式な組織で、それも密室で論じるのは、そもそも不適切だ。
額賀は、立憲民主党が旧宮家養子案を条件付きで容認していることを根拠に、合意までの道筋は容易であると見誤った。さらに、同党が女性皇族の夫と子を皇族としないことに異を唱える意味を、理解さえしていなかった。そのため4回も会議を行えば合意にこぎつけられると考えた節がある。その筋読みの甘さを諌言する者はいなかった。
重要なのは、額賀が、結論が出るまで議事録を公開しないとしたことだ。誰の発言かが分かると、議論がしにくいということだろう。だが、国会議員が責任を持って発言できないということ自体、おかしい。
◇帝室は政治社外か?「有識者」報告の曲解
額賀が「密室」「議事録の即時公開なし」としたことには、2021年12月に報告書を提出した政府の有識者会議にも責任の一端がある。報告書は最後に次のように締めくくっていた。
「(国会等での検討の際には)、福沢諭吉が『帝室論』の中で、『帝室は政治社外のものなり』と述べているように、この皇室をめぐる課題が、政争の対象になったり、国論を二分したりするようなことはあってはならないものと考えます。静ひつな環境の中で落ち着いた検討を行っていただきたい」
慶應義塾の創設者、福沢の著書『帝室論』に言及されているのは、有識者会議の座長、清家篤が慶應義塾長であったことも関係するだろう。しかし、この記述は、歴史を知らない者の浅薄な理解に拠(よ)るとしか思えない。たしかに、福沢は『帝室論』の冒頭で、「帝室は政治社外のものなり」(帝室〈皇室〉は政治の世界の外の存在である)と書いた。ただ、それは、政争の対象としてはいけないと言ったのではない。
福沢が日刊紙『時事新報』を創刊したのは1882(明治15)年3月。2カ月後の4月26日から「帝室論」の連載が始まった(全12回)。国会開設をめぐり、官権派と民権派(自由党)の対立が激しくなったときだ。
官権派の代表的人物、『東京日日新聞』主筆、福地源一郎は、帝位が神聖でないと主張する者は「大罪人」であって、力の限り筆誅(ひっちゅう)を加えると述べた(『東京日日新聞』81年4月25日)。これに対し、自由党総裁の板垣退助は82年3月、「自由党ノ尊王論」を口述させ、自分たちこそ、天皇に英王室のような尊栄を与え、堯舜(ぎょうしゅん)(中国古代の伝説上の名君。堯と舜)としようとするのだと反論した(『東洋自由泰斗板垣退助君高談集』所収)。官権派と民権派が、尊王度を競い、それを基盤に自らの主張を展開したのである。
82年3月13日、福地らが立憲帝政党を設立した。政党の名前に「帝政」と付いたことに福沢は驚いた。天皇の政治利用そのものであったためである。4月6日、現在の岐阜市内で演説中の板垣が刺客に襲われた。犯人の遺書には「勤王の志を抑えられず、国賊、板垣に罰を与える」との趣旨が書かれていた。こうした騒然とした「政治の季節」に福沢は『帝室論』を書いた。官権派(立憲帝政党)でも民権派(自由党)でもない立場から、尊王を標榜(ひょうぼう)して争うことをやめ、対立の緩和を求めたのである。
一方、福沢は、英国で保守党と自由党が争いながら、政権交代する政治を理想とした。『帝室論』には、「対照的な政党が互いに争って、火のように水のように、または、盛夏のように厳冬のようになる」との記述もあり、政争はむろん否定していない。当時、立憲政治のあり方、つまり、国会の権限をどの程度認めるかについて国論は多くの立場に分裂していた。それこそが政治である。
さらに言えば、『帝室論』に対して、天皇を無化する議論だという批判もあった。そのため、福沢自身、『尊王論』という「続編」を書いた(1888年)。皇室をめぐる論争も公に行っていたわけである。
『帝室論』で福沢が諌めたのは、政党が天皇を利用して自らの主張の根拠とすること、および、皇室が特定の政党の側に身を置くことである。皇室をめぐる課題を、政争の対象とするなとも、国論を二分するなとも、静謐に議論しろとも言っていない。ただ、政争の際に天皇の利用は良くないと言っているだけである。報告書は、福沢の言葉を曲解している。
◇有識者会議の罪 騒々しい議論を
戦後皇室に関する歴史学研究は、象徴となり、戦前よりもさらに明確に政治の外に置かれたとされる皇室には、依然として「政治」に留(とど)まる部分もあることを明らかにした。典型的には皇室外交がある。天皇が外交の場で何を述べるかは政治そのものとなる。皇室が完全に「政治社外」にあることは不可能であろう。明治であれ、現在であれ、同じことだ。
福沢は、そうした実態とは別に、「帝室は政治社外」であったほうがより良いという規範を強調し、各政党の自重を求めた。しかし、帝室を政治的論争の対象としてはならないとは考えていなかった。有識者会議はそのことを知っていたのか、知らなかったのか。いずれにしても、福沢の一言だけを引用して、静謐な環境での検討などとクギを刺し、額賀を誤らせたのは罪作りである。「国民の総意」形成の議論は、衆人環視の騒々しさのなかでこそ行うべきである。
<サンデー毎日6月16・23日合併号(6月4日発売)より。以下次号>
※赤野孝次「自由民権期の「尊王」論と福沢諭吉『帝室論』」『歴史評論』734号(2011年6月)を参照した
■もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など