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小説 高橋是清 第73話 高橋を派遣すべき=板谷敏彦

    (前号まで)御前会議で日露開戦が決まった日、伊藤博文は金子堅太郎を自宅に呼び米国での政府広報活動を命じる。戦争の長期化に備え、欧米での日本公債を募集販売するための布石だった。

     明治37(1904)年2月4日の御前会議の後、伊藤博文は貴族院議員の金子堅太郎を自宅に呼び米国での政府公報を命じた。同様に元老松方正義は、御前会議の後、井上馨、曾禰(そね)荒助大蔵大臣と共に大蔵大臣官邸へと向かった。現在の参議院議員会館の西隣辺りである。松尾臣善(しげよし)日銀総裁と阪谷芳郎大蔵次官も呼ばれている。

    男子の本懐

     松方は、終わったばかりの御前会議で開戦が決まったことを松尾と阪谷に告げると、我々の責任は戦費の確保にあると言った。

     戦争に際して増税はもちろん行う、また内国債も発行する。国民は増税に耐え忍び、国債の募集にも喜んで応じるであろう。

     しかし我々にいかんともしがたいことは、輸入物資を買い、金本位制を維持するための正貨の確保、すなわち外国公債の募集である。

     ロンドンやパリ、あるいはニューヨークの投資家たちに我が国の国債を販売せねばならない。

    「では、誰を派遣すべきか? 適任は誰か?」

     松方は問うた。

     林董(ただす)駐英公使は、阪谷次官のようなしかるべき地位の財務官僚が資金調達チームを従えてロンドンへ派遣されるべきと小村外務大臣宛に具申していた。 

     しかし松方をはじめ松尾総裁や阪谷次官は、その仕事には外債発行の事情に詳しく海外に知人が多い高橋是清が適任であると考えていた。

     松方は是清とは長い付き合いである。松尾総裁は日銀で一緒に働いてその能力をよく知っている。また阪谷次官はそれに加えて東京英語学校時代から是清を知っていて、その潜在能力を、つまり地頭の良さを高く評価していたのだ。

     一方で曾禰大臣は毀誉褒貶(きよほうへん)が激しい是清に難色を示し、井上は自分が蔵相時代の秘書官であった三井の早川千吉郎を推した。

     早川は、明治32年の公債発行を主導した人物である。しかしそれはうまくいかなかった経緯がある。そのため井上はどうしても早川というわけではなかった。是清のことも気に入っている。

    「日銀副総裁の高橋でよろしいでしょう」

     こうして井上の同意で欧米に派遣する財務官はとりあえず是清に決まったのである。

     翌日、松方が是清に打診すると、

     是清は、自分はその器にはございませんと答えた。この時代の人間は、皆最初は謙遜してこう返答するものだ。

     だが、松方は聞いた。

    「それでは誰が適任だと言うか?」

    「十五銀行頭取の園田孝吉さんがよろしいかと思います」

     園田は元ロンドン総領事で横浜正金銀行頭取も経験している。英国に知己も多い。

     松尾日銀裁も戦争中は正金銀行の実務をよく知る是清を手元においておきたいこともあって、派遣は園田の線でも検討されたが、園田自身は体調不良で、業務の途中で身体が持つまいという。

     そうこうしているうちに、2月8日、瓜生艦隊による仁川沖海戦、連合艦隊によるロシア旅順艦隊攻撃と、戦況の展開は思いの他早かった。軍資金のほうもぐずぐずしてはいられない。

     2月12日夜、井上は是清を自宅に呼ぶと、

    「君はこのたびご苦労だがロンドンに行って公債の募集に当たってもらいたい」と告げた。

     外債募集は困難極まりない仕事だが、まさに日本の運命を左右する大事な仕事だ。この仕事を与えられ、全うすることは、まさに男子の本懐である。是清はその重みにためらいながらも引き受けると、日本銀行に帰り松尾総裁に報告した。

    「総裁、私が行って参ります」

    「うん、高橋君。ご苦労だがお願いします」

     松尾は続ける。

    「ついては君のお供に、松方さんから当行秘書役の深井英五君の推薦があるが、彼でも良いか?」

     深井は徳富蘇峰と欧州を旅した後で、松方が蔵相だった時に欧州視察旅行のお供をしている。その際非常に役に立ったので松方は今回推したのだ。

    「新婚ですな。でも英語ができるのであれば誰でも構いません」

     是清は素っ気なく答えた。

    涙の説得

    「高橋さん一人で大丈夫だろうか?」

     是清を資金調達の旅に送りこむことを決めた元老や大蔵省だが、阪谷次官はそれでも慎重を期した。阪谷と東大同期で元大蔵次官、ケンブリッジ大学でアルフレッド・マーシャルにも習い、この時は日本興業銀行総裁でエコノミストとしての名声もある添田寿一に助けを打診した。

     ところがこれがどこからか漏れて、是清の耳に入るや、

    「私に不満があるならば、添田さんに頼めば良いではないか。私は辞退させてもらう」

     と、是清はロンドンへの派遣を断固拒否した。

     困ったのは阪谷次官である。いろいろと懐柔するが、さっぱり言うことを聞かない。聞きつけた井上馨が、

    「阪谷君、高橋にはこれしかない。偉いのをそろえるから築地辺りで極秘で一席設けろ」

     ということで桂太郎首相、井上に松方正義も、曾禰蔵相に松尾総裁などもスケジュールを調整して築地の料亭に集まって、皆で是清をなだめた。

    「お前が行かなくて誰がいくのだ!」

     しかし、兜町の株は開戦が決まって切り返したが、ロンドン市場の日本公債は下げ止まらない。なだめているうちに、この任務の困難さ、責任の重大さ、あるいはロシアと戦争するということの怖さ危うさが再確認されることになり、

    「高橋が公債発行に失敗すれば、国が滅びる」とその待ち構える業務の悲壮さに一同額を合わせて泣くことになってしまったのだ。

     国の重鎮が車座になって座敷で泣いている。お銚子を持ってきた若い女中は怖くて部屋に入れなかったという。

     是清はこの場で、重鎮たちに約束させた。

     それは、一つ高橋に任せた以上十分に権限を与えること。一つ外交官に対して是清に十分な援助を与えるよう指示すること。一つ他の者に重複して同じ業務を委任せぬこと。一つ内地において外国業者より勧誘あるも決して相手にせぬこと。

    「わかった。政府としては固く約束するから、安心して行ってこい」

     井上は答えた。

     2月18日、首相官邸で桂太郎首相主催高橋是清君壮行会を挙行。これでもう断れない。

       *     *     *

    「君も大変だな」

     同僚から声をかけられたのは、日本銀行秘書役の深井英五である。

    「高橋さんは、反対意見を言う者を猛烈に撃退する人だから、君もせいぜい気をつけたまえ」

     深井は、こうした忠告は素直に受け入れたが、彼にはこれまでに徳富蘇峰、松方正義のお供で洋行した経験がある。是清がどのような人間であろうとも少しもかまわないと思った。

    (挿絵・菊池倫之)

    (題字・今泉岐葉)

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