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週刊エコノミスト Online ワイドインタビュー問答有用

5度目のパラ出場目指す=別所キミヱ・車いす卓球選手/799

「思うような練習ができませんが、『今は自分を見つめ直す時間』だと前向きに過ごしています」 撮影=元川 悦子
「思うような練習ができませんが、『今は自分を見つめ直す時間』だと前向きに過ごしています」 撮影=元川 悦子

 夫の急死後、自身が希少がんになり、車いす生活を余儀なくされた別所キミヱさん。車いす卓球と出会い、パラリンピック出場は4度を数えた。1年延期となった東京パラ出場に向け、72歳の今も不屈の闘志を燃やし続けている。(問答有用)

(聞き手=元川悦子・ライター)

「東京は人生の集大成。前進するしかない」

「髪を編み込み、チョウの飾りを埋め込むのがルーティン。全力で生きれば人生は充実します」

── 今年8月25日〜9月6日に予定されていた東京パラリンピックが3月24日、新型コロナウイルスの感染拡大で1年延期されることが決まりました。

別所 延期決定のニュースを聞いた時は、ガッカリ感が強かったですが、「仕方ないな」という気持ちになりました。新型コロナがここまで拡大するとは予想もしていませんでした。

── それまではどんな練習を?

別所 3月22日まで東京・西が丘のナショナルトレーニングセンター(NTC)で強化合宿に参加していました。それも、5月にスロベニアで行われる予定だった世界予選トーナメントに挑むため。それが東京パラ出場権を懸けた大一番だったので、すごく集中していました。

── どんな感染対策を取っていたのですか。

別所 私は現在72歳と高齢で、重症化リスクも高い。そのため、兵庫県明石市の自宅から東京へ移動する際はマスクを着用し、新幹線内ではトイレに入らないようにしていました。NTCではベッドからイス、机、携帯電話まであらゆるところを消毒し、食事中の会話も避けるなど気をつけました。以前はビュッフェ形式だった食堂も個食になりましたね。

── その後はどんな生活を?

別所 新潟市の卓球場でクラスター(感染者集団)が発生したように、卓球は「3密」(密閉、密集、密接)になりやすい環境。これまで練習していた地元の卓球場も閉鎖になり、練習したくてもなかなかできなくなりました。緊急事態宣言が明けてからは地元で週2回くらい練習できるようになりましたが、まだ短時間にとどめて体を慣らしている段階です。ただ、みんな同じ条件だし、今はやれることをやるしかありません。

 1947年に広島県安芸太田町で生まれた別所さん。幼い頃からオシャレ好きで活発な少女だった。高校卒業後に就職し、20歳で結婚、2人の息子に恵まれる順調な人生だった。ところが、40歳の時に夫・勇さんがくも膜下出血で急死。そして、自分も2年後に「仙骨巨細胞腫」という希少がんの一種にかかり、2度の手術を経たが歩けなくなってしまう。

夫の急死後、希少がんに

昨年7~8月の東京オープン大会に出場してプレーする別所さん 別所キミヱさん提供
昨年7~8月の東京オープン大会に出場してプレーする別所さん 別所キミヱさん提供

── もともと卓球に興味はあったんですか。

別所 運動は得意でしたが、卓球はやっていなかったですね。私が育ったのは汽車が2時間に1本しか走らないような山奥。1時間半がかりで歩いて山越えして帰ることも頻繁にあり、足腰は強かった。小中学校ではリレーの選手。ハードル走や走り高跳びもやっていましたよ。バレーボールにも本格的に取り組んでいましたね。

── 20歳で結婚した後は。

別所 夫が地域のソフトボール少年団のコーチをしていて、私は皆さんの世話を焼いたりすることはあっても、スポーツは本格的にはやっていませんでした。その夫が87年9月に突如倒れ、帰らぬ人になった時にはショックでした。最初の1年ほどは仏壇の前でよく泣いていましたね。でも、息子たちもまだ学生でお金がかかるので、何もしないわけにはいかない。ガソリンスタンドでの仕事を見つけて、必死に働きました。

── そんな矢先に自身ががんになったんですね。

別所 はい。89年春に腰と足のしびれに悩まされ、4〜5カ月かけて精密検査をしたところ、仙骨巨細胞腫と分かりました。骨盤の中央にある仙骨の周りに腫瘍ができる病気で、日本では年間500〜800人が発症する希少がんの一種。仙骨の近くには大きな血管が集まっているので、大量の輸血が必要です。60人もの有志に血液を提供してもらい、翌90年1月に26時間の大手術を受けてひとまず成功しました。ところが……。

── 再発したのですか。

別所 半年後に退院してリハビリをしている最中に、また激痛が走るようになったんです。受診の結果、再発だと分かって「今度は歩けなくなります」と宣告されました。1年後の91年1月の手術はさらに大がかりで、86人から血液を募って、ドクター20人体制で34時間がかりの手術を受けました。一時は心臓が止まったと聞きましたが、何とか持ちこたえた。本当によく生き残ったと思います。

── それでも、あまりにもつらすぎる現実が待ち受けています。

別所 10カ月の入院期間をやり過ごして家に帰ったんですが、「車いすでどうやって生きていけばいいんやろ」と途方にくれました。夜中に松葉づえで歩く練習もしたけれど、うまくいかない。いっそ死んでしまいたいと考えたこともありました。そんな時、友人から「できないことを嘆くより、できたことを喜べばいい」という言葉をもらったんです。それがスッと自分の中に入ってきて、気持ちが楽になったんです。

56歳で初出場の快挙

── 周囲の支えはありがたいですね。

別所 好きな手芸から取り組むことにし、ぬいぐるみやキーホルダーなどの小物を作り始めたところ、友人の喫茶店で販売してくれることになりました。そのうち、最初はいすに数分座るだけでも大変だったのに、徐々に作業時間が延び、退院半年後には鎮痛剤の注射も打たなくてよくなりました。そして外出もできるようになった。「病は気から」と言いますが、その通りなんですよね。

── 車いす卓球との出会いは?

別所 92年ごろ、車いすバスケットボールを取り上げた新聞記事を目にして、同じ境遇の人たちがどうやってスポーツを楽しんでいるんだろうと興味が湧きました。実際に練習を見に行くと、いきいきとボールを追う選手が目に飛び込んできて、とても刺激を受けましたね。障害の程度などを考えて私にできるスポーツを探し、翌週には卓球の練習に参加して見よう見まねでラケットを振ったら、意外にもうまく球を返せた。日に日にのめり込み、車いす生活の劣等感や恥ずかしさもなくなっていきました。

── どれぐらい練習を?

別所 最初は週1回だった練習が、面白さに目覚めていつの間にか週3回に増えました。試合に勝てるのが楽しくなり、練習相手を求めて岡山や和歌山まで足を延ばしたり、卓球教本を読み込んだりもしました。94年には日本肢体不自由者国際クラス分け卓球選手権(現在の「国際クラス別パラ卓球選手権」)に出場。女子「クラス5」(車いすのカテゴリーで最も障害が軽度)で初優勝して、とても自信がつきました。

── その後、99年からは国際大会にも参戦するようになります。

別所 卓球王国・中国のレベルの高さには驚きましたが、必死に食らいつきましたね。今月は中国、来月はアメリカ、再来月は欧州といった具合に世界を飛び回るようになり、言葉もロクにできないのに外国人選手と仲良くなったりして、世界が確実に広がりました。海外遠征の際には得意の手芸で小物を作って持参し、プレゼントすると、みんなすごく喜んでくれた。生きている実感が湧きました。

 別所さんが出場する車いすの「クラス5」は、立って試合をすることはできないが、座位バランスは良好で、骨盤を保持しながら体幹の動作が可能なカテゴリー。2002年には、パラに次ぐグレードの障害者卓球の国際大会である世界選手権(台北)に出場してグループリーグを突破するなど、気づけば世界ランキングで上位に入り、ついに04年のアテネパラ出場という大舞台への切符をつかんだ。56歳での日本人女性のパラ出場はまさに快挙だ。

── これまでのパラの印象は?

別所 アテネの時は何もかもが初めてで、「どんなもんなんやろ」と思って現地に行きました。開会式が盛大で、他競技の選手と交流できて楽しかったですが、結果は6位と悔しかったですね。次の北京パラは日本から近かったので、家族や友人が応援に来てくれました。孫に「おばあちゃーん」と叫ばれて体の力が抜けたのをよく覚えています。

 60歳で出場した北京では、卓球では最年長ということで中国のテレビ局から取材を受け、「老女」と報じられてね(苦笑い)。最初は「なんやねん」と思ったけど、反響がすごくて会場ではサイン攻め。後から分かったのは「老女」という言葉には「尊敬する」という意味もあるんだそうです。メダルの懸かった試合でヨルダンの選手に負けてしまい、「次のロンドンでは絶対に勝つ」と心に決めました。

「勝負服」で気合

友人の韓国人選手、チョン・ヨンアさん(左)と 別所キミヱさん提供
友人の韓国人選手、チョン・ヨンアさん(左)と 別所キミヱさん提供

── どう環境を変えたのですか。

別所 それまで働いていたカフェを09年に辞め、卓球中心の生活に踏み切りました。金銭的にはかなり厳しくなりましたが、日本郵政がサポートを申し出てくれました。また、その前からは「バタフライ」の商標で知られる卓球メーカーのタマス(東京)ともアドバイザリー契約を結び、用具提供を受けられることになりました。でも、ロンドンとリオも北京と同じ5位。あと一歩メダルに手が届かなくて、本当に残念です。

── パラ選手の多くが活動費用の捻出という問題に直面します。

別所 私自身もコーチ代や国際大会経費を自己負担しているので本当に大変ですよ。国際大会は参加費だけで10万円くらいかかりますし、欧州遠征だと最低40万円は必要。イベントや講演活動も手掛けていますが、18年に交通事故に遭ってからは体調がいま一つで、現在は新型コロナですべてがキャンセルになって余計に苦しいです。企業所属やスポンサーのいる選手はほんの一握りで、みんな四苦八苦しています。

── それでもパラを目指す原動力は?

別所 「いろんなことに負けたくない」という意地と、「卓球=私」という思いでしょうね。今は東京パラの切符を手にすることが最優先課題です。これまでの最高5位を何としても超えたい。少しでも上に行くために、北京以降の約10年間は、コースに打ち分ける自分の武器を磨き上げると同時に、オシャレにも気合を入れています。

── チョウの飾りを髪の毛にあしらって、「バタフライマダム」とも呼ばれていますね。

別所 国際大会の時は「敵を編み込む」というゲン担ぎを兼ねて、朝から髪を編み込み、チョウの飾りを埋め込むのが私のルーティン。タマスのブランド名「バタフライ」にあやかり、チョウのようにヒラヒラと舞うようなプレーを目指してこの飾りをつけています。ゴールドに日の丸をあしらったネイルとつけまつ毛もトレードマーク。こういった「勝負服」を身にまとうことで戦闘モードに入れます(笑)。

── 今後の見通しは。

別所 私は現在、女子クラス5では世界ランキング8位と東京パラ出場枠には届いておらず、東京パラに出場するには世界予選トーナメントで優勝するしかありません。新型コロナの影響で来年4月に延期された世界予選トーナメントでは、韓国やイスラエルなどのライバル選手が多くいる中で、とにかく優勝という結果を残すことが最も重要です。

 やっぱり東京パラは人生の集大成で、是が非でも出たいですね。これまでにも困難はたくさんありましたが、生きていく限りは前進しかない。「死ぬまで勉強や」が私のモットーで、新型コロナにもめげることなく前向きに頑張っていきます。そして、車いすになっても全力で生きれば充実した人生になる。それを多くの人に知ってほしいですね。


 ●プロフィール●

べっしょ・きみえ

 1947年広島県生まれ。高校卒業後、大阪府豊中市のパン屋に就職。20歳で結婚し、2人の息子に恵まれたが、40歳で夫と死別。42歳の時に自身が希少がんにかかり、2度の手術を経て車いす生活になる。その後、車いす卓球に出会い、本格的に競技の道へ。2004年アテネで初のパラリンピック出場。08年北京、12年ロンドン、16年リオデジャネイロにも参戦し、3大会連続5位。21年の東京大会はまず出場権獲得を目指す。

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