遺体から生まれた「遺体」 イラク舞台の快作を読む=孫崎享
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私がイラクにいたのはイラン・イラク戦争の時で、30年も前。だが湾岸戦争やイラク戦争が続き、この地には特別の関心を持ってきた。だから、アフマド・サアダーウィー著『バグダードのフランケンシュタイン』(集英社、2400円)を読むのは自然だが、読む決心をしたのは、2018年英国ブッカー国際賞最終候補作品になっていたことによる。
この本はイラク戦争が完全に終わっていない05年のバグダッドが舞台である。サダム・フセイン政権時、スンニ派が支配していたが米軍の介入でシーア派が政権を担った。これに対しスンニ派が自爆テロで抵抗していた時期である。
作品では、古物商ハーディーが町で拾ってきた遺体のパーツを縫いつなぎ、一人分の「遺体」を作り上げた。この「遺体」は翌朝忽然(こつぜん)と消え、動き回り、恨みある者に復讐(ふくしゅう)を開始する。話の主人公が特定されていないことがこの本を複雑にしている。
話は次のグループから成る。
第一に消えた遺体、第二に縫い合わせた古物商とその周辺の人々、第三に作られた「遺体」の活動を追うジャーナリスト、第四に治安責任者。これらが絡み合ってくる。
よみがえった「遺体」は復讐を重ねていくが、彼が100%正しいわけでもない。登場人物の誰をとっても、完全に理想的な人物もいないし、理想的な行動だけをするわけでない。そしてこの中に、イラク人特有の物の見方や生き方が入ってくる。
◦後ろ盾のないキリスト教徒の老婆
◦アメリカ人怖さからイスラム法の実行もせず、人々を救わない政府
◦「徒党を組まず、党派を持たない者は神のみである」と思う占星術師
◦国家権力への奉仕のためなら手荒な行動を取るのにちゅうちょしない者
◦犯罪者を糾弾したが、命が危なくなりバグダッドに逃げた記者
◦敵との戦いを目指しつつ、自らの心に悪が入っていると自覚する者
こうした人物がバラバラに紹介されるので、最初は読みにくい。しかし最後にはこれらが一つの筋にまとめ上げられていく。ブッカー賞最終候補に残るに値する本である。
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スティーブン・グリーンブラット著『暴君 シェイクスピアの政治学』(岩波書店、860円)はトランプ前大統領を意識して書いたものだろう。本の主題は「なぜ国全体が暴君の手に落ちてしまうということがありえるのか」である。
シェイクスピアはユリウス・カエサルやマクベスなど古い時代の人々を描いているが、著者は「現実からそれなりに距離をとったほうが真実をかたりやすいのだ」と記している。
では真実にどんなものがあるか。「暴君の勝利は、敵を抹殺していきながら紡がれていく嘘やいんちきの約束に基づいている。暴君を王座へと導く巧みな戦略には、王国をどう統治するかという視座はなく、その視座を作ってくれそうな顧問官を集めることも出来ない」。さて、トランプはこの本を読んだだろうか。
(孫崎享・元外交官)
■人物略歴
まごさき・うける
1943年生まれ。東京大学法学部中退、外務省入省。国際情勢局長、駐イラン大使などを歴任。著書に『日本国の正体』など。
この欄は、荻上チキ、高部知子、孫崎享、美村里江、ブレイディみかこ、楊逸の各氏が交代で執筆します。