教養・歴史ワイドインタビュー問答有用

山形の離島を記録=大宮浩一 映画監督、プロデューサー/793

    「助監督を務めた『ゆきゆきて、神軍』は“映画の学校”として非常に良い経験をさしてもらいました」撮影=武市公孝
    「助監督を務めた『ゆきゆきて、神軍』は“映画の学校”として非常に良い経験をさしてもらいました」撮影=武市公孝

     日本海に浮かぶ山形県の離島、飛島。この島の1年を記録したドキュメンタリー映画「島にて」が公開されている。介護福祉現場を描いた「ただいま それぞれの居場所」など多くの記録映画を手がけてきた大宮浩一監督の新作だ。

    (聞き手=井上志津・ライター)

    「あえて主人公は作らず、人々の日常を描いた」

    「映画って、そんなに人に押しつけるほど大きなものではありたくない」

    ── 山形県で高校時代を過ごしたのですね。

    大宮 生まれは岩手県久慈市ですが、父が国税局の職員だったので、小さい時から秋田、福島、仙台など東北を転々として、高校時代は山形県新庄市で暮らしました。県立新庄北高校の同級生が飛島の小中学校の先生になったので、何となく飛島のことが気になっていたところ、2019年春で学校が休校になると聞いたんです。平成最後の年ですし、卒業式までの1年、島を撮ってみたいと思いました。

    ── 飛島はどんなところでしたか。

    大宮 離島というと寂しい孤島のイメージを持たれがちですが、そうではなく、本土との行き来がちょうどいい位置にあると思いました。島から出て行く人の方が多いのは事実ですが、海水浴場に近い集落などはにぎやかな時もあります。一方、少し離れた集落は静か。グラデーション(濃淡)のある島でした。

     飛島は面積2・75平方キロ、人口が200人を切る小さな島だ。酒田港(山形県酒田市)から定期船で1時間15分の場所にある。島民の多くの職業は漁業や観光業。他の過疎地と同様、人口減少や高齢化が進むが、IターンやUターンで島に来る若者も少なくない。「島にて」はそんな島民の日常を淡々とつづりながら、人が生きていくために必要なものは何かを問いかける。

    島で唯一の中学生、渋谷新くんの後ろ姿。夏の間、飛島に来ていた友人たちを港で見送る 
    島で唯一の中学生、渋谷新くんの後ろ姿。夏の間、飛島に来ていた友人たちを港で見送る 

    ── 島で唯一の中学生が卒業するまでの1年間が描かれます。でも、彼が主人公というわけではなく、他にクローズアップした登場人物もいませんね。

    大宮 あえて主人公は作らず、登場人物はフラットにしました。テーマも、学校が休校になるというと少子化や過疎の問題になりがちですが、特にメッセージを出すのではなく、みんな、ただ正面を向いて普通に生活しているという点にこだわりました。ドラマチックではありませんが、いろんな年代の人、いろんなバックグラウンドの人に、何か引っかかってもらうシーンがあったらいいなと思います。「これを分かってください」と訴える映画ではないので、自由に感じてもらえたらうれしいです。

    ── 大宮さんの作品はこれまでも「これを分かってください」みたいに押しつけがましいものはないですよね。

    大宮 自分の好みですね。僕はあんまり映画をカッカさせたくないんです。映画をエキサイトさせたくない。怒りに任せて社会を告発するような映画もありますが、怒りのベクトルにも流行があるでしょう。そういうのに加担したくないんです。あるメッセージに向かってまい進したり、ある結論にお客さんを誘導したりする映画は苦手。映画って、そんなに人に押しつけるほど大きなものでありたくないという希望があります。

    「ゆきゆきて、神軍」参加

    ── 高校卒業後、日本大学芸術学部映画学科に進みました。映画を志したきっかけは。

    大宮 成田国際空港の建設反対闘争を記録した小川紳介監督の「三里塚」シリーズを見たことかな。ドキュメンタリー番組「すばらしい世界旅行」(日本テレビ系)なんかも好きで、映像に憧れていました。でも、入学してすぐ、ゴールデンウイークには大学をやめてしまいました。もっとアカデミックなことを学べる場所だと思ったのに、実技中心だったのが嫌だったんです。その後はアルバイトの募集が載っている大学の掲示板を、籍もないのに見に行っては、ピンク映画の撮影の手伝いをしたりしていました。

    ── 「昭和天皇パチンコ狙撃事件」で知られる奥崎謙三を追った原一男監督の「ゆきゆきて、神軍」(1987年)で助監督となります。どんな経緯で参加したのですか。

    大宮 原さんの撮影部の助手をしていた大学の同期生から電話をもらいました。僕はその頃、税理士になった父の仕事を継ごうと、新庄に帰っていたんです。当時、原さんは僕が好きだったドキュメンタリー「さようならCP」や「極私的エロス」を撮った過激な先輩監督。その原さんが、天皇にパチンコを撃った男を自主製作で撮るぞ、というだけで血が躍りましたね。いったん山形に帰った手前、東京には戻りづらかったので、「呼ばれたからしょうがねえな」という感じでまた上京しました。

    ── 「ゆきゆきて~」に参加した経験を今、振り返ると?

    大宮 もう1人の助監督だった安岡卓治さん(現映画プロデューサー)と撮影助手から照明、運転手まで全部こなしましたから、“映画の学校”として非常に良い経験をさせてもらったと思います。あの作品は撮影の後、2年ぐらい編集ができなかったんですよ。奥崎さんが撮影の後半で「人を撃つところを撮影しませんか」と言い出して。断ると、「じゃあ、今まで撮影したものを全部返せ」ってね。奥崎さんは殺人未遂の容疑で逮捕もされてしまったし、強烈な個性を持っていた人でしたけど、奥崎さんの奥さんがいつもフォローしてくれたので、僕たちは救われました。

     35歳の時に大宮映像製作所を設立。3年後、埼玉県坂戸市の民間福祉施設「元気な亀さん」に密着した「よいお年を」(宮崎政記監督)を製作した。以降も「ドッグス」「青葉のころ よいお年を2」などの企画・プロデュースを続けた。

    50歳を機に監督へ

    ── 会社を作った理由は?

    大宮 映画を作るためには法人格の方が借金しやすかったからです。博物館の展示映像やテレビコマーシャルといった日々の受注仕事を営業するためにも。

    「よいお年を」が会社として実質1本目の作品でした。自分が企画して集めたお金で作品ができたので、気持ちよかったです。この映画を作ろうと思ったのは新聞記事で「元気な亀さん」を知り、お年寄りも子供も一緒にいる「亀さん」の空間に興味を持ったのがきっかけでした。たくさんの人に見てもらったものの、大赤字でしたけどね。ドキュメンタリー映画はスタッフにギャラが出ないことが多いですが、僕は少ないながらも払いたかったので、そのせいでも製作費が膨らんでしまいました。

    トビウオ漁をやめた和島十四男さんとみよ子さん夫婦。今も残った小舟で漁を続ける 
    トビウオ漁をやめた和島十四男さんとみよ子さん夫婦。今も残った小舟で漁を続ける 

    ── 2010年、介護保険制度導入から10年を経た介護の現状を描いた「ただいま それぞれの居場所」で監督デビューしました。

    大宮 自分の企画で監督は誰がいいかを考えるのが好きだったので、自分が監督したいという希望はそれまで全くなかったんです。ただ、プロデューサーをしている時って、どうしても僕の場合は上からの振る舞いになりがちだったので、50歳にもなったし、1本ぐらい作ってみようと思いました。

    「ただいま それぞれの居場所」は10年度の文化庁映画賞文化記録映画大賞を受賞。同年には介護現場の若いスタッフの日常とトークライブを追った「9月11日」も製作。11年には東日本大震災直後に被災地の風景と人々の声を記録した「無常素描」、12年には「季節、めぐり それぞれの居場所」、13年「長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ」、14年「石川文洋を旅する」と次々と監督作品を発表した。

    ── 初監督作で賞を取って、「どうだ」という感じでしたか。

    大宮 まあ、そう思いますけど、人には言ってません(笑)。プロデューサーもしていたので、お金を使って良い映画を作りたい監督の立場と、「使いすぎじゃないの」というプロデューサーの立場とに挟まれて、酒の量は増えました。

     初監督の時、50歳の僕が介護をテーマに撮るならスタッフは同世代ではない方がいいと思い、日本映画学校(現日本映画大学)で教えていた安岡さんに卒業生を紹介してもらいました。以来、僕の作品は若い人とのコラボレーションになっています。「島にて」も若い映画監督の田中圭さんとの共同監督です。

    ── 初監督作以降はハイペースで作品を発表しました。

    大宮 映画が完成すると公開まで半年ぐらいスパンがあるんですが、その間がじっとしていられないんです。勢いで作りました。

    ── 自身の中で一貫したテーマはあるのですか。

    大宮 撮影対象としてのテーマは特にないですが、自分自身が生活者でありたいということは多少意識しています。

    「脇道にそれる」魅力

    ── 沖縄出身でベトナム戦争などを取材したカメラマン、石川文洋さんの半生を追った「石川文洋を旅する」の後、映画作りから少し離れました。

    大宮 韓国・済州島の「四・三事件」(1948年に済州島で起こった民衆の武装蜂起とその武力鎮圧にいたる事件)をテーマに撮影していたのですが、頓挫したんです。さまざまな人に会って話を聞いたりする中で、一部の島民が日本へ密航してきた経緯に思いがけず焦点が当たってしまい、自分の思いと違ってしまったから。事実は別として、自分の思いだけを伝える映画もありますが、僕は無視できませんでした。その中止が、ちょっと参りましたね。

     その後、「自分は介護の『か』の字も知らないのに介護映画を作っていたな」とか、「フラメンコにさほど興味ないのに、長嶺ヤス子さんの人としての魅力だけで撮ったな」とか、いろいろ考えて、少し反省したんです。それで、建物を解体する際のアスベスト除去作業をしにいきました。僕らはアスベストのおかげで温かい建物の中で成長することができたのだから、今は危険なものなら僕らが後始末しなければいけないだろうと。「そんなこともできないで、なんか怒ってるんじゃねえぞ」という思いもありました。

    ── その次は、老人ホームで働きました。

    大宮 フルタイムの介護職を2年間ぐらいしました。初めてのサラリーマン生活でした。そんな時に夜間保育園の園長から「映画を撮ってもらえませんか」という手紙をもらい、「夜間もやってる保育園」(17年)を作ることになりました。

    ── アスベスト除去や介護職に従事したことで自分に納得でき、自信がついたということですか。

    大宮 というよりも、声をかけてもらって単純にうれしかったんです。良いタイミングでかけてもらったと思います。老人ホームは人が足りないから、ほとんどホームに勤めながら撮影しました。

    ── 大宮さんにとってドキュメンタリー映画の魅力は何ですか。

    大宮 私の作り方に限るのかもしれませんが、撮影しているうちに脇道に出会え、その脇道にそれっぱなしになっても終点にすることができることです。普通、製作前には企画意図とか企画趣旨とかあらすじを書いた企画書を作るでしょう。私の作品はもともと企画書がないんですよ。

    ── 今後はどんな映画を作っていきたいですか。

    大宮 高校時代を過ごしただけの故郷ですが、また山形でカメラを構える場所を探して、何か作っていきたいです。両親も死んで、両親が新庄に建てた家も今作の編集中に解体したので、山形にはもう墓参りぐらいしか足が向く理由がなくなったんです。そういう意味でも山形で撮るものを探していきたい。これまでは考えもしなかったのですが、今回初めて、映画作りの中で「場」を意識しました。場所と感情ってつながっているんですね。


     ●プロフィール●

    おおみや・こういち

     1958年生まれ。日本大学芸術学部映画学科中退。93年大宮映像製作所を設立。主なプロデュース作品に「よいお年を」(96年)、「JUNK FOOD」(98年)など。2010年「ただいま それぞれの居場所」企画・製作・監督。他の監督作に「長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ」(13年)、「石川文洋を旅する」(14年)、「夜間もやってる保育園」(17年)など。

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