42年に自ら幕、鈴木修・スズキ会長の「軽自動車」世界チャレンジ一代記
「はらわたは煮えくりかえっている」、「バカにしやがって!」。官僚や大手自動車メーカーに対しては語気を荒げ闘争心をむき出しにしたかと思うと、「自動車産業がこの先どうなるとか大きな話は、大手さんに聞いてくれ。スズキは浜松の中小企業」といつものフレーズで記者たちを煙に巻いてしまう。「経営は数字。相対値はダメ。絶対値でないと本質は見えない」と欧米人経営者のような発言する一方で、「ハート・ツー・ハート。(スズキ車を販売する修理工場などの)業販店は資本関係がなくとも心でつながる身内」と浪花節を奏でてみせる。スズキの会長から相談役に退く鈴木修。特長はその変幻自在ぶりだが、波瀾万丈な半生がカリスマ経営者を生成したのだろう。
自動車メーカーのスズキで42年余り経営トップを務めてきた鈴木修会長(91)が6月に退任する。インドで現地シェアトップのメーカーに育てるなど会社の成長をけん引してきたほか、日本の軽自動車そのものをつくり上げてきた。
昭和5年生まれの予科練性
鈴木修は1930(昭和5)年1月30日生まれ。
ニューヨークで株価が大暴落した”暗黒の木曜日”のほぼ3カ月後に当たる。
出身は岐阜県益田郡下呂町大字森(現在の下呂市)、農家の四男であり旧姓は松田。「下呂の山奥で育ったから、世界中のどんな料理を食べても腹をこわさない」そうだ。
旧制中学の途中で、甲種飛行予科練習生に合格し、宝塚の海軍航空隊へ(甲種は予科練の最上位)。一時は、若い命を国防に捧げる。あるとき、淡路島への移動が命じられ、自身は上陸できたが、仲間の乗る輸送船が撃沈されてしまう。「私が乗るかもしれなかったのだよ」。
元銀行マンの娘婿
戦後は師範学校を卒業し世田谷区の小学校で教員を務めるが、参議院議長の山東昭子は教え子だった。「戦後の混乱期でね、猫も杓子も大人たちはみんなストライキばかり。子供たちを前に身につまされる思いをしたよ」
働きながら、当時はお茶の水にあった中央大学法学部に学び53年に卒業し中央相互銀行(現・愛知銀行)に就職。当時学生から一番人気があった炭鉱会社にも採用されたが、「遠くに行かないでほしい」という母親の願いを聞き、地元に就職する。銀行員時代に、スズキ第2代社長の鈴木俊三に見出されて娘婿に。スズキに入社したのは58年だった。
ちなみに、2代目俊三、3代目實治郎、4代目の修と、スズキは娘婿の社長が3代続く。現社長鈴木俊宏は、創業者である道雄以来の創業家直系トップである。
ジムニーのヒット、目白の田中邸には排ガス規制で陳情
鈴木修は豊川工場建設をはじめ、東京駐在の常務時代にはホープ自動車(かつてあった軽メーカー)から製造権を得て1970年には軽四輪駆動「ジムニー」を商品化してヒットさせるなど、実績があった。
ただ70年代は、国の排ガス規制から、スズキは苦境に立たされる時代でもあった。実は当時、スズキだけが2サイクルエンジンを採用していたため、炭化水素(HC)の発生量が多かったのだ。
専務だった鈴木修は74年9月国会に呼ばれ、旧社会党の土井たか子らから厳しく追及される。
霞が関、永田町を鈴木修は毎日陳情して歩く。目白の田中角栄邸も訪れ、「田中先生、お願いでございます。どうか中小企業をお助けください」と頭を下げた。
この結果、規制の実施は延期される。が、スズキ技術陣は、HC対応の技術開発を果たせない。
76年には、トヨタからダイハツ製4サイクルエンジンの供与を受けていく。トヨタ自動車工業社長(当時)だった豊田英二は鈴木修に「潰れるんじゃ仕方ない」と話したとされる。また、岳父である俊三は「何か(重大事が)あったら豊田さんに頼みなさい」と修に言葉を遺したそうだ。
48歳で社長に緊急登板
78年6月、鈴木修は急きょ社長に就任する。48歳だった。實治郎が病気で倒れたため、緊急登板だった。
就任後、最初の4年で重要事項を決定し、経営の基盤を固める。
47万円のアルトが大ヒット
79年に全国統一価格47万円で軽自動車「アルト」を発売しヒットさせる。
ここで得た利益で4サイクルエンジン設備を導入、さらに小型車「カルタス」開発に着手し、軽専業から脱却する。
米ゼネラルモーターズ(GM)との提携は81年。
82年にインドに進出
82年にパキスタンで現地生産を開始し、同年10月インドでの現地生産・販売の正式契約を結ぶ。
「GMは鯨、スズキは蚊。蚊なら舞い上がれて、呑み込まれない」、「自動車メーカーのない国に出れば一番になれる」、「日本では田舎の人が一番信用できる。ただし、田舎には金がない」…。何かと、名言の多い経営者だ。
GMからVWに変わり対立
その後、現在に至るまで、これらの決定に基づきスズキの経営は方向付けられてきた。
大きな誤算はGM。経営が傾いたGMに代わり資本提携した独フォルクスワーゲン(VW)とは激しく対立し、関係を解消。現在は、トヨタと提携している。
20年前からの事業承継をついに実行
43年間、一人の経営者が指揮棒を実質的に振ってきたスズキ。電動化への対応の遅れ、インド事業に依存した「インド一本足打法」からの脱却、国内の軽自動車販売を支える業販店の後継者難--など、いまも課題は山積している。
「相談役として挑戦し続ける」と91歳の鈴木修は力を込める。
だが、カリスマの会長退任は、20年以上も前からスズキにとって最大の課題であった事業承継が、ようやく実行されたことを表している。
78年以来、鈴木修が下した最大の決断は、自身に対する今回の人事といえよう。
(永井隆・ジャーナリスト)