小説 高橋是清 第72話 明治時代のIR=板谷敏彦
(前号まで)日露和戦を決する御前会議が開催、伊藤博文に戦費調達の見通しを問い詰められた蔵相は返答に窮するが、松方正義は軍資金の心配なしと異を唱え、明治帝は開戦を決断する。
明治37(1904)年2月4日の御前会議の後、枢密院議長の元老伊藤博文は自宅へ帰ると、金子堅太郎を溜池霊南坂の自宅へと呼びつけた。
「今度の戦争は世界を味方につけねばならない」
ロシアとの戦争を始めるにあたって、伊藤ほど欧州列強や米国との外交関係の重要性を理解していた元老はおるまい。
金子はハーバード大学卒の法学士、帰国後は馬場辰猪や小野梓らと言論結社「共存同衆」で活躍した。
伊藤の下で帝国憲法起草に尽力、農商務大臣、司法大臣の経験者であった。また東京株式取引所の理事長も経験し経済にも明るかった。
金子堅太郎、米国に飛ぶ
「お電話を頂戴いたしましたので、金子まかり出て参りました」
金子は書斎に通されたものの、椅子に座った伊藤はというと、うつむいて無言で何か思い詰めているかのようだ。机の上に置いた指だけがせわしなく動き、金子には気づかぬ様子だった。
「金子まかり出て参りました」
金子が大きな声で再び呼びかけると、伊藤もようやく気がついたようで、顔をあげると金子を見た。
「ああ、よくきた。まあお座りなさい」
金子は、今日の御前会議で既に日露の開戦が決まったことは知っていた。もともと非戦論者であった伊藤は、ロシアと戦うには日本はいまだ力不足で、日本の先行きに不安になっていることも承知している。
「金子君、晩飯は食べたかね?」
「済ませて参りました」
「そうか、僕はまだだから、失礼して食べさせてもらう」
女中が運んできたお盆には、一膳の粥(かゆ)に三切れほどの白身の刺し身、少量の野菜の煮物に漬け物だけがあった。
伊藤はぼそぼそと力なく粥をすするとすぐに箸を置いてしまった。
「この戦争は1年続くのか、はたまた2年続くのかは誰にもわからない。しかし、いつまでも戦争を続ける余裕は我が国にはない。これだけははっきりしている」
一息つくと、伊藤は少し茶を含み、続けた。
「もしも戦争の勝敗がつかぬようになった時に、仲裁に入ってくれる国が必要になる」
英国は同盟国だから仲裁はできない。また三国干渉のフランスやドイツはロシア寄りである。ならば、頼むところは米国しかない。
「君は米国のルーズベルト大統領と懇意であることは僕もよく知っている。戦争が始まった以上、君は米国へ赴いて、このことについて大統領とよく話し合ってきてほしい」
伊藤が望む金子の仕事はそれだけではない。日本は正貨が足りない。従って欧州や米国で日本の公債の募集販売をしなければならず、欧米の一般大衆に対する日本の人気は販売の際の重要なポイントとなる。
「是非とも米国の世論を日本の味方につけてほしい。日本は防衛のための正しい戦争をしている。そう伝えてほしいのだ」
金子は固辞した。
「その儀は固くお断りいたします。私はその器にはございません」
伊藤はため息をつくとこう返した。
「しかし君が行かなければ、他に誰が行くというのか?」
この大役は伊藤閣下クラスの人材でなければ成功はおぼつかないと金子はおべんちゃらを言い立てる。しかし伊藤は明治帝から戦争中はそばにいるようにと厳命されていた。戦争中に日本を離れられるわけもない。
「金子君、政府の中に今度の戦争で必ず勝てると思う者は陸海軍、大蔵省を含めて唯一人いない。
しかし今の状況を打ち捨てておけば、必ずやロシアは満州を占領し、朝鮮半島へ侵攻し、やがては日本列島へと押し寄せるであろう。
成功不成功はもとより眼中にあらず。ロシアが日本に攻め入れば、私は一兵卒となって鉄砲を担ぎ山陰道から北九州へと命のある限り戦い抜く。妻には粥を炊かせ、兵士をいたわらせるつもりだ」
ここまで言われては金子も断れない。
「わかりました。閣下がそのお覚悟であるならば、この金子も三寸の舌のあらん限り米国で演説し、三尺の腕の続く限り筆をもって書いて、日本の正しさを説き、ルーズベルトと日夜会談して力の限り働きましょう。金子は身を賭して君国のために尽くしましょう」
こうして金子堅太郎は日露戦争の間、米国へと赴き現地で活動することになった。
去る明治32年、日本が金本位制採用後初の外国公債をロンドン市場で募集販売した時、売れ行きは全くふるわなかった。これは当時のロンドンの投資家たちが日本という国のことをよく知らなかったことが大きな理由だった。投資家はよくわからない案件には投資しない。
末松謙澄は欧州へ
海外で日本を広く知らしめる活動は政府広報活動(GPR)の一環である。当時インベスター・リレーションズ(IR)という言葉はいまだないが、この時の金子の活動はこれに近かった。
日本のちまたでも金子は米国に金を借りにいったと理解している者が多かったのだ。
現代から見ても先進的なこの政府広報の発案者は、伊藤の娘婿、末松謙澄のアイデアであった。
読者は覚えているだろうか。是清が桝吉(ますきち)との愛の暮らしをやめて唐津へと行き、唐津の耐恒寮の閉鎖後東京へ戻ってきた時の友人である。
両国橋の水心楼に二人で遊んだ時、末松は是清と桝吉との思い出を羨み艶っぽい漢詩を詠んだ。
当時東京日日新聞に働いていた末松は、最初は強力なライバル登場と恐れていた福地桜痴(おうち)(源一郎)に認められて出世の階段を上った。当初、福地の登場に新聞社を辞めようとしていた末松に是清は、「それほどすごい人ならばいっそ弟子入りしてしまえ」とアドバイスしたのだ。
末松は福地に弟子入りし、その縁で伊藤博文を紹介してもらうとロンドンへ留学、ケンブリッジ大学で法学士、在学中は「義経=ジンギスカン説」を唱える論文『義経再興記』をイギリスで発表して、日本で大ブームを起こしたり、あるいは『源氏物語』を初めて英訳して海外に紹介したりした。
明治22年、伊藤の次女生子と結婚。続く25年第2次伊藤内閣の下で法制局長官、28年には男爵位を頂くまで出世していた。是清はペルー銀山で挫折後、日銀でよく挽回していたが、出世競争において末松には相当な差をつけられていた。
日露戦争にあたり、末松は黄色人種を警戒する黄禍論が蔓延(まんえん)する欧州にて、世論を日本の味方にするべく、日本の政府広報活動の必要性を伊藤に説いた。慧眼(けいがん)である。
伊藤が金子を呼び出したこの日、末松はすでに準備を整えて、2月10日の船便でカナダ経由で英国へと向かった。
政府の広報活動は末松が欧州を、金子が米国を担当する。戦時体制の日本政府。いまだ決まっていない役職があった。外債募集の担当者である。
(挿絵・菊池倫之)
(題字・今泉岐葉)