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小説 高橋是清 第74話 ビタ一文の信用なし=板谷敏彦

(前号まで) 御前会議で日露開戦が決まったものの、ロンドン市場の日本公債は下げ止まらず、戦費確保に暗雲が垂れこめる。日本政府は是清に白羽の矢を立て、欧州での資金調達の旅へ送り出した。(小説コレキヨの連載はこちら)

 明治37(1904)年2月24日、横浜関内にあった横浜正金銀行の接待所で、高橋是清と深井英五の送別昼食会が催された。

 是清と深井は明日横浜港から出港する米国行きの船に乗ることになっている。

 会は元老の井上馨戦時財政顧問、松尾臣善(しげよし)日銀総裁以下数十人が参加した。会も終わろうとする時に、井上は送別の乾杯の音頭をとった。

「あなたの使命の成功すると否とが、我が国の運命に懸かることが多いのだから、ここはご奮発を願う」

 井上が感激性であるのは皆の知るところである。この日もあいさつをしながらぽろぽろと大粒の涙を流した。是清の前途に待ち構える困難を憂えたのだが、それはとりもなおさず日本という国の前途でもあった。是清の横にいた深井は、周囲の人たちもつられて涙を流すのを見て自身の使命の重さを改めて感じたのだった。

上昇続ける国債金利

 送別会が終わると、是清と深井は香港上海銀行横浜支店を訪ねた。居留地62番、現在の産業貿易センターの位置である。

 香港上海銀行は当時「女王の銀行」とまで呼ばれた英国ベアリング商会と提携して、共同で日本の公債発行の提案を出していた。是清は出発に先立ちその提案の詳細の説明を聞きに行ったのだ。

 香港上海銀行+ベアリング商会案

 ロンドン市場上場日本国ポンド建て公債

 ・クーポン 6%

 ・金額 1000万ポンド(日本円1億円)

 ・期間 10年

 ただし担保として発行によって得た現金の20%をロンドンに預託してクーポンの不払いに備えること。発行以降12カ月は他の銀行で一切資金調達をしないこと。

 一方で是清が政府から指示されていた公債発行条件の目安は、

 ・クーポン 5%

 ・金額 1000万ポンド(日本円1億円)

 ・期間 10年据え置き後、随意償還で55年

 すなわち目標金額1000万ポンド、5%の毎年の利札(利息分の現金と交換できるクーポン)付きの債券で、10年間は償還せずに、それ以降日本政府の意志で55年間の間のどこかで償還するという条件だった。

 香港上海側の条件は発行規模に関しては問題ないが、クーポン・レートが高すぎる、つまり支払利息が高すぎる、期間が短すぎる。という二つの理由で、是清は提案を断った。

 しかしこうしている間にも、すでにロンドン市場に上場している日本公債(クーポン4%)の価格は日露戦争勃発を受けて下落を続けていた。債券の価格が下がるということは利回りが上昇することを意味する。

 例えば2月1日に75ポンドだった日本公債はこの日、2月24日には66・5ポンドまで下落、これを利回りに直すと5・33%だったものが6・02%まで上昇したことになる。

 もう少し突っ込んでいうならば、この日香港上海銀行が提示したクーポン6%の条件は、まだ日本公債が十分に高かった頃に考えられた条件であって、是清が日本を出発しようかという頃には、もはやこの条件での発行は困難だったのだ。

 翌2月25日、是清たちを乗せた米国太平洋郵船会社シベリア号は横浜港を解纜(かいらん)し、ハワイを目指した。この船は1902年完成の客船、巡航速度16ノット、全長170メートル、排水量は1万1284トンあった。現在横浜港につながれている氷川丸とほぼ同じサイズである。

 シベリア号には米国に政府公報に赴く金子堅太郎男爵も乗船していた。金子は、明治初期に馬場辰猪(たつい)らと「共存同衆」で活躍し、伊藤内閣で農商務大臣や司法大臣も務めたエリートである。この時すでに貴族院議員でもあった。

 金子と是清は航海中1等船室用の食堂で何度か話し合った。金子の是清を見る目線は自然高いところから落ちる。大事な資金調達の仕事をこんな男に任せてもよいのかという気持ちもあった。

 シベリア号の主機は蒸気レシプロ。蒸気機関車と同じ振動が少ない静かなエンジンを持つ。冬の北太平洋を渡るには当時としては十分に快適な船である。

「高橋さん、あなたはいかほど資金を集めるのか?」

 金子は是清の一つだけ年上である。

「政府からお受けした命令は1000万ポンド、1億円でございます」

 金子は深くうなずくと、

「私は出発前に、参謀本部次長の児玉源太郎中将にお話を伺ったが、日本陸軍はロシア軍と5分5分だが、なんとか4分6分に持ち込んで勝つとおっしゃっておられた」

 そして、その時に戦費の話も伺ったという。

「大蔵省では4億5000万円の見込みらしいが、児玉さんはじめ陸軍の方では、交戦期間1年半で戦費見込みは8億円と考えている」

「その話は私も伺っております。もし戦費が8億円ということであれば、外債は1000万ポンドではとても足りません」

「多分数千万ポンドが必要ということになるだろう。君はできるのか?」

 金子は是清を詰める。

「現状では不可能でしょう。しかしやってみなければわかりませんし、他の選択の余地はありません。とりあえずは目前の1000万ポンドの確保に集中するだけです」

 金子は是清の覚悟を聞きたかったのだ。

「私も力の限り職務を全うし、米国で日本の公債が売れるように頑張るから、君も是非死力を尽くしてくれたまえ」

市場ではロシアが優勢

 こうしてシベリア号は3月4日ホノルル着、同月11日にサンフランシスコに到着した。この間ロンドン市場上場の日本公債の下落は止まらずに63・25ポンドまで下がっていた。その一方でロシア国債は安定した動きを続けている。ロンドンの公債市場は、日露戦争はロシア有利と判定を下しているようだった。

 3月13日、サンフランシスコからはユニオンパシフィック鉄道でシカゴへ。シカゴで金子と別行動になった是清は17日夕刻、深井とともにニューヨークに到着した。ニューヨークといっても駅はハドソン川対岸のニュージャージーである。

 駅まで迎えに来た内田定槌ニューヨーク総領事は1通の電報を持ってきた。

 横浜正金銀行ロンドン支店、山川勇木支店長からのものだ。

 電報にはこうあった。

【ロンドンでの外債募集は見込みなし。目下、正金銀行鐚(びた)一文の信用なし】

 ロンドンでは、皆この戦争で日本が負けると思っている。返済の可能性が低い日本公債の発行は無理だというのだ。だから是非ニューヨークで起債してくれと。

(挿絵・菊池倫之)

(題字・今泉岐葉)

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