島に戻ったヒーロー=島袋洋奨・興南高校事務職員/794
沖縄県勢として悲願の夏の甲子園制覇、そして春夏連覇を果たしたエースが母校に戻ってきた。プロでは思い悩む日々も続いたが、自分を成長させた土台はやっぱり野球。その経験を後輩たちに伝え、指導者になる夢を描いている。
(聞き手=遠藤孝康・毎日新聞那覇支局記者)
「沖縄に育ててもらった恩返しをしたい」
「好きな野球でいろんな人から『ありがとう』と。プロでも頑張る姿を見せたかった」
── 昨年、プロ野球の福岡ソフトバンクホークスを退団し、今年4月から沖縄・興南高校で事務職員として働き始めました。なぜ母校に戻ったのですか。
島袋 指導者として、社会人として成長したいと思ったのが一番大きな理由です。昨年末に我喜屋(がきや)(優・興南高校校長兼野球部監督)さんとお会いして、そういう気持ちを伝えました。我喜屋さんからは「いろいろな道がある中で、覚悟がちゃんとあるのか」と。でも、僕は話をしにいく段階で、もう気持ちを決めていたので。
── 確かに、道はいろいろあったと思いますが。
島袋 元々、将来は指導者になりたいというざっくりとした考えがありました。プロ生活の終わりが近いと感じる中で、僕は沖縄に、興南に育ててもらったなと。だから、僕がサポートできることがあるならば協力したいと思いました。
── 元プロ野球選手が学生野球を指導するには、全国野球振興会の「学生野球資格回復研修」を受ける必要があるようですね。
島袋 僕はまだ受けていませんが、昨年度の場合は12月に研修があって、今年2月に資格を取得できたようです。新型コロナウイルスの影響でどうなるか分からないですが、今年度中に資格を取得したいと思っています。
地元の大フィーバー
── 教員免許の取得も考えているそうですが、体育の教諭に?
島袋 僕のイメージでは社会科を。体育という選択肢もあるかもしれないですが、教壇に立って教えてみたいという思いがあります。どうすれば早く取れるのか、いろいろと話を聞いて模索しているところです。
2010年、興南は史上6校目の甲子園春夏連覇を果たした。島袋さんは左腕のエースとして全11試合に先発し、相手打線から三振の山を築いた。沖縄勢としては悲願の夏の甲子園制覇でもあった。深紅の優勝旗を手に島に戻ったナインを大勢の県民が那覇空港で出迎えた。野球部には県民栄誉賞が贈られ、春夏の二つの優勝旗を展示する「大優勝旗展」が催されるなど、沖縄ではしばらく興南フィーバーが続いた。
── 高校時代の身長は173センチと、投手としては決して背が高い方ではありません。
島袋 そもそもそんなに身長とかを気にするタイプではなかったし、逆に何を生かそうということも考えなかった。だけど、2年生の時の甲子園で春、夏とも1回戦で負けて、それは僕のスタミナ不足が原因だった面があった。だから、そこだけは改善しないといけないと思って、走り込みとか投げ込み、あと、ピッチャーは同じ動作を繰り返すので、そういうトレーニングは意識してやっていました。
── 春のセンバツ決勝では日大三高を相手に延長十二回で198球を投げ抜いた。スタミナがついていたのでしょうね。
島袋 自分でもそう感じていました。やっていないとやれないので、絶対に。僕は甲子園までに準備できることは準備していきたかったので、その時も連日200球超えの投げ込みをしていました。
トルネードで三振の山
── 体をひねる「トルネード投法」で次々と三振を奪いました。
島袋 あれは元々、小学生の時の軟式野球チームの監督から「キャッチャーミットに向かってお尻でコントロールしろ」と言われたのがきっかけです。僕の中では特に「トルネード」という意識はしていませんでしたが、段々とそう言われるようになりました。
── 相手に点差を付けられていても追いつく粘り強いチームでした。
島袋 たぶん、みんなに自信があったんじゃないかな。俺たちはここまで練習してきたんだぞと。新チームになった時のテーマが「勝てるように」ということでした。一つ上の代は甲子園で勝てなかったので。その目標に向けて「今、自分たちには何が足りないから、こうしよう」とみんなで考えながらやった。その結果、負けている場面でも物おじせずにプレーすることができたんだと思います。
続いたプロ2軍生活
── 興南の活躍は沖縄の人たちを大いに喜ばせました。
島袋 県民の人たちにすごく応援してもらって。春もそれは感じていたんですけど、夏が終わって戻ってきたら、更にすごかった。僕らは好きな野球をやっているだけなのに、いろんな人から「ありがとう」と言われました。うれしかったですね。だからプロに入ってからも、沖縄の人たちに頑張っている姿を見せることができたらと思っていたんですけどね。
島袋さんはその後、中央大を経て、14年のプロ野球・ドラフト会議でソフトバンクから5位指名を受けた。1軍デビューは1年目の15年9月。対千葉ロッテ戦の中継ぎとしてマウンドに上がり、1回を無失点で乗り切った。「緊張してあまり覚えていないが、人生で一番緊張したのは覚えている」と笑う。だが、1軍登板は1年目の2試合だけで、2軍生活が続いた。
── 5年間のプロ生活はどんな日々でしたか。
島袋 常に悔しい思いばかりの5年間でした。自分から崩れるピッチングが多く、「同じことを繰り返しているな」という思い、「どうにか克服しないと」という思い……。5年間があっという間でしたね。一番の課題だったのはコントロール。最初に比べれば徐々に改善していったんですが、それでもやっぱりプロの世界で戦えるようなものではありませんでした。
── メンタルの面よりは技術的な面で課題が克服できなかった?
島袋 そこは全部つながっていたと僕は思っています。技術が良くならないから気持ちがまいってしまうし、その逆もありました。開き直るべきところを開き直れなかったという面がありましたね。みんなそれぞれ不安を持ってやっているのは同じだし、コーチや先輩からも「おまえだけじゃないよ」という話を聞いてはいたんですが、その付き合い方が僕は下手でした。
── 最後の2年は育成選手という立場で支配下登録選手を目指しました。
島袋 特に最後の年は、投げ方にしてもああだこうだ考えずに、好きな野球だし、ストレスなくやろうと考えていました。高校時代は投げることに関して何も考えてはいなかったんですよ。キャッチボールの時でも、ただ回転のいい球を遠くに投げてやろうとか、そんな感じ。
それが、大学の途中からかな、暴投になったらどうしようとか、余計なことを考えるようになってしまったんです。
自分が成長する土台
── プロは幼い頃からの憧れの舞台だったと思いますが。
島袋 誰もが経験できる場所ではないので、本当に幸せな環境にいたなと思います。みんな志が高い集団だったので、僕もそういう気持ちでやれたし、特にホークスは常勝集団なので、とてもいい環境に身を置いていたなと感じます。
── これまでの野球人生を通じて、どんなことを得ましたか。
島袋 野球では常に目標を持つことができたんですよね。その目標を達成するために何をしたらいいかを考え、その中で自分は成長してきたと思います。
例えば、中学生の時は「プロ野球選手になりたい」という目標があり、そのために「有名な高校に行って甲子園で活躍しよう」と考えていました。実際に興南高校に入学し、2年生の時に甲子園にも行けたんですが、甲子園では勝てなかった。そこで、今度は「甲子園で勝つ」のが目標になり、結果的に3年生で優勝できました。プロになってからは結果が全てなので、「とにかく1軍登板を」とずっと思っていた。自分が成長する土台が野球だったんだなと今改めて感じています。
「生まれ故郷の島なので、特別な思いがある。いつかは沖縄に帰りたいと思っていた」という島袋さん。仕事着がユニフォームからスーツに変わっただけでなく、今年1月には3年前に結婚した妻との間に長女が生まれ、パパにもなった。「お風呂やおむつ替えは基本的に僕が担当。幸せですね。家に帰って、赤ちゃんがいると」と目尻を下げる。今年はまさに島袋さんにとって大きな転機の1年だ。
── 母校に帰ってきて、どんな声をかけられましたか。
島袋 私立なので、僕らの時と先生が変わっていないんですよ。だから、「これから一緒に頑張りましょうね」と声をかけていただくことが多々ありました。学校の近くでも住民の方に声をかけられましたね。「(母校に帰ってきたことを報じた)新聞見たよ。頑張ってね」と。
変わるルールと現場
── 事務職員として、どんな仕事を担当するのですか。
島袋 入試の広報なんですよ。僕の業務は今のところ、取材を受けて興南高校の良さを発信することです(笑)。興南高校の方針は文武両道。大学進学に向けて勉強する一方で、男子ハンドボールや男子バスケットボール、剣道など全国大会に出る部活動も多いですよ。
── 高校を卒業して10年。高校野球の現場に変化はありそうですか。
島袋 指導する資格を取得するまで野球部の部員とは接触しないつもりなので、よく分からないですが、球数制限やタイブレークなど、僕の時にはなかったルールが今はある。そこは、我喜屋監督がどう思っているのか、いずれ意見を聞いてみたいと思っています。
── 将来、指導者になれば、どんな話をしたいですか。
島袋 高校時代に一番印象に残っているのは、我喜屋監督がミーティングで、人としてどう成長していくべきかという話を毎日していたことなんです。当たり前のことを当たり前にできる人間になれとか、周りに気を配れる人間になれとか。それがプレーにつながったし、今も僕の基盤になっている。僕が監督から教わったことは、僕からもどんどん伝えていきたいです。
── プロ生活で悩んだり、葛藤したりした経験も?
島袋 僕もピッチングコーチらからそういう体験談を聞いて、心の支えにしてきた。いい時ばかりじゃないので、そうなった時に僕と同じ思いをしないように、何かしらのアドバイスをしたいですね。「壁にぶつかった時にどうしたらいいですか」と聞かれたら、「そんなに深く考えることじゃないよ」と答えたい。極端に言えば「たかが野球」だし、少しでもモヤモヤが晴れるような話ができればと思います。
●プロフィール●
しまぶくろ・ようすけ
1992年生まれ、沖縄県宜野湾市出身。興南高校で左のエースとして春夏の甲子園に4回出場。3年生で出場した2010年は史上6校目の春夏連覇を達成。中央大学を経て、15年にドラフト5位で福岡ソフトバンクホークス入団。1軍登板は2試合で(0勝0敗)、19年のシーズン終了後、戦力外通告され引退。20年4月から興南高校事務職員。