中国 1949年 中国文人の重い選択=辻康吾
中国の長い歴史の上で文人と呼ばれる人々が、重要な役割を果たしてきた。本来は武人と対比する呼称であり、特定の組織があるわけではないが、各時代で知性と教養を極め、詩文書画に秀で、ある者は皇帝のブレーンであり、同時に命をかけて皇帝に諫言(かんげん)をし、また体制擁護と体制批判の理論的指導者になるなど、さまざまな立場から中国の政治、社会、文化に大きな足跡を残してきた。
中国史が大きく転換した近代においても文人、あるいはその子孫である知識人たちは繰り返し重大な選択を迫られた。清朝を守るべきか、共和制をとるべきか、その後は国民党を支持すべきか、共産党に協力すべきかなど。その頂点が1949年の中華人民共和国の成立であった。台湾、香港に移るのか、あるいは海外に逃れるのか。新生中国の建設に参加するため大陸に残るのか。多くの知識人は重大な決断を迫られた。
私は、かねてから文革期の知識人の運命に関心を寄せてきたのだが、傅国湧(フークオユン)著『抉択(けったく):1949 中国知識分子的私人記録』(2010年、台湾・八旗文化)を読み、1949年にも時代に翻弄(ほんろう)される彼らの姿を見ることができた。同書は傅斯年(フスニエン)(歴史家)、胡適(こてき)(思想家)、梁漱溟(りょうそうめい)(哲学者)、沈従文(しんじゅうぶん)(作家)、胡風(こふう)(文芸理論家)などそれ以前から著名な12人の知識人が1949年というこの瞬間になにを考えていたか。それも政治化されていない日記、回想録、伝記などから、当時の彼らの真情、真意を探り、それこそが真の歴史だとしている。
その後の彼らのさまざまな歩みを紹介することはできないが、大陸に残ったもの(胡風ら)は、当初は愛国者とたたえられ、去ったもの(胡適ら)は批判されることになった。だが大陸に残った愛国的知識人もその後の胡風批判、反右派闘争で、そしてついに文革期には知識人全体が「九番目の反革命」として弾圧されるという悲惨な運命をたどった。
台湾で発行された同書の後書きによれば、2005年に中国国内で最初に出版された時には、当局によって大幅な削除と加筆が加えられ、とくに加筆の部分が著者の意向にまったく反するものであったことが憤激とともに記されている。中国知識人の苦悩はまだ終わっていない。
(辻康吾・元獨協大学教授)
この欄は「永江朗の出版業界事情」と隔週で掲載します。