『三島由紀夫 悲劇への欲動』 評者・将基面貴巳
著者 佐藤秀明(近畿大学教授) 岩波新書 860円
失われた「絶対者」求める作家 生涯と作品を評伝形式で追究
私は中学生時代以来、三島由紀夫に魅了されてきた。憂国忌に足を運んだことがあるし、三島が楯(たて)の会主要メンバーと「決起」を計画したというサウナ(現在は取り壊されて存在しない)を訪れたこともある。三島由紀夫の作品が、人を魅惑し続けるのは、三島の多方面にわたる華麗な活動と無関係ではなかろう。その意味で、本書のように、三島の作品群を評伝形式で論じることには必然性がある。
本書は、三島の生涯と作品を貫く、ある根源的な情念や欲望(これを著者は「前意味論的欲動」と呼ぶ)を切開することで、三島思想のいわば「臓腑(ぞうふ)」をざっくりえぐり出している。その根源的欲望とは、「身を挺(てい)する」ような状況への関わりを通じて自身を「悲劇的なもの」にしようとする情念である。戦時中の時代状況は「身を挺する」ことも「悲劇的」たることも「通俗的」になりすぎていた。むしろ、もはや「身を挺する」ことが不可能となった戦後になってはじめて英雄的自己犠牲への欲求が頭をもたげたのである。「悲劇的」たらんとする欲望は、ごく当たり前の市民生活とはなじまない「生き辛(づら)さ」を体現する人物像を描く『仮面の告白』以来の作品群に結実した、と著者は論じる。
「身を挺する」対象が明確になったのは、三島自身によって映画化もされた『憂国』以後である。「天皇」を無条件的忠誠の対象である「絶対者」として三島は構想した。しかし、それはあくまでも絶対的「理念」としての天皇であって、戦後日本の「現実」の天皇には呵責(かしゃく)ない批判を三島は浴びせた。『英霊の声』では、人間宣言を行った天皇に対して「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」という呪いの言葉を投げかけた。しかも、「理念」としての天皇を救い出すために、「現実」存在としての天皇を殺害することも考えていた、というのだ。そもそも三島にとって「絶対者」は天皇である必要はなかった。三島が欲したのは、「絶対者」を追求することから生じる「生き辛さ」を突破して、自ら超越的聖性を獲得することだったからである。こうした思想は、どこか宗教的な色彩さえ帯びている。
「絶対者」が失われた戦後日本の思想空間に「絶対者」を新たに創り出そうと試みたのが三島の「最期」だったことを明らかにする本書は、謎めく三島の思想世界の深層に一筋の光を照射するだけではない。三島という「鏡」に映し出された戦後日本の思想状況について深い思索へと誘う名著である。
(将基面貴巳、ニュージーランド・オタゴ大学教授)
佐藤英明(さとう・ひであき)
1955年生まれ。立教大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。神奈川文学振興会職員などを経て現職。三島由紀夫文学館館長も務める。著書に『三島由紀夫 人と文学』など。