週刊エコノミスト Onlineワイドインタビュー問答有用

刀に「神」を宿す=吉原義人・刀鍛冶職人/795

「40年以上、刀鍛冶をやってきましたが、一度も注文が途切れることなく、ずっと忙しくさせてもらっています」 撮影=武市公孝
「40年以上、刀鍛冶をやってきましたが、一度も注文が途切れることなく、ずっと忙しくさせてもらっています」 撮影=武市公孝

「魔よけ」「厄よけ」の神徳が宿ると言われる日本刀。最高峰の刀鍛冶職人の一人に数えられる吉原義人さんは今、神社の御神宝となる刀の制作に5年越しで挑んでいる。

(聞き手=元川悦子・ライター)(ワイドインタビュー問答有用)

「形、質感、刃紋の美しさを後世に伝えたい」

「才能あふれる息子を亡くした。孫や弟子を本物の刀を作れる職人に育てることが責務」

── 清和源氏五公を祭る兵庫県の多田神社から、源頼光が亡くなって1000年目となる2021年の記念祭に向け、国宝に指定されている日本刀「童子切安綱(どうじぎりやすつな)」のような御神宝となる刀の制作を依頼されているそうですね。

吉原 童子切は平安時代の武将・頼光が丹波国大江山の鬼、酒呑童子(しゅてんどうじ)の首を切ったと伝えられる太刀。伯耆(ほうき)国の刀工・安綱作ということで「童子切安綱」と名前が付いています。見た目の美しさも切れ味も超一流で、源氏の宝物とされてきた素晴らしい一振りです。頼光も祭っている多田神社から「童子切のような太刀を新調したい」と16年に依頼されました。すでに刀の部分は完成していて、21年の完成に向けて今は「太刀ごしらえ」と呼ばれる鞘(さや)の部分を制作している段階です。

── 現在までの手ごたえは?

吉原 太刀ごしらえは木製の鞘の上に金銀の板が巻いてあり、銀の金具が装着されるんですが、そこに源氏の家紋である「笹りんどう」の七宝焼の模様をあしらうことになっています。七宝焼は1センチ以下の小さいものから2~3センチの大きいものまで30~40個はあり、それも自分で作っています。以前は細かい部分は外注することが多かったんですが、職人さんが減ってしまい、私自身がやるようになりました。太刀ごしらえが完成して初めて仕上げに入れる。完成は来年ですが、5年がかりでほぼ全ての作業を自分でやるのは初めてなので、思い入れは非常に強いですね。

── 伊勢神宮で20年ごとに行われる式年遷宮では、「御神宝」として奉納される御太刀(おんたち)の制作にも3度指名を受けました。

吉原 これまで御神刀と式年遷宮の神事に使う鉾(ほこ)などを含め、合計30本程度を作らせていただきました。童子切もそうですが、大きな仕事を受ける時は長期計画を立てて進めています。充実した仕事をたくさんさせてもらい、本当にありがたいことだと思います。

玉鋼を何度も鍛錬

形、鉄の質感、刃紋の美しさが名刀の3条件 撮影=武市公孝
形、鉄の質感、刃紋の美しさが名刀の3条件 撮影=武市公孝

── 吉原さんが考える「名刀」の条件とは。

吉原 「形の美しさ」「鉄の質感」「刃紋の美しさ」の3条件がそろっていること。それが重要です。特に「鉄の質感」がないとダメ。金でも銀でもプラチナでも、金属は通常、質を均一にするために金属を溶かして作りますが、砂鉄を原料にした「玉鋼(たまはがね)」を熱して作る日本刀は、実は完全には溶かしません。溶かさないからこそ、鉄の質感を出すことができるんです。鉄のことを刀の世界では「地金(じがね)」と言い、地金が澄んでいてきれいな刀のことを「素晴らしい」と表現すべきだと思います。

── 加工はどのように?

吉原 玉鋼は炭素量によって違いますが、(セ氏)1400度台後半で溶け始めます。そのギリギリの温度にして不純物を除去することが大事なんです。不純物は軽い分、低い温度で早く溶け出す。こうして一つの塊になった玉鋼を金づちで何度もたたいて延ばし、折り返す。この「折り返し鍛錬」で不純物をさらにはじき出す作業を10回以上繰り返して、ようやく地金ができる。日本刀は一度も玉鋼が完全に溶けていないことが絶対条件なんです。最近はこの伝統技術に反して、玉鋼の温度を上げ切らずに、折り返し鍛錬をする人が多くなってきました。それだと不純物が残ってしまうので、刃がつかない。切れ味も本物とはかけ離れてしまう。そこは改めて強調しておきたい点です。

── そこから先の工程は。

吉原 地金を平たい棒状にし、小づちで細かくたたいて日本刀の形に仕上げていきます。ヤスリや工具で削り、研ぎ上げ、最終工程の「焼き入れ」に入ります。それが美しい刃紋を出せるかどうかの分かれ目。刀の部分に粘土を塗って模様をつけ、800度まで焼き、水の中に入れて一気に温度を下げるのがポイント。1秒で300度、3秒で常温になるくらいの急冷で刃紋が浮かび上がります。

 ただ、桜の花びらや変化に富んだ風景など、複雑な紋様は簡単にはいかない。刃紋は職人の独創性や技術が最も出る部分。「刀鍛冶の自負」と言ってもいいでしょう。満開の桜、水面や山の稜線(りょうせん)、海のさざ波など、表現するものは人によってまちまちですが、私は森羅万象を象徴するような絵柄を心掛けています。日本刀はまさに「芸術品」。機械で簡単に作れるようなものではないと分かっていただけると思います。

祖父の背中を追う

著作を通じて海外にも日本刀の魅力を発信 撮影=武市公孝
著作を通じて海外にも日本刀の魅力を発信 撮影=武市公孝

── 1本仕上げるのに必要な期間は?

吉原 刀の部分を作るだけで、早ければ2~3カ月。5~6カ月かかる場合もあります。そこから鞘や柄(つか)などを作るので、さらに時間がかかります。漆塗りの鞘を作る場合は別の職人にお願いしなければいけない。本当に細かく緻密な工程が幾つもありますし、1本の値段は数百万円と高額になりますね。注文は刀愛好家や刀好きの企業経営者などが多いですが、彼らの要望に沿って良い刀ができた時は心からホッとします。

 吉原さんは戦中の1943年、刀匠の祖父・国家さんが営む刀鍛冶の一家に生まれた。小学生の頃から玉鋼を作る際に炉の火を燃やす風を起こす「ふいご吹き」を熱心に手伝った。高校を卒業して2~3年した頃、弟の荘二さんが新作名刀展(現在の「現代刀職展」)で努力賞を受賞したのに刺激を受け、刀鍛冶の道に。 いざ作り始めると、祖父の隣にいた少年時代の記憶がよみがえった。65年に文化庁から作刀承認を得て、67年の新作名刀展で入賞。72年には高松宮賞(現・高松宮記念賞)受賞と技術に磨きをかけていく。82年には、作刀の世界で人格、力量、識見すべてに卓越しているとして、日本美術刀剣保存協会から「無鑑査」に認定された。── 祖父の国家さんが活躍した戦前は、日本刀の需要が高かったのでは?

吉原 戦時中は軍人も刀を持っていましたし、需要はかなりあったと思います。しかし、終戦からサンフランシスコ講和条約が締結され、再び刀鍛冶が許可されるまでの7~8年間は、刀を作ることが許されなかったんです。祖父は鉄工所を経営し、包丁や鉈(なた)などを作って生計を立てていました。私も高校を卒業してしばらくは刃物鍛冶の仕事で、バールや釘抜きをメインに製造していました。刀は「いつかは手掛けるかもしれない」とは思っていたけれど、本気で取り組んではいませんでした。

── 弟さんに先を越されたことでスイッチが入ったわけですね。

吉原 確かに(笑)。子どもの頃に見よう見まねでやっていたことが自然に身についていたのか、すぐに作れるようになりました。もちろん、勉強もしましたよ。当時は毎週日曜日に刀の勉強会があって、日本刀を研ぐ人、鑑定人、刀屋さん、研究者なんかが集まっていたんです。評価の高い日本刀を見比べながら、何がいいのか悪いのかを話し合ったりしてね。まあ半分は飲み会ですが、そういう勉強会がいくつもあって、暇さえあればはしごしました。

── 刀鍛冶職人として一本立ちしたのは?

吉原 高松宮賞をもらった直後の30歳の時です。24歳ごろから賞を取り始めましたが、当時は鉄工所でバールや釘抜きも作っていました。そんな時にオイルショックが起きて材料費が急騰し、経営的に苦しくなってきたんです。「刀鍛冶として本物の仕事がしたい」という意欲も高まっていたので、思い切って刀一本で行く決心をしました。高松宮賞のおかげで注文も入ってきましたし、生計を立てられるようになった。今、考えれば、かなり順調だったと思います。

── 海外の顧客も増えているんですよね。

吉原 はい。75年にアメリカで開かれた日本刀愛好者の会合に参加したのが最初でした。その縁で80年にダラスにある大学構内に日本の鍛錬所を再現し、刀作りの実演を行ったんです。2カ月ほど現地に滞在して、完成させた刀に美術関係者が興味を持ち、メトロポリタン美術館から「買い取りたい」と申し出がありました。驚きましたが、うれしかったですね。

 その後、サンフランシスコとシアトルの友人宅に鍛錬所を作り、年に一度は実演などを行ってきました。海外の展示会にも参加するようになり、日本刀の書籍を外国語版で出版もしています。今ではお客さんの半分を外国人が占めるようになりました。日本の歴史や文化に詳しくない彼らの方が、素直に美しい刀を選んでくれます。

「宝物」の重み

 長年、蓄積してきた刀作りの高度な伝統技術をいかにして後世に伝えていくか。それは吉原さんにとって大きなテーマだ。祖父から自然と学べる環境にあった吉原さんは、長男の義一さんに刀鍛冶としての哲学を一からたたき込み、一本立ちさせたが、義一さんは18年にがんで急逝。悲しみに打ちひしがれた。それでも「本物を教えたい」という思いは変わらず、今は5人の弟子と19歳の孫・慧(あきら)さんの育成に情熱を傾けている。── これまで、お弟子さんは総勢何人ぐらいになりますか。

吉原 20人ぐらいです。時代劇や展覧会で刀に興味を持った者、私のことを知って訪ねてきた者、大学の工学部や美術学部出身者などいろんな人間がいました。ただ、弟子は一度に5人までしか取らないと決めています。大勢いても、細かいところまで教えきれないですし、金額的な負担も大きいからです。弟子は無給ですが、玉鋼や炭などの材料費はこちらの負担。玉鋼は1キロ当たり1万円ほどしますし、炭も1俵3000円程度。玉鋼から地金を作る折り返し鍛錬だけでも炭を5~6俵使うので、相当なコストが掛かるんです。

 彼らが一人前になるには最低5年は必要。高卒で来た人は23~24歳になって、ようやく刀鍛冶として仕事ができるようになる。それだけの地道な努力が求められます。中にはアルバイトをしながら懸命に通ってくる弟子もいて、その努力には頭が下がります。

── 無鑑査となっている現役の刀鍛冶は現在、吉原さんを含め17人です。

吉原 私と弟、息子の義一、弟子数人も無鑑査に到達しましたが、息子は亡くなってしまった。相当に才能ある刀鍛冶だったし、その頃は息子と2人だけでやっていたので、大きな痛手でした。その後、弟子を取り、19歳になった孫も1年前から修業を始めました。本物の刀を作れる職人に育てることが、息子から私に託された責務だと考えています。

── なぜそこまで刀に魅せられるのですか。

吉原 日本では刀は最初、武器ではなかったと言われています。弥生時代ごろに中国の皇帝から日本を治める権力の証しとして授けられたのが始まり。そこから「宝物」として扱われるようになり、日本の歴史の要所要所で必ず用いられてきました。三種の神器の中にも草薙剣(くさなぎのつるぎ)が入っていますし、徳川家康といった歴史上の人物たちも一番大切にしたものです。

 その重みを感じているからこそ、「もっともっと、良いものを作りたい」と意欲が湧いてくるんだと思います。長い長い伝統を、刀鍛冶の一人として残していかなければなりません。今は77歳ですが、正統な技術と作り方を後世に伝え、日本の伝統文化を守っていけるよう、頭も体も元気にしてこれからも努力を続けていきます。


 ●プロフィール●

よしはら・よしんど

 1943年、東京都葛飾区生まれ。幼少期から祖父の国家さんを手伝い、刀鍛冶の基礎を学ぶ。高校卒業後は刃物鍛冶に従事していたが、刀鍛冶の道へ進む。67年に新作名刀展(現在の現代刀職展)に初入賞、72年には最高賞の高松宮賞(現・高松宮記念賞)受賞。82年には「無鑑査」となった。伊勢神宮の御神刀の指名を3度受け、米メトロポリタン美術館で作品展示されるなど、海外からも注目される存在。日本刀鍛錬道場代表。

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