教養・歴史いま学ぶ!渋沢資本主義

預金を通貨にした銀行システム=靎見誠良/3

    大阪手形交換所の様子(1936年)
    大阪手形交換所の様子(1936年)

     今や我々が現金(キャッシュ)を使う機会は減り続けている。給料は銀行の預金口座に振り込まれる。物を買ってクレジットカードやスマートフォンを使って払えば、預金口座から引き落とされる。電気やガスの代金も口座振替で自動的に引き落とされる。企業間の商取引でも現金は全く現れない。

     こうしたキャッシュレスの背後に、預金口座に基づく銀行の決済メカニズムが働いている(図)。買い手と売り手が同じ銀行に預金口座を持っていれば、銀行内の振り替えで済む。取引銀行が違う場合は、銀行間で互いの債権債務を計算し相殺し合う。それを行うのは銀行の共同組織、手形交換所であり、全銀システム(全国銀行データ通信システム)である。相殺した差額は、日本銀行に置かれた各行の預金口座振替で決済される。

     このような決済機構が日本に現れたのは明治のことで、渋沢はその構築に大きな役割を果たした。

    銀行が連携組織

     渋沢は明治初め、大蔵省(現財務省)で国立銀行制度の構築に尽力し、下野したあとは自ら第一国立銀行を率い、西欧流の銀行制度の導入に力を注いだ。当時求められていたのは、金属貨幣を用いた決済から脱却することであった。

     第一の課題は現金を金銀銅貨から紙幣化することであり、1885(明治18)年の日本銀行券の登場によって定着した。

     第二の課題は、商取引の支払いを現金での払いか延べ払い(後払い)から、手形や小切手(囲み)など紙券へ切り替えることであった。後払いの期限と支払人を明記した手形によって、取引を巡る債権債務の権利関係が明確となり、手形=権利の譲渡が可能となる。これによって銀行による手形割引の途(みち)が開ける。商人は売掛債権を流動化でき、運転資金調達の重荷から解放される。

     預金を集めて手形を割り引き、貸すという西欧流の銀行を構築するには、商取引の土壌そのものを整えねばならず、渋沢にとって手探りの積み重ねであった。

     江戸時代、日本の金融は大阪の両替商を軸に相当の発展を遂げていたが、西欧の金融概念からすると、いくつか問題があった。そもそも江戸・大阪・京都の3都の両替商仲間による狭い閉鎖的なシステムであった。両替商が扱う「手形」は、今の銀行券、手形、小切手に当たるものが未分化の状態にあり手形割引の慣行はなかった。

     渋沢はまず、銀行券や手形、小切手の概念を紹介、啓蒙(けいもう)し、書式を西欧風に整えたうえで、手形や小切手の流通の振興を図った。

     1876(明治9)年の国立銀行条例改正を機に銀行設立ブームが生じ、瞬く間に銀行券を発行できる国立銀行153行、それに無数の私立銀行が各地に設立された。渋沢は第一国立銀行の経営を通してこの革新を先導し、東京・大阪の大銀行が続いた。

     その後の金融当局による手形取引の勧奨もあって、伝統的な延べ払いも徐々に西洋風の手形形式に切り替えられ、また現金に代わって小切手の利用も浸透していった。その流れは明治期に地方の中小銀行にも浸透し、次第に渋沢が目指した預金銀行モデルへ近づいていった。

     1877(明治10)年の西南戦争後、国内で多数の銀行が活動するのに伴い、渋沢は銀行間を結ぶ組織について新しい試みを始めた。

     まず、銀行仲間に呼びかけて大阪に銀行苦楽部(くらぶ)、東京で択善会(たくぜんかい)を組織し、銀行同士による啓蒙活動ならびに協同活動の場を開いた。

     銀行の数が増えてくると、手形や小切手を銀行間でどのように決済するか、新たな課題が生じる。銀行間の現金支払いを避けるためには銀行間を結ぶ連携組織が必要であった。そのために渋沢は早くから手形交換所の必要性を説いた。

    2都集中の夢かなわず

     渋沢の構想は、全国の手形・小切手を東西2都の交換所で決済するという壮大なものであった。渋沢の構想は東西の銀行集会所で議論されたが、その道筋は東西でやや異なった。

     手形交換所が最初に組織されたのは大阪だった。1879(明治12)年、日銀が設立される3年前であった。東京は8年遅れて1887(明治20)年であった。そのためもあって両者には決済方法に違いがみられる。

     東京の手形交換所では交換尻(相殺差額)の決済は、現在のように日銀に置かれた各行の預金口座の振り替えで行われた。これに対し、大阪は日銀を介さず小切手で行われた。大阪の交換所が日銀口座決済を行うようになったのは、1901(明治34)年の金融恐慌後のことである。

     渋沢が掲げた構想のように、全国の手形・小切手を東西2都の交換所で決済するためには、地方宛ての手形・小切手をどちらかに持ち込んで集中決済する必要がある。その試みは何度か議論されたが日の目を見ることはなかった。

     戦前の日本は、全国各都市に手形交換所が置かれ、同一都市宛ての手形・小切手は現金を見ることなく決済されたが、都市を超えた隔地間で現金支払いを避けるためには、相殺相手を一つ一つ探す煩雑な内国為替によらざるを得なかった。渋沢が願った全国集中決済は、戦時下の1943(昭和18)年、日銀が全国の銀行間の債権債務をまとめて相殺する内国為替集中決済制度の導入まで待たなくてはならなかった。集中決済の導入に至ったのは、大銀行にとって各行間で分散的に行う為替業務の採算性が下がったためである。民間銀行が集中決済を構想し、日銀に担うよう求めた。

     日銀は戦後、集中決済制度の運営主体を民間に譲り、現在の全銀システムに至っている。

     渋沢が築き上げた預金銀行システムによって、日本経済は現金の制約を離れ、産業化の歩みを始めることができた。第一にそれまで分散していた資金を「合本(がっぽん)」することで、新産業へ規模の大きい金融の途を開いた。第二に預金取引を導入することで現金の制約を超えた貸し出し(信用創造)が可能となり、経済成長に弾みがついた。

     明治維新から約150年、近年の電子化によって預金銀行の座は揺らぎつつある。ブロックチェーンの分散技術は日銀を頂点とする管理システムを揺るがす。渋沢が両替商から預金銀行へシステムの大転換にチャレンジしたように、我々は金融のリストラクチャリング(再構築)に直面している。

    (靎見誠良・法政大学名誉教授)


    手形と小切手

     いずれも額面の金額の支払いが受けられることを示す有価証券。金銭と同じ価値がある。手形(約束手形)は支払期日がある。取引の支払いを手形で行った場合、支払期限が来ると、買い手=債務者は取引銀行に預けておいた当座預金を引き当てに小切手を振り出す。小切手を持ち込まれた銀行は預金者に代わって払う。売り手=債権者が支払期限前の手形を銀行に持ち込むと、銀行は手形割引、つまり期限までの利息を額面から割り引いた金額で現金化する。

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