広場を求めない「痛い」ピアノ 「存在の絶対的孤独」を聴く 梅津時比古
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クラシック ヴィレム・ブロンズ ピアノリサイタル
オランダのピアニスト、ヴィレム・ブロンズについて、かつて私は新聞に「こうした演奏家を広場に出したくはない。広場には、醜い虚栄が満ち満ちているのだから」と書いた。その思いは今も変わらない。今秋開くピアノリサイタルは、10月27日に静岡市清水区のルードウィッヒ音楽院、同31日に東京都墨田区のすみだトリフォニーホール小ホールと、いずれも小さいホールではあるが、かつての言に反して、できるだけ多くの人に足を運んでほしい。おそらく日本でのリサイタルとしては最後になるかもしれないと思うので(他に11月8日に東京・ヤマハ銀座店でレクチャーコンサートも行われる)。
40年ほども前に衝撃を受けたブロンズは、その後の来日でも決して、いわゆる「お勧め」の存在にはなり得ないピアニストであった。彼の表現は「存在の絶対的孤独」とも言うべきものであったからである。「孤独」を表現して人に伝える行為は、既にして「孤独」ではない。「孤独」を共有するということ自体、孤独ではないからである。自己を引き裂かれるその苦渋に彼の表現は満ちている。聴いていて、痛い。ブロンズもまた痛いのであろう。実際、かつて彼は舞台で盛大な拍手に包まれると、両手で両耳を覆うようにして、そう、ムンクの「叫び」のような姿をして舞台から袖に去っていった。まるで、拍手を拒否しているかのように。もし、拍手が賞賛の意味であるとすれば、彼の演奏は拍手を求めていないだろう。彼によって取り上げられる作曲家もまた、考えてみれば、拍手などもともと必要としていないのかもしれない。ベートーヴェンが拍手を求めているだろうか…
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週刊エコノミスト
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