個性教育ブームが〈平等さへの不満表出〉ならば社会一般での“個性追求”は何なのか? 評者・将基面貴巳
『個性幻想 教育的価値の歴史社会学』
著者 河野誠哉(東京女子大学教授) 筑摩選書 1925円
かわの・せいや
1969年生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。山梨学院大学経営学部教授などを経て、現在は東京女子大学現代教養学部教授。著書に『〈近代教育〉の社会理論』など。
「自分探し」や「自分らしさ」の追求が叫ばれるようになって久しい。槙原敬之さん作詞・作曲のヒット曲「世界に一つだけの花」で、「No.1にならなくてもいい/もともと特別なonly one」と謳(うた)われたことに象徴されるように、他人と自分の間には優劣の差は存在せず、他人とは違う自分だけの「個性」を主張すればよいという考え方が目立つようになった。だが、そもそもそのような風潮はいつどのようにして生じたのだろうか。
「個性」をキーワードとする教育がはじめて注目されたのは、日本に近代的な公教育が確立された大正時代である。すべての児童が平等に小学校へ通うようになると、近代的教育の画一性が批判されるようになり「個性」を伸ばす教育が模索された。
「個性」教育ブームが再来したのは、高度成長期を経て高校進学率が9割を超えている1980年代であった。風変わりな子ども「トットちゃん」を描いた黒柳徹子著『窓ぎわのトットちゃん』が大ベストセラーとなったこの時代には、「一億総中流」という流行語に集約されるように、豊かさを平等に享受した半面、その均一さが問題視されたのである。
当時の臨時教育審議会による教育改革では、新自由主義的政策を反映してか、「個性」を伸ばすのが教師の役割ではなくなり、教育を受ける生徒・学生個人の責務となった。その上、大正時代には長所だけでなく短所も含めて理解された「個性」が、昭和末期にはもっぱら肯定的な意味合いで受け取られるようになった。その結果、今世紀に入ってからは「障害も個性のうち」という「多様性」を肯定するレトリックも登場したが、そうした表現に違和感を抱く向きも少なくないようである。
「個性」が脚光を浴びたのは、いずれも教育における画一性が問題視された時期に当たることに明らかなように、「個性」の主張とは平等さに対する不満の表現と見なすことができよう。そこで想起するのは、19世紀フランスの政治哲学者トクヴィルの卓見である。すなわち、平等な社会に生きる個人は、他のあらゆる人々と平等であることに自尊心を抱く半面、他の誰と比べても自分が特別な存在でないことに不安を抱くものだ、というのである。
だとすれば、「個性」の追求とは近現代日本の教育だけでなく、平等な近代社会に共通の現象であろう。著者のいう「個性幻想」という教育問題は、現代日本の政治経済や社会一般にとってどのような意義を有するのか、さらなる考察を期待したい。
(将基面貴巳、ニュージーランド・オタゴ大学教授)
週刊エコノミスト2025年1月28日号掲載
『個性幻想 教育的価値の歴史社会学』 評者・将基面貴巳