芸人の政治的発言が叩かれる日本でそれでも社会派講談を演じる理由=神田香織(講談師)/796
強きをくじき弱きを助け、ひどい目に遭った人たちの“無念”を語り続けて40年。粋な和服で現れいでたる反骨の講談師、縦横無尽に講談の魅力を語り、まやかしのご政道を舌鋒(ぜっぽう)鋭くぶった切る。パパン、パン!(問答有用)
(聞き手=大宮知信・ジャーナリスト)
「日本では芸人の政治発言はタブー。それでは世の中がいつまでもよくなりません」
── 新型コロナウイルスの感染拡大で世の中が大混乱しています。講談の世界にも影響はありますか。
神田 4月18日に予定していた「神田香織一門会」が延期になっちゃって、5月、6月の公演まで全部キャンセル。突然ヒマになっちゃったから、新しい講談の研究をしています。私の出身地、福島県のラジオ福島の番組で2018年4~9月にやった「講談・会津戊辰(ぼしん)物語」の見直し作業などです。
── コロナ禍で芸能関係者も収入が激減しています。これから先、どうなるのでしょうか。
神田 どうしましょうかね……。3月24日に東京五輪・パラリンピックの延期が決まった途端に、それまで黙っていた東京都の小池百合子知事が突然、ロックダウン(都市封鎖)の懸念を強調し始めた。それから流れが変わり、安倍晋三首相が4月7日に緊急事態宣言をしたでしょう。講談師も落語家もコロナ禍が明ける時には、何人か辞めてるんじゃないかしら。
私がその中に入らないとも限りません。コロナ対策の給付金も最初は減収の世帯に30万円と言っていたのに、一律1人10万円になっちゃった。あれはショックでした。残り20万円どうしてくれるのよ。一門会は10月10日に延期することになりましたが、その10月もできるかどうか分からないですよ。
── 今回のコロナ騒動では、社会のさまざまなひずみも浮き彫りになりました。
神田 一人ひとりが生き方を考えさせられますよね。やっぱり日本はいまだに明治政府の流れを引きずっていて、戊辰戦争以降の妙な流れが増長してきているんだなと。いわゆる長州勢にいまだに東北はさげすまれているところがあって、太平洋戦争の時は兵隊の供給地。電力も東京のための供給地になっています。
福島選出の国会議員も安倍首相に忖度(そんたく)している。私の出身高校(県立磐城女子高校、現県立磐城桜が丘高校)の後輩の森雅子法相もそうだし、森友学園問題で文書改ざんを主導した佐川宣寿元国税庁長官も福島県いわき市の出身。なぜ地元の優秀な人たちが、自分たちの正義を曲げてまで安倍さんに忖度しなきゃいけないのかと、それを問うような講談を4月18日にやる予定だったんです。
戦争、冤罪、原発……重たいテーマばかり演じるワケ
講談は落語や浪曲と同様に江戸時代から続く伝統芸の一つ。張扇(はりおうぎ)を釈台に打ち付けて調子を取りながら軍記物や政談などを語るが、終戦とともに忠臣蔵などあだ討ちや忠孝ものが上演を禁止されて衰退。その後、テレビが普及したこともあり、衰退に拍車を掛けたが、最近は六代目神田伯山さんらの活躍などで再び人気を盛り返している。
神田香織さんは「社会派講談師」として、切れ味鋭い語り口で、戦争、冤罪(えんざい)、原発などの社会テーマを扱ってきた。1986年に「講談はだしのゲン」で第8回日本雑学大賞を受賞。郷里の福島県に残る民話や伝説の掘り起こしにも取り組むほか、ジャズの生演奏と一緒に披露する「ジャズ講談」や、照明や音響を使って一人芝居のように語る「立体講談」など新たなスタイルにも取り組む。
── 最初は舞台俳優を目指したそうですが、講談師になったのはなぜですか。
神田 練習のつもりで講談を習い始めたんです。講談は声を出す芸だから、ものすごく役に立つ。それまで講談って知りませんでした。(講談師の)神田紅さんが作っていた女性3人のグループから1人辞めちゃったので、「代わりにあんたどう?」って誘われたのがきっかけ。その後、私が単独で二代目神田山陽の正式弟子になって、講談協会に所属して講談をやるようになりました。
── どんな修業があるのですか。
神田 最初は古典の短い話から始めて、声の出し方、この音から出て次はこの音、ここで半音下げる、ここで高い声を出すとか、それは厳しいものです。多くの講談師が最初に習う「軍談修羅場調子」といって、講談師にとって必要な大きな声、調子、緩急、呼吸、体力を養うのに必要なんです。あと「歌い上手」といって朗々と声を出すという基本も。耳を鍛えて、耳で聞いた声を出すという訓練を繰り返します。
── 行儀や作法の修業も厳しそうです。
神田 師匠や先輩のお茶をいれたり着替えを手伝ったり、寄席の準備をしたり。自分の方からさっとできるような気働きも教わり、口も対等にきいてはいけない。適当な受け応えをすると、生意気だと言われます。世の中から忘れ去られたような仕事ばかりで、「報われるんだろうか」と悩みましたが、一緒に始めた仲間が頑張っているから、私も辞めないで頑張ってやろうと。
サイパン旅行で知った「バンザイクリフ」に衝撃を受ける
── 社会派的なテーマをやるようになったきっかけは?
神田 二つ目になった時、一緒に講談を習い始めた仲間と、84年ごろにサイパンへ旅行に行ったことですね。多くの日本人が身を投げた断崖「バンザイクリフ」に行ったり、戦車を見たり。ここで玉砕があったことを改めて感じ、崖に追い詰められて飛び降りる時、どんな気持ちだったんだろうとか、そんなことをいろいろ考えるうちに、「そうだ、戦争をしゃべらせてもらおう」とひらめいたんです。
日本に戻って戦争の題材を探している時に、広島市の原爆資料館で中沢啓治さんの漫画『はだしのゲン』を見ました。この作品は子どもが主役で、大変な目に遭うけれど、たくましく元気に生きている。講談として伝える作品にふさわしいと思い、86年の1月か2月ごろ、中沢さんの許可を得ようと台本を作りました。それから30年以上、立体講談としてやり続けています。
── 神田さんの芸風に対して、師匠は何と?
神田 「君は毛色が違うから」と言っていましたが、応援してくれましたよ。講談はどんな思想であっても関係ないし、古典と新作は車の両輪。何をやろうと中身は自由なんです。ただ、講談は勢いがあって説得力もあるので、かつては戦争を美化するために利用されちゃった。「死んでもラッパを放しませんでした」という美談にはもってこいなんですね。でも、それほどの話芸だったら、逆に戦争をしないために利用すればいい。
── 86年のチェルノブイリ原発事故を扱った講談もやっていますね。
神田 ノーベル文学賞を(15年に)受賞した(ベラルーシのジャーナリスト)アレクシエービッチさんが、チェルノブイリ原発事故の被災地を取材して書いた『チェルノブイリの祈り』(98年刊)が基です。当時の日本では原発は安全だと思っている人がまだ多かったので、日本でも事故が起きたという仮定の話をくっつけて語っていました。それが、11年に福島第1原発事故として現実になり、私自身もかなりショックでした。
── 社会派講談師としての自分をどう考えていますか。
神田 私は「はだしのゲン」以来、権力側ではなく庶民の側に立ってやろうと決めています。もちろん、権力側のお話をやる人もいるし、そういうお話の中には良いのもあり、私も古典としていくつかネタを持っています。でも、私ならではといえば、やっぱり庶民の側、ひどい目に遭った側の無念さを代弁していくこと。そういう人たちの気持ちに想像力を働かせていけば、必ずこの世の中は住みやすくなっていくと思っています。
── 反発する人もいるのでは。
神田 そういう人たちは私を呼ばないですよ。いろいろ言ってくる人もいますけど、相手にしない。つまんない人にかまっているヒマはない。何かいちゃもんを書いてくる人もいますが、そういう人にはご苦労様という感じ。
昨年11月、ジャーナリストの斎藤貴男さんや神田さんらが加わる市民団体「税金私物化を許さない市民の会」の一人として、安倍首相を東京地検に刑事告発した。「桜を見る会」に関わる首相の一連の行動が、公職選挙法および政治資金規正法に違反している疑いがあるとの内容だ。武内暁(さとる)共同代表らとともに、司法記者クラブで記者会見にも臨んだ。
芸能人の政治発言が炎上する中、なぜ声を上げるのか
── 芸能界で政治的発言はタブーとされてきましたが、最近はいろんなタレントやお笑い芸人らが、忖度することなく声を上げるようになりました。
神田 でも、テレビに出るような人たちは、大体は声を上げませんね。昔は芸人が政治的な発言をするのは当たり前だった。それが風通しの良い世の中ということです。外国はみんなそうじゃないですか。有名タレントやスターがどんどん発言しています。
── 日本では政治的な発言をすると“ネット炎上”したり、芸能界から干されたりします。
神田 それでびびるようなら、発言しなきゃいい。権力を批判することで救われる庶民もいますからね。そういう庶民の声を自分が代弁していると思えば、やりがいがあります。芸能界は体制派から反体制派へ変わるいい機会ですよ。
── 14年に『3・11後を生き抜く力声を持て』(インパクト出版会)を出しましたが、「力声」って何ですか。
神田 私の造語で「ちからごえ」と読みます。お腹の中からうわっと力のある声を出すこと。生きていくうえで、声を鍛えながら考えをまとめていく。人前でしゃべるには自分の中に起承転結がないとダメで、最後に締めるオチまで考えるから、講談をやると脳トレにもなります。おのずと健康にも気をつけるようになるし、食べ物も気をつけて心身ともに鍛えられる。しかもお金がかかりません。
── 講談教室「香織倶楽部」も開いています。
神田 はい。プロの弟子は神田織音、神田伊織の2人だけですが、アマチュアの生徒はけっこういます。5、6年前からはインターネットのビデオ通話サービスを使って、山形県や北海道の人たちにも教えています。教室は東京・本郷3丁目でやっていますが、授業の後の飲み会を目当てに教室へ来る人もいます。冤罪などをテーマにした新作を作ってきたり、古典が好きな人は古典ばかりやったりしている。けっこう面白いですよ。
── これからどんなテーマに挑戦していきたいですか。
神田 東北の人に誇りを取り戻してほしいんです。もともと誇り高い東北の人が、戊辰戦争で打ちのめされてすっかり自信を失ってしまった。けれど、例えばいわきの出身者には地元の人でも案外知らないすごい人がいるんです。磐城平藩主で幕末に老中にもなった安藤対馬守は、仕事がすごくできる人だったので薩長派に煙たがられ、引退に追い込まれていわきに戻ったところで戊辰戦争になりました。
また、「東洋の製薬王」とまで呼ばれた星製薬の創業者、星一(はじめ)もいわきの出身。彼はそれまで輸入に頼っていたモルヒネを国産化して「東洋の製薬王」と言われましたが、当時製薬業界を所管していた内務省の官僚から企業活動を妨害され、いじめを受けた。それでも人に親切にすることを信条に、人のためにどんどんお金を使い、あの野口英世とも友達でした。その生き方がすごく新鮮で、新作にしたいな、と。勝者の話はたくさん残っていますが、そうじゃない人もいたことを伝えたいですね。
(本誌初出 「ご政道」にモノ申す=神田香織・講談師/796 2020・6・16)
●プロフィール●
かんだ・かおり
本名・武谷光子。1954年、福島県いわき市出身。1973年 磐城女子高校卒業後、二代目神田山陽の下で修業、89年12月に真打ち昇進。代表作は「はだしのゲン」「チェルノブイリの祈り」、ジャズ講談「ビリー・ホリディ物語」など。2001年の参院選に福島県選挙区から社民党推薦で出馬し、次点で落選。NPO法人「ふくしま支援・人と文化ネットワーク」理事長。