映画 ドッグマン=勝田友巳
犬好きのお人よしがたどる おかしくてもの哀しい末路
善人がいい目に遭うとは限らないのが、世の非情さ。この映画の主人公マルチェロ(マルチェロ・フォンテ)、品行方正とは言えなくても、悪人ではない。幸せになりたかっただけなのにすべてが裏目、哀れな末路を迎える。人生の不条理か現代社会の隠喩(いんゆ)か。もの哀しくて皮肉な寓話(ぐうわ)である。
イタリアの海辺、荒涼としたほこりっぽい一角で犬の美容院を営むマルチェロは、愛想笑いが張り付いた気弱な男。犬を愛し、離れて暮らす幼い一人娘をかわいがり、仲間とのおしゃべりとサッカーが楽しみ。麻薬の密売やコソ泥にも手を染めているものの、それも娘をダイビングに連れて行く費用を稼ぐため。頭痛のタネは麻薬密売の常客シモーネ(エドアルド・ペッシェ)で、暴力で近在ににらみを利かせ、マルチェロを完全に支配して飼い犬以下の扱いだ。
シモーネの横暴がエスカレートするにつれてマルチェロの友人たちの怒りも増幅し、始末してしまえと言い出す者も出てくるが、マルチェロは言葉を濁すばかり。シモーネに逆らえないまま仲間を裏切るハメになり、とうとう見捨てられてしまう。
シモーネの前のマルチェロ、しっぽを丸めた犬のよう。散々ひどい目に遭わされるのに、その場しのぎで争いを避け、誤った選択ばかり重ねてゆく。そして度を超して優しい。シモーネが窮地に陥り、自由になる好機が訪れても、頼まれもしないのに救いの手を伸ばす。といって感謝もされず、状況は悪くなる一方。初めはマルチェロを好感と共感とともに笑った観客もイライラしてくるに違いない。
監督は『ゴモラ』でナポリの裏社会を活写したマッテオ・ガローネ。今作でも過酷な現実を、乾いた筆致で描き出す。
虐げられた主人公が、我慢に我慢を重ねた揚げ句に反撃でもすれば、観客もカタルシスを得られるだろう。過去の因縁や同性愛のような理由がちょっとでも示されたら、マルチェロがシモーネから離れないのも納得する。見返りを求めない優しさの価値なり、弱者に対する不当な待遇の告発といった社会的倫理的、宗教的な問題提起をされるなら、思索の手がかりも得られよう。しかし観客の期待をよそに、監督はマルチェロをからかうのでもなくいとおしむでもなく、淡々と追いかける。
時に幻想的な風景と、犬との間にだけ情が通うような孤独なマルチェロの取り合わせは、シュールレアリスムの絵のようだ。映画の結末は、何とも言えない後味を残す。歯切れの悪い映画だが、心にさざ波を立てずにおかない。ざらざらした感触故に忘れがたく、もう一度見たくなる。
(勝田友巳・毎日新聞学芸部)
監督 マッテオ・ガローネ
出演 マルチェロ・フォンテ、エドアルド・ペッシェ、アリダ・バルダリ・カラブリア
2018年 イタリア
8月23日(金)~ ヒューマントラストシネマ渋谷ほかにて全国ロードショー