『わさびの日本史』 評者・後藤康雄
著者 山根京子(岐阜大学准教授) 文一総合出版 2500円
DNA解析、文献調査に加え「愛」が探求させた食材の秘密
評者は週に1度は専用おろし金ですり下ろすほどのワサビ好きである。しかし、本書の著者はその比ではない。心血を注いで日本のワサビを探求し続ける生粋の科学者である。執筆の原動力は、おそらく純粋な“ワサビ愛”だろう。そうした深い愛情に支えられた問題意識は、ワサビたちはどのような長旅を経て、今の姿で我々の食卓にのぼるようになったのか、というものである。
著者は最新のDNA解析手法を駆使して、100万年という地球レベルのスケールで長旅を記述する。しかし、生育域の変遷だけでは、当たり前の食材となるには至らない。人々が口にするようになり、大量消費の対象として経済に組み込まれるには、人的な介入が不可欠である。
著者はその点に関しては手法をまったく変え、丹念な文献調査を行う。膨大な数の古い書誌に当たり、推理も交じえ名探偵のごとく旅の足跡をたどっていく。それにより、山奥にひっそり自生していたワサビの“メジャー化”の背後に、実に多くの画期的な出来事があったことが明らかになってくる。そこで重要な働きをしたのは、時に戦国武将、時に地域の傑出した人物と、さまざまである。
特に経済の視点から捉えると、すしやしょうゆの普及など、ワサビの消費拡大につながる需要側の要因が指摘される。さらに重要なのは、大量生産を可能にする栽培技術の進展という供給側の革新である。ワサビというと、豊かな自然の産物というイメージだろう。確かに一面事実だが、我々は天然ワサビを食しているのではなく、極めて人工的に育成された栽培ものを味わっている。それは偶然の要素も取り込んだ、まぎれもなく先人たちのイノベーションの成果である。筆者は純然たる科学的関心から本書を著したのだろうが、壮大なイノベーション史としても読みごたえ十分である。
最後にやや私見を述べたい。著者は、唐辛子などに比べて栽培、流通の難しさが市場拡大のネックとなることを危惧する。それはもっともだ。しかし、デリケートな商品性は条件次第で、市場への新規参入を阻んで付加価値を生む強みにも転じられる。フランスを中心に製作された映画「WASABI」では、居酒屋の突き出しに大量のワサビのみが出されるなど、その扱いに違和感を覚えた日本の観客は多いだろう。少なくとも海外でワサビの真価が理解されているとは私には思えない。
武骨な根茎に、大男をも泣かせる成分を秘めた愛しき植物の今後の可能性を信じたい。
(後藤康雄・成城大学教授)
山根京子(やまね・きょうこ) 京都府出身。岐阜大学応用生物科学部准教授。ワサビに関する科学的探究のほか、ソバ属をはじめとする植物遺伝資源の保全活動にも取り組んでいる。