沖縄の「秘密戦」を記録=三上智恵 映画監督、ジャーナリスト/797
第二次世界大戦末期の沖縄戦をテーマにしたドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」(2018年)を監督した三上智恵さん。同名の『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書)をこのほど出版した。
(聞き手=井上志津・ライター)(問答有用)
「つらい記憶のふたを開けた責任がある」
「軍隊が勝つための作戦と住民を守るための作戦は一致しないのが戦争の構図」
── 750ページ余に及ぶ『証言 沖縄スパイ戦史』には映画には盛り込まれなかった新たな証言も数多く収録されています。いつごろから本にまとめようと思いましたか。
三上 映画「沖縄スパイ戦史」の撮影中から本にしたいと思っていました。沖縄戦は沖縄守備軍・牛島満司令官の自決で1945年6月23日に終わり、民間人を含む20万人以上が犠牲になりましたが、映画はその後も北部で続けられた「秘密戦」の実態を描いたものです。映画には時間の制約があり、証言者一人ひとりを追うことはできないため、集団の記録として構成しましたが、皆さんのライフストーリーを聞き取った者の責任として、絶対に本として書き残さなければいけないと思いました。
── 映画に出ていない人の証言もありますね。
三上 本に掲載した証言者31人のうち10人は映画に登場していません。追加取材も重ね、第1章の元「護郷隊(ごきょうたい)」のおじいちゃんたちの証言だけでも300ページ以上になりました。執筆期間も、最初は3カ月の予定が1年半かかりました。
「秘密戦」とはスパイを使って敵の情報を入手したり、身内から情報が漏れる=スパイが出ることを防いだりする、正規軍がやらない「裏の戦争」のことだ。映画は秘密戦や遊撃戦と呼ばれるゲリラ戦の中で、主に日本軍が沖縄の住民に対して行ったスパイ視や虐殺に目を向けた。
「スパイリスト」工作
── 映画「沖縄スパイ戦史」を作ることになったきっかけは?
三上 1作目の「標的の村」(2013年)と、続く「戦場(いくさば)ぬ止(とぅどぅ)み」(15年)は辺野古新基地と高江ヘリパッドの建設に抵抗する人々を記録しました。3作目「標的の島 風(かじ)かたか」(17年)では、それに加えて15年から与那国、宮古、石垣島など南西諸島に自衛隊の新しい基地計画が進んでいく状況を描きました。攻撃能力を備えた自衛隊の配備は、今や沖縄だけではなく日本列島全体が対中国戦略の米軍の防波堤にされていることを意味します。なのに、映画を見た人の反応の多くは「沖縄は大変ね」というものだったんです。とかく自衛隊というと合憲だ、違憲だとイデオロギーの話に矮小(わいしょう)化されてしまう面もあり、この「鈍感の壁」をもどかしく感じていました。
そんな時、自衛隊の情報機関が反対派住民の情報を収集し、リスト化していると聞いたのです。それって沖縄戦の「スパイリスト」の再来じゃないかと愕然(がくぜん)としました。でも、その話を周りにしても反応が薄い。知られていないんですね。それで4作目のテーマは沖縄戦にしよう、戦争の仕組みを知らせようと決め、「風かたか」の公開後、すぐに動き出しました。
米軍の沖縄上陸が迫っていた44年晩夏、42人の青年将校らが沖縄各地に潜伏した。軍事諜報(ちょうほう)員の養成機関「陸軍中野学校」の出身者たちだった。任務は本土決戦までの時間稼ぎのため、沖縄の守備軍が壊滅してもゲリラ戦を展開すること。14~17歳の少年たち約1000人をゲリラ部隊「護郷隊」に召集し、敵の食糧庫や弾薬庫の夜襲や、特殊兵器を使った爆破などをさせたほか、マラリアで恐れられた西表島への波照間島民の強制移住、地域の有力者による住民監視組織の結成など、さまざまな秘密工作を行った。
── この工作の一つが「スパイリスト」ですね。
三上 44年1月作成の「遊撃隊戦闘教令(案)」や米軍が押収した日本軍の「秘密戦に関する書類」を見ると、秘密工作はみなマニュアル通りに行われていたことが分かります。「遊撃隊戦闘教令(案)」はこう書いています。「遊撃戦遂行の為特に住民の懐柔利用は重要なる一手段にして我が手足の如く之を活用する」……。住民同士を監視させ、日本軍を批判している人はいないか、外国語が上手な人は誰かなどを探し、スパイとして密告させました。恐怖と疑心暗鬼の中、スパイと疑われて虐殺された住民は、数百人とも1000人ともいわれています。
── スパイリストによる住民虐殺については、番組制作のため09年にすでに取材していたものの、公開を保留にしたそうですね。
三上 当時は関係者が健在だったからです。小さな村ですから、誰の密告で誰が殺されたか、分かっているんですよ。大事なのは関係者の罪を問うことではなく、軍隊が勝つための作戦と、住民を守るための作戦は一致しないという戦争の構図を示すこと。多角的に描かないと、「沖縄の少年兵や住民が虐殺に関わっていた」などとセンセーショナルな部分だけが内地のメディアに取り上げられるのもいけないと思いました。
加害者になる心の動き
── リストには18歳の少女も載っていました。その中本米子さんは映画にも登場しますが、本書では映画で語らなかった告白をしているのが衝撃的です。
三上 映画完成後にお会いした時に、急に語り始めたんですよ。撮影中は隠していたのではなく、つらい記憶だから封印していたのだと思います。私のある質問をきっかけに、記憶のふたが急に開いてしまったようでした。私は残酷なことをしているのではないかと、動揺したのを覚えています。
── 本土決戦に向け、岐阜で少年兵を訓練していた中野学校関係者も初めて登場しています。
三上 現在98歳の野原正孝さんです。公開後、岐阜新聞を通じて連絡が取れました。「住民は兵器の一つで消耗品だった」と言い切り、「ゲリラの教官だったことは誰にも話してこなかったから、話せてよかった」とも言ってくれました。ただ、出版後、野原さんから手紙が来たんです。「あの当時、国のため、天皇陛下のために尽くしたことに後悔はありません。でも、あなたのような広い知見を持って、このような本にまとめられた歴史としてみた時に、一抹のわびしさを感じます」と書いてありました。
野原さんは今も自分が中野学校の一員だった誇りを持っているんです。今回、米子さんの告白からも分かりましたが、もちろん戦争は悪であっても、自分の青春時代を全部否定的にとらえたくはないですよね。楽しかった時間もたくさんあったはず。でも、「あの時代は大変だった」以外の話は、これまで耳を傾ける人がいなかったし、あまり話さないまま来たのかもしれません。
野原さんは中野学校の面白い裏話もたくさんしてくれました。だから、できればもう一回、劇映画などにして野原さんが喜ぶものを作りたいなと思っているのですが……。
── 「虐殺者」の面だけではない将校たちの人間性も描いています。
三上 護郷隊の隊長は戦後、戦死した全ての部下の家を回り、仏壇に手を合わせました。慰霊祭にも死ぬまで出席しました。これまで私は住民側の目線でずっと取材をしてきましたが、彼らに課せられた任務を知るにつれて、狂ったシステムの中で加害者になる人の心の動きが理解できるようになりました。初めて兵士の立場で考えられるようになったと思います。
── 証言を世に出すことで取材相手を傷つけてしまうのではないかという葛藤は?
三上 それは常に苦しんでいます。でも、誰も傷つけたくないのなら、ジャーナリストなんかやるべきじゃない。取材相手には「三上さんの作品でひどい目にあったけど、三上さんは憎めなかったな」と思ってもらえるように、その後も通い続けるようにしています。
── 12歳の時に家族旅行で初めて沖縄を訪れたのですね。
三上 強烈なカルチャーショックを受けました。家のような形のお墓も、本土とは異なる言語も不思議でしたし、南部戦跡や平和祈念資料館には沖縄の思いが詰まっているのを感じました。旧満州(現中国東北部)から引き揚げた経験を持つ祖母の話を聞いて育ったからか、もともと戦争には興味のある子どもでしたが、以来、沖縄のことが頭から離れなくなりました。大学では宮古島に通ってシャーマニズムを研究しました。ユタ(巫女)さんから「あんたの背後には草の冠に白装束を着けたおばあがたくさんいる」と言われたことが何度もあるんですよ。
「自分のこと」だから
── 草の冠?
三上 草冠は祭祀(さいし)をつかさどり、神女と呼ばれる女性たちが身に着けるものです。だから、ひょっとして神に仕えながら島を守る役割の人たちから、島を守るよう使命を与えられているのかなと思っています。
三上さんは毎日放送(大阪市)でアナウンサーをしていたが、95年に開局した琉球朝日放送(QAB)へ開局と同時に転職。QABではキャスターを務めながら、ディレクターとしても「海にすわる~辺野古600日の闘い」(06年)、「英霊か犬死か~沖縄から問う靖国裁判」(11年)など多くのドキュメンタリー番組を制作した。
── 当時1歳だった息子さんを連れて沖縄に移住したのですね。
三上 航空会社に勤める父がその前に沖縄に転勤していて、両親が夜も息子を見てくれたので、思う存分仕事ができ、楽しくて仕方がなかったです。夫とはそれ以来、別居婚になりましたが。
── 95年には米兵による少女暴行事件が起きました。
三上 彼女を忘れた日はありません。彼女は二度と同じような犠牲者を出したくないという一心で事件を公にしたのに、普天間飛行場の返還が発表された時、私たちは「県民の怒りが普天間を動かした」と報道してしまいました。辺野古が面する大浦湾に米軍基地を作る計画は60年代からあり、それをこの機を利用して日本に作らせるというカラクリに気づいてなかったのです。
それが悔しくて、古い基地を返す代わりに新しい基地を日本の税金で作らせるという欺瞞(ぎまん)を伝えなければと、がむしゃらに走ってきました。沖縄の人から今も時々、「内地から来たのに沖縄のことをやってくれてありがとう」と言われますが、私は自分のことだからやっている感じなんですよ。
── QABの番組「標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち」が映画化された後、QABを退職したのはなぜですか。
三上 QABでは19年間、ニュース番組でキャスターを務めてきましたが、局からは管理職として裏方に回るよう言われていたんです。私は現場の方が向いていると反論し続けましたが、限界でした。直接言われたことはないですが、キャスターの主張が「反基地」すぎるのも問題だったと思います。何のあてもなく、どうしようと思っていたら、「標的の村」を応援してくれた人たちが「お金を集めるから取材を続けて」と言ってくれ、2作目につながりました。
── 今後も映画監督を?
三上 私は二度と沖縄を戦場にしないためにという思いでやっているので、映画にはこだわりません。人の人生を活字で再構成する楽しさを知ったので、沖縄戦をテーマに、また本を書きたいかな。
この本は証言者の話し声が聞こえてくるようでしょう。たくさんの人に証言者のおじいちゃんたちに会ってほしくて、黒砂糖とお茶を出して仏壇の前で話してくれる様子をそのまま表現するよう心がけました。この本は分厚いので、1ページ目から読まなくてもいいですよ(笑)。たまたまその日、開いたページに出てくる人の証言を読んでほしい。その人と出会ってもらえたらうれしいです。
●プロフィール●
みかみ・ちえ
1964年東京都生まれ。87年成城大学文芸学部を卒業し、アナウンサー職で毎日放送入社。95年琉球朝日放送(QAB)開局と同時に入社。2003年沖縄国際大学大学院修士課程修了。キャスターを務めながらドキュメンタリーを制作。初監督映画「標的の村」(13年)でキネマ旬報文化映画部門1位など数々の賞を受賞。14年独立。「戦場ぬ止み」(15年)など次々と手がける。著書に『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)など。沖縄県読谷村在住。