迷走する英語入試 「4技能重視」は誤解と利権の産物 グローバル人材は掛け声倒れに=阿部公彦
大学入試が変わる。2020年度から「共通テスト」という新しい試験が始まり、英語ではGTEC(ジーテック)や英検など民間試験が導入される。期待に満ちた新しい船出のはずだが、高校の現場は大混乱に見舞われている。TOEIC(トーイック)の撤退や英検の仕様変更、大学の方針転換などがシステムへの不信を生み、情報の錯綜(さくそう)や開示の遅れにもつながって受験生の間では不満が湧き起こっている。
改革の目玉とされる民間試験の導入だが、いったい何が変わるのだろう。推進者によれば「これまでは『読む』『聞く』の2技能。これからは『話す』『書く』も加えた4技能」だという。しかし、4技能といっても、実質的に新しいのはスピーキングの実技テストくらい。それだけを理由に大学入試の英語が民間業者に丸投げされるのである。しかも、試験が近づいてきてわかったのは、その肝心のスピーキングテストが問題だらけだということだ。本当の狙いは、新テスト導入で潤う民間業者と周辺に群がる政治・行政関係者が分け合う「新たな利権では」と勘繰りたくなるほどだ。
にもかかわらず、行政サイドは「いろいろ問題はあるが理念は正しい」と、今回の制度の強行導入を図る。しかし、そもそもこの「理念」は正しいのか。このような「ワンフレーズ型」の宣伝そのものが迷走の原因ではないのか。
本稿では、現在メディアをにぎわしている民間試験がらみの諸問題とは別に、より根深いと思われる「理念」そのもののゆがみに焦点をあててみたい。問題を三つの視点から考えてみる。
ほんとうの「実用」とは
第一に注目すべきは「実用英語」へのこだわりの迷走だ。英語教育について「受験英語はだめ。もっと実用的な英語を」と言われ出したのは1970年代。その延長で「もっと会話能力を重視した英語教育を」との路線が敷かれ、今に至る。
しかし、20年以上続いてきたオーラル(口頭の)重視政策はうまくいったのか。「文法訳読」を駆逐し、「オーラル」と「コミュニケーション」の旗を振り続けた結果、生徒の基礎力は明らかに落ちたというのが、現場の実感だ。基本的な作文さえできない。「ハロー」と大きな声が出せても、中身のあることが言えない。文章読解は惨憺(さんたん)たるもの。「お手軽な英語ばかりで、基礎力がない」との批判も噴出している。
そこで「実用」「コミュニケーション」の次に、今度は「4技能」という看板が持ち出された。「オーラル重視はやりすぎたので、四つ全部ならいいでしょう」という理屈だ。しかし、授業時間や生徒・教員の人員規模に変化はないのに、急に「2」から「4」へと技能の数が増えるのだろうか。
英語の効率的な学習のためには、しゃべったり聞いたりして音声に触れることが必要なのは確かだ。その方が、読み書く力も身につきやすい。そのような諸活動の連携に真摯(しんし)に取り組む英語教育研究者も大勢いる。
しかし、今回の「4技能看板」はそうした努力とは全く別ものに見える。政策の陰の目的には民間試験の導入がある。それを正当化するために試験の「4技能型」にはこだわるものの、内容にはまったく無関心になっているというのが筆者の見立てだ。
肝心のテストの中身が業者によってばらばらなのもそのためだ。なぜ、このような入試制度で英語力が向上すると思うのか、不思議でならない。特に問題なのは、試験の「4技能分離」を強調するあまり、英語を四つの「技能」にわけて別々に勉強すべきだとの的外れな思い込みまで助長されてしまうことだ。中等教育で大事なのは、4技能を分断しかねない「ばらばら学習」よりも、英語の諸活動に共通する単語や文法などの「体幹」と呼ぶべき部分を鍛えることであるはずだ。
技能という用語には「実用英語」への執着が見え隠れする。「実用英語」なるものがお手軽に完成型で手に入れられるかのような、妄想めいた誤解が依然としてあるのだ。だから、「4技能」というキャッチフレーズに引かれてしまう。
二つ目に焦点をあてたいのは「日本人は英語をしゃべれない」という議論だ。幾度も繰り返されてきた主張だが、いささか誤解もある。そもそも「しゃべれない」とは具体的にはどんな状況なのだろう。たいていは、相手の言っていることが聞き取れない、言いたいことがうまく表現できないということだろう。原因は簡単だ。音が聞き取れないことと、語句の知識が乏しいことだ。
ならば語句を学習すればいいことになる。しかし、近年の政策ではこのあたりから迷走が始まっている。語彙(ごい)や文法の基礎がないから「しゃべれない」のに、遊園地でチケットを買うといった表面だけの「実用風」に走るばかりで、問題の根源には目を向けないのだ。
学校では面倒見きれない
そもそも「実用」とは何か。「実用英語」の状況は無数にある。観光、商売、天気予報、スポーツ、新聞や雑誌の記事、学校の授業、微妙な人間関係……。どの状況の英語でも必要とされる語彙は少しずつ異なるだろう。「定番の実用」だけやってもとても追いつかない。
つまり、個々の「実用的な状況」に応じた単語や熟語をすべて学校英語で教えるのは無理なのだ。真の「実用への対応」は、学校英語で基礎を身につけたあとにやると考えればいい。観光で西海岸に行くとき、会社で営業するとき、来日した外国人の案内をするとき。必要が生ずるたびに準備すればいい。そして、その体験から徐々にテリトリーを広げる。「学校後」の自主トレーニングなしでは、英語力の向上などおぼつかない。学校教育で大事なのはそうした向上の道筋を生徒に提示することである。どの段階までは先生に頼り、どこからは自分でやらねばならないかを理解させたい。
「実用英語」とは「あなたにとって必要な英語」なのだ。学校では面倒を見きれない。学校で習い、大学入試で問われるのはそれ以前の体幹部分。そこに枝葉を生やせるのは本人だけだ。
世界と関わるための英語
最後に英語学習の三つ目のポイントとして、英語と身体の関わりに触れよう。まずは耳だ。日本語話者はもっと英語の音に慣れる必要がある。日本語には音節の強弱を言いわける「ストレス・アクセント」 のリズムがないから、英語の運動感覚をゼロから身につけねばならないのだ。英語圏に一定期間住むと急に聞き取れるようになると言われるが、それは体がリズム感を覚えるからだ。これは、読み書くときにも役立つ。英語の「間」を体が覚えるのだ。
もうひとつ。同じく身体がらみだが、私たちが英語の運用で苦労するのは、自分が身体ごと巻き込まれている状況だ。「こっちにきたら」とか「はい、どうぞ」といった表現が意外とうまく使えない。そこには必ず「空間」がからんでいる。
こうしたとき、“You can come over here!”とか、“Here you go!”というふうにyouを使うとうまくいくことが多い。言語の習得で難しいのは、自分自身が世界に巻き込まれているときだ。いわば「実存」が問題になるとき。法律用語とか科学用語のようにシステムが「体系的」で「完結」しているときは、その外に立って構造を理解できれば言葉も使える。これに対し「自分」が中に入ってしまうと、システムそのものが単純でも難しくなる。自分と世界の関わりのとらえ方がそれぞれの言語で微妙に違うからだ。日本語にない英語の“I”“You”関係もその典型だ。
こうした「実存英語」は机上の勉強ではなかなか身につかないし、テストでも試しにくい。たとえば、誰かと作業したりするのが一番いい。学校でも、そういう場をつくる試みがあってもいいだろう。しかし、限界がある。「はい、どうぞ」がうまく言えなくても、学校英語を責めるのは間違いだ。
ビジネスでほんとうに必要なのはどんな英語だろう。しゃべることも役に立つだろうが、重要な情報は書面でやり取りされる。そうした場面で必要とされる複雑な内容の英語を読み書く力を支えるのは、基礎となる文法や構文の知識だ。そこをないがしろにしたら、とてもではないが、グローバル人材など育たないと強調したい。
(阿部公彦・東京大学文学部教授)