「日本人は西洋コンプレックスが強すぎる」グラミー賞を3度受賞した日本人レコーディングエンジニアが語るアメリカ=八木禎治(SADAHARU YAGI)/798
米国ロサンゼルスで音楽エンジニアとして活躍する八木さん。だが華やかなアメリカンドリームも泥臭い努力の日々の積み重ねだった。
(聞き手=春日井章司・ジャーナリスト)(問答有用)
「本番一発勝負の世界でプロの力を蓄えました」
「音楽のうまい下手でなく、汗だくで心を伝えられるミュージシャンを育てたい」
── 2014年に米音楽界の最高の栄誉グラミー賞のベストラテンポップアルバムを受賞。昨年は2度目のラテン・グラミー賞を獲得しました。周囲や生活は変わりましたか。
八木 周りはともかく、自分たちは基本的に変わりません。仕事仲間は「君もやっとチームに入ったね」という感じです。彼らもみんな“グラミー賞仲間”なので(笑)。
── ラテンミュージシャン、ドラコ・ロサのアルバム「VIDA」で、芸術的功績などが評価されての受賞です。アコースティックで美しいスペイン語のメロディーが印象的です。どんな作品ですか。
八木 ドラコが当時、がんと闘病しながら作り上げたこともあり、その苦しみを繊細に表現した内容になっています。自分は制作スタッフの一人ですが、自分にとってはラテン音楽のグルーヴ(ノリ)を肌で感じながら全力投球した、達成感のある作品でした。
ヒスパニックが席巻
「VIDA」はスペイン語で「人生」という意味。1969年に米国で生まれ、プエルトリコで育ったドラコの20年の人生を振り返り、自身の作品を編曲して16曲をセルフカバーしたアルバム。ドラコはがんの治療中だったこともあり、スタジオに現れるなりソファに直行することもあったが、リッキー・マーティンやホセ・フェリシアーノらラテン音楽のトップアーティストとデュエット。「レコーディングでは踊って楽しむことができ、生きる喜びを感じた人生最高の充実した日々だった」と回想している。
── 今の米国の音楽シーンはどんな潮流なんですか。
八木 80年代から音楽はラテン音楽のシェアが大きくなっています。かつてのグラミー賞は白人と黒人の幅広い音楽が中心で、ジャズ、ゴスペル、ブルース、カントリーなどでしたが、80年代以降の米国はヒスパニックの音楽がマイノリティーではなくなりました。ヒスパニック人口は5000万人を超え、全人口の15%ほどに激増しており、とりわけカリフォルニア州では白人を抜く勢いです。それとともに音楽シーンでも00年にラテン・グラミー賞が創設されたほどですから。
── ラテン音楽とは?
八木 ラテン音楽は裾野が広く、ラテンポップ、ラテンロック、ラテントラディショナル、ラテンソウル、ラテンジャズなど、さまざまなジャンルに細分化されるので、ひとまとめにはできません。20年ほど前から大御所のサンタナに加え、リッキー・マーティンたちが有名になり、ブラックミュージック(黒人音楽)と肩を並べるようになりました。
── 八木さんがラテン音楽に出会ったきっかけは。
八木 もともと接点はありませんでしたが、スタジオ・エンジニアとしての仕事の依頼がたまたまラテン音楽のスタジオだったのです。そのつながりからの縁です。
── 一流ミュージシャンとの仕事はプレッシャーが多いですね。
八木 ドラコとの仕事は大変でした。彼は繊細なので、その場の精神状態を読みながら音作りをしないといけない。ミュージシャンはエンジニアではないので、彼の語るビジョンを共有して酌み取らないと音作りはできません。
ドラコは人生論や色やイメージなど抽象的なメッセージが多く、しかも言うことがよく変わるんです。例えば、彼に「ブレードランナー(映画のタイトル)でやろう」と言われても、それがサウンドを指すのかビジュアルのことなのかわからない。彼を理解するには、映画などを自分で勉強しておかないと意味がわかりません。米国ではエンジニアリングとプロデューシングは立場が近く、マイクやキーボードのセッティング以前にエンジニアとしてミュージシャンを理解しないと信頼されません。
ドラコに鍛えられた
── エンジニアの技術以前に必要なことがあると。
八木 朝、あいさつもなくスタジオに入ってきて、突然演奏を始めることがあるんです。そんな時でも、機材のセットアップをしていないと気まずい空気が流れ、「お前はバイブキラー(クリエイティブな雰囲気を台無しにする野郎)だ」って嫌味を言われるんです。音作りに一番大事な空気感と雰囲気を台なしにしたというわけです。マネジャーからも「常にスタンバイして対応するのが当然」と言われました。驚きましたが、文句を言ってもだれも共感してくれない。それがアメリカ的なところなんです。
── ドラコと付き合うのは大変なんですね。
八木 でも、そういう激しいドラコのメンタリティーと無我夢中で向き合って音作りを経験したおかげで、以後の仕事はコミュニケーションが楽になりました。またドラコとの仕事がトレーニングになって、ほとんどのミュージシャンにも対応できる自信がつきました。日本人は真面目なのでトレーニングは練習の場でしますが、米国では本番の中でトレーニングさせられる。ミュージシャンもエンジニアも、本番という嵐の中で実力を発揮できないとダメなんです。
英語で苦労したバイト時代
高校生時代は友人とバンドを組んでドラムを担当したが、「現実逃避の落ちこぼれだった」と言う。それでも米国の音楽に憧れ、素晴らしい音楽を創作する仕事に就きたい、とレコーディング・エンジニアをめざして一念発起。「人生で一番努力して」2浪の末、九州芸術工科大学(当時)音響設計学科に入学。卒業後は就活をせずに05年に渡米した。
── 大学ではどんな勉強をしたのですか。
八木 レコーディング・エンジニアとしての音楽を学びたかったのですが、入ってみるとコンサートホールの設計や高速道路の騒音防止対策など、産業分野の研究がメインでした。それでも音響知識を包括的に学ぶことはできました。
── 卒業後、就職せずに渡米したきっかけは?
八木 大学が自分の目指す方向性とは違うと感じ、母親に「やめる」と言ったら止められました。それでもレコーディング・エンジニアの夢を捨てきれず、卒業後はカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に留学しました。選択肢としては大学院かエクステンション(社会人向け公開講座)だったのですが、学位は欲しくなかったのでエクステンションに入学しました。合法的に米国に滞在できる手段はそれしかありませんでした。
── どんな生活でしたか。
八木 エクステンションでは1年間、レコーディング・エンジニア・コースで音楽を学びましたが、就職のメリットはありませんでした。ただ、講師が現役の音楽プロデューサーだったので、勉強にはなりました。留学中はダメもとでメールでビジネスインターンとして就活しました。
そんな時に、同級生からレコーディングサービスの会社に無給のインターンを紹介されたのです。まさに丁稚(でっち)奉公で、大学の勉強や音楽とは無縁の小間使いでしたが、真面目に働きました。生活費は非合法で働くメキシコ人に交じって、大学内のフードコートでブリトーを作るアルバイトで賄いました。
── まさに武者修行ですね。
八木 当初は英語がわからず苦労しました。電話番すら満足にできず、夜6時以降の電話番は本当に大変でした。一番使えないアルバイトだったと思います。だから、なんでもノートに書き留め、わからないことはランチタイムに聞き直す。当時はそれが精いっぱいでした。
でも、そんな真面目さが認められたのか、次第にスタジオの機材操作やノウハウを教えてもらえるようになりました。実績もないのですぐにエンジニアにはなれませんでしたが、スタッフとして認められるようになりました。レコーディング・エンジニアとして仕事ができるようになったのも、こうした日々のコミュニケーションの積み重ねです。
西洋コンプレックスの日本
── 多民族の米国での苦労は。
八木 英語の空気感というか、微妙な言葉のチョイスがわからず文化の違いを感じます。表面上のやり取りは困りませんが、笑い合える距離には入っていけないことがある。特に黒人ミュージシャンとは苦労します。
── 失敗もありますか。
八木 失敗といえば、わかったふりをするとダメですね。仕事ではほんの数秒のやりとりでも、2~3回聞いたらわかったふりをしないと気まずくなるし、そうしないと前に進まず不信感を持たれる。そんな時は、日本人的に後から他の人に聞いてフォローしようと考えたりしますが、事務的な伝言とかささいな会話を理解しないと後で“大惨事”になります。
── スタジオ・エンジニアとしての苦労は?
八木 ミュージシャンごとに仕事の進め方がまるで違います。通常の仕事はタイムキーパーがいてスケジュールで動くのですが、米国ではアーティストのコンディションを優先して動きます。初日はまったく進まないと思ったら、翌日に突然動き出す。決まったペースで仕事をしてくれないからマネジメントができない。ところが、最後にはちゃんと着地しているから不思議で、日本人には理解不能です。しかも、その方がいい作品ができている気がします。
── 日本の音楽業界をどうみていますか。
八木 たとえば歌詞に英語を使うことについて、西洋コンプレックスが強すぎる感じがします。使うなとは言いませんが、海外の見方は冷ややかだと思います。米国にいてコンプレックスのない状態で仕事をしているとそんな気がします。
── エンジニアとしては?
八木 日本の音楽業界は疲弊しているようです。例えば、日本では自分のアパートのコンピューターで作った音楽がそのままトップチャートに乗るという状況もありますが、そのなかには魂が感じられず、芸術のレベルには達していないものもあります。同じコンピューターで作った音楽であっても70年代、80年代のYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)などの試みとは別のものです。
── 音楽ビジネスの未来については。
八木 米国では今、レコードが復活しています。アーティストはネットによる音楽配信ビジネスの一方で、100%アナログのレコードも出しています。日本では高音質なハイレゾ(CDを超える高音質音源)を追求しますが、情報量はアナログの方が多いですから。また、レコードジャケットにはインテリアとしての魅力もありますし。
── これからどんな音楽作りを目指しますか。
八木 バンド形式で、若者しかできない荒っぽい音楽が作れる人材を発掘したいですね。演奏がウマい下手ではなく、コンピューター技術に頼らない、汗だくで伝える心の音楽を作りたいです。
(本誌初出 グラミー賞を3度受賞=八木禎治(SADAHARU YAGI) レコーディング・エンジニア/798 2020・6・30)
●プロフィール●
やぎ・さだはる(SADAHARU YAGI)
北九州市生まれ。レコーディング・エンジニアを志し、九州大学音響設計学科(旧九州芸術工科大学)卒業後、2005年に渡米。ハリウッドでエンジニア・プロデューサーとして活動。米国のほか日本、英国、オーストリアなどのミュージシャンのプロデュースを手掛ける。13年にドラコ・ロサのアルバム「VIDA」でラテン・グラミー賞。14年に同アルバムで本家のグラミー賞。19年にはドラコの「Monte Sagrado」で2度目のラテン・グラミー賞。
(事実関係の誤りなど一部修正しました)