週刊エコノミスト Online サンデー毎日
3・11から10年、サンドウィッチマンが今も忘れない津波直後のあの臭い
仙台市出身のサンドウィッチマンの伊達みきおさんと富澤たけしさんの2人は2011年3月11日、宮城県気仙沼市でテレビのロケ中だった。津波から高台に逃れ、命をつないだ。
――地震発生時で今も克明に浮かぶことは。
伊達みきお 臭いですね。気仙沼港で船が津波で洗濯機のように巻き込まれ、ぶつかる凄い音が周りの山に響いた。その音と重油が海水と混ざったような、あの臭い。3・11には毎年、気仙沼に行ってるんですが、黙とうの午後2時46分にサイレンが鳴ると、あの臭いがよみがえってくるんです。
「津波が来る前に水が引いたんです」
富澤たけし 津波が来る前に水が引いたんですよ。ちょうど港の渡し場を見ていたら、「あれっ? 浅くなってるなあ」と。そして、何十分か後に津波が来た。津波って一旦引くんですね。だから、油断してしまうのかもしれない。怖いですよ。僕には、その光景がありますね。すぐ高台に上がったけれど、一足遅れていたら危なかったですね。
「100人に80個のお饅頭ではダメなんです」
――これまでの支援の活動を振り返って……。
伊達 「芸人として何ができるかな」ってまず思いますよね。東京で周りの皆さんたちは、「笑いで元気に」とおっしゃる。僕らも、その気になって現地に行って、コントとかやりに行ったのですが、やはり、そんな状況じゃないんです。誰も笑いを求めていない。
震災直後に支援物資を、たくさん持って行ったんですが、初めて避難所のルールを知りました。例えば100人いらっしゃる所にお饅頭を80個買って行き「少し足りませんが、どうぞ召し上がってください」と渡すと「20人は食べられない。お持ち帰りください」と。僕らは良かれと思って買って行ったのですが、現場を知らなさ過ぎた。支援で何が大事なのかを学びました。
大事にしている50人のバスツアー
富澤 いろいろな活動で、僕が大事にしているのはバスツアーですね。50人くらいの規模ですが、全国から募集して一緒に東北を回るんです。回りながらトークライブをやったり、語り部の方からお話を聞いたり。お土産屋さんで特産品も買ってもらう。去年は新型コロナウイルスでできませんでした。落ち着いたら、また必ずやりたい。
東北に行ってみようと思っても、一人だとなかなか行きづらいかもしれません。みんなで一緒に楽しみながら、復興につなげられるようなものも、大事かなと思いますね。
自分の軽トラを置いていったボランティア
――2人の原動力は?
伊達 故郷ということもあるし、同級生が亡くなったということもあります。でも、震災直後から始めた東北魂義援金の口座に、全国から多くの皆さんにずっと入金していただいている。毎年(震災に関係した人の)命日に振り込んでくださる方とかが、いらっしゃる。僕らを信用してくれて、大事なお金を預けてくださる。「頑張らなきゃ」という思いは強くなります。
――この10年間、印象に残ったことは何ですか?
伊達 震災直後に宮城県の南三陸町に行ったんです。そこに千葉ナンバーの軽トラックに乗った年配の方がボランティアで来られた。テントや支援物資も積んで、1週間ぐらい活動されたんですが、帰る時に「この軽トラ、どうぞ使ってくれ」と置いて行ったんです。どうやって帰ったのかな。
――鉄道も当時は動いていなかったから……。
伊達 みんなで言っていたのは、「歩いて帰ったんじゃないか」と。でも、この10年間、そういうボランティアとか絆というのを、すごく感じるんです。
熊本地震の時には南三陸町の人が、今度は自分の軽トラで熊本に向かったりとか。僕の実家のガスの修復をやってくださった方は、大阪ガスの皆さんたちだったんですが、聞いてみると「阪神大震災の時に仙台から応援に来てくださった。来るのは当たり前」と。恩返しの恩返しというのか、つらいことも多いのですが、その絆というのか、感動しました。
ペットを亡くした辛さを吐き出せなかった
富澤 震災から1年後ぐらいに被災地で、お会いした女性が「ペットを亡くしたことをずっと話せなかった」と打ち明けてくれた。「自分よりひどい思いをした人がいっぱいいる、家族を亡くしたり」と。そうやって互いに話せなくなるんだと。
時間がたち、少しずつ話せるようになってきたかもしれませんが、心にしまってきた人が多い。どこかで吐き出さないといけないんじゃないか。それが課題じゃないでしょうか。僕らみたいな地域外の人や、ボランティアの人には話せるかもしれませんね。
ニュースにならない「自分だけが」という苦しみ
――心の問題ですね。
伊達 僕の同級生は奥さんと子どもさん2人を、津波で亡くしたんです。奥さんのご遺体は2週間ぐらいしてがれきの中から見つかったけど、子どもは行方不明。それで自分で長い竿を持ち、水の中に腰まで入って子どもを探し続け、子どもを見つけたんですね。
その後、仮設住宅に入って頑張っていたんですが、奥さんの火葬から1年後に自死しました。お線香をあげに行った時、遺書を見せてもらったんです。「子どもに会いに行ってくる」って書いてありました。ニュースにはなっていないけど、自死は多いんです。自分だけ生き残ったことが申し訳ない、と。
富澤 復興住宅とか震災遺構とかが、でき上がっています。単純に外から見ていると、「どんどん建ってるなあ」と。でも、住民の皆さんからすれば、その場所で家族や多くの人が亡くなっている。その風景を、街の人が受け入れているのかなあ、と考えさせられますね。
廃炉のために入社した浜通りの子
――政治や政府に望むことはありますか。
伊達 先日、ある番組で福島の原発に防護服を着て入り、廃炉作業の現状を見てきたんです。作業員の方は必死に頑張っていて、その中に若い作業員がいた。聞くと福島出身なんですね。震災当時は中学生や高校生で、浜通りの子だったんです。「彼らは原発に良い思いはないんじゃないか」と思っていましたが、「俺たちが廃炉にするんだと入社した」と言うんですね。そんなに彼らと接して、心を打たれました。政治はぜひ原発問題、廃炉や処理水など、しっかり取り組んでほしい。
政治家の方々は現場に直接行ってほしい
富澤 新型コロナ対策を政府にしっかりやってもらいたいです。収まってくれないと「東北に来てください」とも言えない。新型コロナが復興を止めている。東北は人口も減って行っていますから心配です。とにかく、政治家の方々には現場に直接行って、話を聞いて、何が必要なのかを分かってほしいですね。
10年は区切りでも終わりでもない
――これから震災と、どう向き合って行きますか?
伊達 5年とか、10年とか、関係ないですね。福島県相馬市のレストランのオーナーは「10年たって、今ようやく観光1年目」とおっしゃった。区切りでも終わりでもなく、まだ緒についたばかり。
義援金口座も続けます。これまでは「震災孤児に渡してください」と届けてきたんですが、その分野には行き渡りつつあります。今度は何か形に残したい。被災地では今、避難スペースにもなる公園などができています。そういう所に、子どもの遊具とかベンチとかを残したい。義援金を寄せてくださった方々が、それを見るために東北を訪ねることにもなります。
三陸沿岸の街だけのツアーをします
――芸能活動を通じては?
伊達 地元のテレビ番組は続けます。月1回、必ず行ってロケをやって。それからライブも。実は、10年の節目に計画していた幻のツアーがあったんです。これ富澤が考えたんですけどね。
富澤 僕らは毎年ライブを日本全国、回っているんですけど、今回は東京や大阪などの大都市ではやらず、三陸沿岸の街だけを回ろうと。今回のツアーは、そこで(三陸沿岸)でしかやらない。 それなら見たい方々や関係者が、全国からも三陸に来てくれるでしょ。震災10年に合わせてやろうと。でも、新型コロナでツアーそのものが中止になってしまいました。残念でしたが、これを必ず、いつかやろうと思っています。
「とにかくおいしい東北に来てほしい」
――最後にメッセージを
伊達 2月の地震(福島県沖地震)も、みんな10年前をすぐ思い出した。思い出すということは「あの時」がまだ、みんなの頭にあるんです。風化なんかしていないんです。「風化」とか言ってほしくないです。
富澤 とにかく東北に来て欲しい。東北は海の物もおいしいし、お酒もおいしい。僕らはお酒を飲めないし、僕は海の物も苦手ですが(笑)。新型コロナが収束したら、ぜひ来てください。(聞き手:鈴木哲夫・ジャーナリスト)
サンドウィッチマンの主な被災地支援活動
・「東北魂義援金」開設(2011年3月~今年2月)総額4億9117万5719円
・被災3県でのライブ、トークショーなど多数。東京でも復興イベント主催
・東北の企業とコラボした商品の全国展開
・「サンドウィッチマンの東北魂」(ニッポン放送)、「サンドのぼんやりーぬTV」(東北放送)などテレビラジオ番組多数
◇聞き手・略歴
すずき・てつお 1958年生まれ。ジャーナリスト。テレビ西日本、フジテレビ政治部、日本BS放送報道局長などを経てフリー。豊富な政治家人脈で永田町の舞台裏を描く。テレビ・ラジオのコメンテーターとしても活躍。